5月18日
ここ2週間で「饗宴」を再読しました。今回は、鳥影社のものを中心に、いくつかの訳を比較しながら読みました。とてもおもしろかったです。同じことをどこかで書いたような気もしますが、年をとればとるほど、対話編のすばらしさがわかります。
昔高校の倫社で初めて習ったときはそうではありませんでした。まず、教師が嫌いだったので、印象は最悪。そういえば(これもどこかに書いたか…)倫社のテストのとき、次の哲学者がどういう思想をとなえたか書け、というような問題があって、ソクラテスやデカルト、カントなどの名前が(カントはいなかったかもしれません)並んでいました。私は、それぞれにいちおう覚えていることを書き、その最後にすべて「~という無意味な思想」と書き加えました。100点満点で4点でした。
若い時は誰でも、たとえばソクラテスへの賛辞「あの人は服装にも、人の容姿にもとらわれない。その人の本質しか見ていない」などに対して、「そんなの当然じゃないか。俺だってそうだ」などと対抗意識を燃やして思ってしまう。ソクラテスのように人の本質だけを見て清貧に生きるのは簡単なことだと思う。実生活を経験していない強みで。自分はバカな虚栄心や虚飾につまずかされることはないと思ってしまう。ところが、実際成人して世俗に出てみれば、自分の暮らしぶりを自慢したいようなくだらない気持ちや、虚飾のための嘘や、あげく虚栄のために子供を有名校に行かせたいなどという欲望にとらわれ右往左往している自分に気づく。というか、それだけが自分のすべてになっている。本質や清貧どころではない。だが、それをやめられない。やめたら女房に怒られるし、そういうものをすべて捨てて生きたら、みんなに笑われるから。――ソクラテスのように生きるのなんて簡単だ。そう言った若者はいつ死んだのか。若者はなぜ何千年と変わらないくだらない大人の一員になったのか。
もちろん、ソクラテスにはほど遠いとしても、たぶん、私はそこまで大人にはなっていないと思います。その証拠に、変色したシャツを着て毎日、人に笑われていますから。とても光栄です。