麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第823回)

2023-08-27 07:53:06 | Weblog
8月27日

バプテスマのヨハネ。聖書では、イエスに洗礼を施し、領主ヘロデの近親婚を非難したために殺された預言者(このときのドラマがいうまでもなく「サロメ」)。史実的には、当時何人もいたという自称キリストのひとりだったに違いありません。その発言や風貌の雰囲気からすると、イエスよりなお聖者という印象が強いですが、イエスのように弱い者に味方するという雰囲気はあまりありません。なにか修行僧という感じ。と、思って描いた落書きです。


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生活と意見 (第822回)

2023-08-20 01:17:53 | Weblog
8月19日

今年になってから、めずらしく村上春樹をまとめて読みました。「1973年のピンボール」→「風の歌を聴け」→「羊をめぐる冒険」→「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」。若い時に読もうとしてどれも途中で挫折していたのですが、今回は読めました。三部作についてひとつ感じたのは、やはり人間には階級があって、作者は自分の生まれた階級としては当たり前の話し方をしているのだろうけど(けれど、のほうがいいか)、それが下層階級に生まれた若いころの私には、きざったらしくて耐えられなかった、ということ。そういう階級の話なんだ、として読めばべつに気にならなくなりました。

「世界の終わりと~」は、とてもおもしろかったです。若いとき、読もうとして冒頭近く、「プルーストのように長い廊下」という表現が出てきたとき、「プルーストをバカにしてるのか」と憤慨してもう読めなくなりました(たぶん、もともと好きではないから余計引っかかったんでしょうね)。大江健三郎みたいなくどくどしい記述もうんざりでした。が、今回はそこを押して進みました。と、「世界の終わり」の世界がすごく自分の好みに合っている、と感じました。童話的であり、カフカ的であり、これから惨劇が起こるのを待っている世界のようでもあるけど、なにかよかったです。

そうして(主に書きたいのはここからですが)、「世界の終わりと~」のように、二つの物語が交互に進んでいくものがたしかあったな、と思い探してみたら、フォークナーの「野生の棕櫚」の文庫が出てきました。これは、「野生の棕櫚」という物語と「オールド・マン」という物語が交互に進んでいくもので、たぶん、こんな試みはフォークナーがこの作品で行ったのが初めてだと思います。この文庫は私が生まれる五年前に初版が出ていて、それを94年に復刊になったとき買って読まずにいたもの。旧漢字、旧仮名遣いです。また、訳者が、ちょっと癖のある大久保康雄さんで、意味がとりにくいところや、明らかに誤訳だろうというところもあります(たとえば訳文の記述が矛盾していて「オールド・マン」の主人公の年齢が本当はいくつなのかわからない)。が、それでも今回、これを機会にがんばって読み進んでみると、大変おもしろかったです。フォークナーは「響きと怒り」をかなり前に読んで、ここでもなにか書いた覚えがありますが、再読はしていないし、好きな作家ではありませんでした。が、今回この作品を読んで、にわかに興味がわきました。可能なら少しほかのものも読んでみようと思っています。
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生活と意見 (第821回)

2023-08-13 08:36:57 | Weblog
8月13日

女子高校生の足。

元・男性誌編集者の本領発揮。
「キリスト」と同様、ただ手を動かしていたらこんな絵になり、そのなかに女子高生の足が浮かんで見えたというだけの話ですが、この膝の裏っ側あたりがなにか妙にリアルな気がして、意図して描いたら絶対できなかったような線になっていると思います。それ以外、意味なし。


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生活と意見 (第820回)

2023-08-06 08:35:43 | Weblog
8月6日

メフィストフェレスといえば、ゲーテ「ファウスト」。初めて読んだのは、高校一年のとき。旺文社文庫の佐藤通次訳でした(いまでも持っています)。なにか、とてつもなく古い、たとえば水木しげるの「悪魔くん」で、悪魔くんとカエル男の会話に登場する古文書のような、「魔法の本」を開くような気持ちで読み始めたら、「何十年勉強しても宇宙の真理はわからない」と絶望したファウスト博士がメフィストによって若返り、女を妊娠させて捨てる、というただそれだけの話(第一部)。「ゲーテってこんなこと書く人なのか」と驚き、古典といっても文学というのはつねにこういうことをテーマとして扱うんだな、と知り、ゲーテと太宰治が同じ人のように感じられておもしろいと思いました。当時、太宰治の文庫はほとんど読み終わっていたと思いますが、まだ文学全般を勉強したいという気持ちはまったくなく、理系の門外漢がのぞき見している、というような気分でいたので「おもしろい」などと感じられたのです。

しかし、第二部はまったく歯が立たず、なにが書いてあるのかわからないので読むのをやめました(なにしろホメロスも「イリアス」も知らないので、ヘレナがどんな存在なのかわかるわけがないし)。そのあとの「ファウスト」とのつき合いはここでも書いていると思います。

いちおう、このとき、「ウェルテル」にも挑戦しましたが、まったく読み進められないでやめました。50歳を過ぎて、秋山英夫訳に出会い、ようやく読めたことも、ここで書きました。

ゲーテはバランスの取れた変人だといまでは思いますが、やはり、私にはバランスの悪い人のほうが魅力的だったようで、「ファウスト」はどの訳書もおおかたきれいなままですが、「ツァラトゥストラ」、とくに最初に買った本は、ボロボロのよれよれになっています。持ち主と同じように。

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