麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第87回)

2007-09-30 18:00:35 | Weblog
9月30日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

このブログでは、初めから、話題をほぼ文学にしぼろうと考えていて、読むことと書くこととその周辺のことしか書いていません。

ですが、若いころの私がもうひとつ熱中していたのは音楽で、しかしまあ、これは文学以上にものにはなりませんでした。結果としてなにひとつ作品と呼べるものが残っていないのがその証拠です(ただギターはいまでも弾いています。ピアノはほんの一時期やってやめました)。

中には、インスト曲でいまでもギターで弾いている曲もあります。
歌もいくつかは作りました。

アルバムを作ろう、と思ったこともあり(若いころです。許してください)、それは、「学校」というタイトルになるはずでした。全部で10曲くらいになる予定でしたが、出来上がったのは5曲くらいでした。

そのうち4曲ほどの詞をいまだに覚えています。
今日はそれを書いてみようと思います。
凡庸ですが、なんとなく思い出したので。

では、また来週。
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「学校」

2007-09-30 17:59:53 | Weblog
1.お勉強


今日もキミはお勉強
明日もキミはお勉強

蛍光灯の白い光に
頭まで漂白されて

コクヨデスクで
背中丸める


「やる気を出せ」って先生は
いうけれど

やる気を出すと 
ケダモノになるよ

言葉っておそろしい武器で
みんなにらみ合うのさ


誰も憎みたくはない
でも誰とも握手したくない

キミはそんなこと考えて
「どうしようもない」って悟る

せめてお勉強することで自分を痛めつけてみる



2.しつけ


しつけのきびしいママ
吐き気のするようなダダ

ママの言うことは
いつも正しい

ママの言うことは
ためになる

風から身を守り
雨にぬれずに
楽に生きて行けるから

うんと聞かせてよねママ
りっぱな歯車になるよ
ボク ママ


しつけのきびしいパパ
吐き気のするようなダダ

パパの言うことは
いつも正しい

パパの言うことは
ためにばかりなる

「生きることは厳しい」
「生きることは大変」
「生きることはむずかしい」

うんと聞かせてよねパパ
立派な歯車になるよ
ボク パパ

でもそれなら
どうしてはじめから
機械にでも生んでくれなかったかな?

どうしてそれなら
いっそ生まれないように
してくれなかったかな?


3.がまん


いまはつらいけど
がまんしよう

いまはつらいけど
がまんしよう

冬ばかりのときはないさ
がまんすればそれだけ
いいことがあるだろう

がまんすればそれだけ幸せに


いまはつらいけど
がまんなさい

いまはつらいけど
がまんなさい

でもいつまでも
冬だったら?

がまんしてもなんにも
いいことがなかったら?

がまんするのも
あなたの勝手さ


4.建て前

とってもいいことが
学校であったんだ
「友だちを大切にしなさい」って
先生が言ったんだ

ボクは急いで家に帰り
そのことをママに言ったんだ

「うん、それは大切よ。でもね」って
ママが言ったよ
「それは建て前なの。おまえは
自分のことだけ考えてればいいのよ」


とってもいやなことが
学校であったんだ
いじめっ子がのり君を泣かしたんだ

ボクはとってもいやだったけど
見ないフリをしたんだ

「うん。それでいいのよ」って
ママが言ったよ
「おまえまでまきこれて傷つくことはないのよ」

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生活と意見 (第86回)

2007-09-23 19:38:23 | Weblog
9月23日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

コメントをいただいた“黒さん”に刺激されて、「赤と黒」をもう少し読み進みました。すると、もう少し読めました。ただ、やはり、以前と同様ジュリヤン・ソレルにあまり興味をひかれません。というか、ジュリヤン・ソレルのような男がどうなろうが知ったことか、という感じになってしまう。

もちろん、ジュリヤンのような人が人間の中でメジャーであり、望ましい青年像であるのはたしかでしょうが、もともとマイナーな人間の私には、受けつけないなにかがあるようです。

子どものころ、戦争映画を見ると、友だちはみんなすぐに指揮官の立場に自分を置いて見ることができるらしく、戦略の巧みさに感動したり、勝利の場面にわいたりしていました。でも、私は(まず心根が弱虫なので)、行軍シーンにちらとだけ出る無名の青年に自分を投影することしかできず、「この人は最後にお母さんと別れたときどんなに悲しかったろう」と思うとそれだけで涙が出そうになって、戦略だとか勝利だとかいう大局をまったく理解できなくなるのです。そうして自分なら、お母さんと離れて外国で、毎日体育の授業をやっているようなこんなことは絶対にできない、と強く思うのです。

基本的には、私は何も変わっていません。
大局というのがなんのことなのか、いまだにわからないし、権力を得たいと望む人の気持ちが理解できません。政治にも興味がありません。国、という考えもよくわかりません。

よかったな、と思うのは、こんな自分には子どもがいないということです。もしいても、残念ながら私はこの世界のよさについてわずかしか語ってあげることはできないし、自分が生まれてきてよかったのかどうかはっきりとはいえないので、「じゃあ、なんで作ったんだ?」と聞かれたら、「ごめん」と答えるに違いないからです。こんな親はもちろんいてはいけません。

人間はジュリヤンのようなのがメジャーで、自然で、望ましいことは間違いありません。

そうして、私はそんなジュリヤンにまったく興味を持てないマイナーな人間です。

では、また来週。
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生活と意見 (第85回)

2007-09-16 21:47:03 | Weblog
9月16日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

昨日、ふと思ったのは、
「今日、87歳で死んでいく人に、空はどういう感じに見えたろう?」
ということ。
2007年なので、ただ87歳、と思いついたわけですが、1920年生まれの人からすれば、若いさかりのときを戦争とともにすごし、25歳でおそらくそれまでの自分の価値観の全てが変わって、二度生まれたように感じたに違いありません。
発展発展発展ときて、60年代に40歳代、20歳年下の人々の思想運動を驚きと皮肉をもって眺め、70年代に50歳。金もあり、なんとなく自信もつき、日本も世界に評価されて、いい気持ち。しかし、そう思っているうちに、60歳で80年代。なにかゆるいときが長くつづくなあ、と思っているうちに、気がつくと本当の老人になっている。たぶん、彼にとっては、大阪万博くらいが最後の強烈なリアルで、あとは夢のように過ぎていった(少なくとも87歳の今日から振り返ってみると)のではないでしょうか。そこからは、毎日毎日、彼が見ていたのは、すでに現在の空ではなく、思い出の中のいつかの空。というより、自分の中の空という概念だったことでしょう。その概念すら、よくわからなくなった80歳代。世界という概念の中で、生きているという概念をかろうじて毎日確認し、自分という概念と庭の木の意識という概念が区別がつかなくなった今日、生きるという概念と死ぬという概念がとけだして、ただとけだしてわけのわからないものになる。

それでも15歳の少年には、昨日の空は、おそらくいま好きな女の子の体と声と髪の毛の一部以外の何ものでもなく、強烈にリアルで古ぼけたところなどまったくない、私も昔は見たに違いない、あの空だったのでしょうか。

要するに、くたばりたいということでしょうか。

では、また来週。
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生活と意見 (第84回)

2007-09-09 16:00:10 | Weblog
9月9日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

やっぱり、ダメですね、スタンダール。
「赤と黒」の新訳を買ってきましたが、最初の10ページでもう先に進まなくなりました。

なにかがひっかかる。
それはたぶん、作者の視線でしょう。被写体に没入する前に、どうしてもそれを撮ったカメラマンのことを意識しなければならないような写真。そんな感じ。

これが、「語り手」が創作上の人物として設定されていて(自伝的文学も含めて)、語り手の持つ世界観では、世界はこのように見えて、この人物はこのように見える、という報告であるのならいいですが、そうではなく、ここでは「客観的にこれらの見方は正しく他の見方はありえない」という確信のもとに世界も人物も描かれています。

たとえば、この、最初の舞台になっている田舎町の人々にしても、みんながそれぞれお互いを探りあい、ずるがしこく暮らしているというような描写が出てきますが(もちろん、田舎の暮らしには意外とそういうところが大いにあると思いますが)、それだって一歩ひいてみれば、人間というものが、自分の当てはめられた場所で、それがどんなに低次元の場所であろうと、ひまさえあれば他者の弱点を見つけ出し、それによって自分の存在優位の証拠をかきあつめなければ生きていけないむなしい動物だから、という視点があるはずです。

そういう視点まで下りていけば、ここで「鬼の首をとったように」喜々として描かれているような描写は出てこないはずです。ディケンズは、一見、対象を冷やかし、揶揄しデフォルメして笑い飛ばしているように見えて、その裏に、その人がそうならずにはいられない人間共通の悲惨さという視線をちゃんと持っているのを感じますが、スタンダールにはまったく感じられません。ただ何不自由なく育った若造が、なにかをはじめて経験して、一回でそのすべてを悟ったような気になって、自信満々で書いた――そんな風に感じられてしかたありません。

もうひとつ、もっと卑近な感じでいえば、スタンダールのこの自信満々さは、なにか自分の女を世界一の美女だと考えている男が、それを自慢しているようにも感じられます。「みんな、きれいだろ、この女。みんなこの女とやりたいよな? でもやれるのは俺だけなんだよ」。「女」のところを「真理」(「まり」ではありません)に置き換えると、スタンダールは、至上の真理を自分ひとりが手にしていると自慢しているように感じられるのです。
しかし、その女を本当にきれいだと思うのも一部の人だし、きれいだとは認めても、まったく自分のタイプではないという人も多々あるでしょう。こういうとき、その女に価値を感じない人から見ると、それを自慢する彼の姿はこっけい以外の何ものでもないですよね。それなのに、彼のようなタイプの男は、「その女には興味がない」という人の言葉を信じずにこう思うのです、「あいつは俺に嫉妬している。本当はほしいくせに」と。

これは、ただの悪口ですね。
ただただ相性が悪いんですね。きっと。

もうひとついえば、スタンダールは、いかにも「年上の女好き」ぽいですよね。
D.H.ロレンスもそうですが。
そうして、私は、年上の女とつき合う男が基本的に嫌いなのです。

私に似合った低次元の結論が出たようです。
では、また来週。
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生活と意見 (第83回)

2007-09-02 15:57:47 | Weblog
9月2日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

涼しくなったのはいいのですが、そのぶん、寝ている間に老いた体が冷え、目が覚めると昔の思い出と後悔に縛られてしばらく身動きがとれない。……こんな状態が、また秋冬のあいだ続くのか。そう考えるとうんざりします。

ジョン・アービングの文庫の新刊を本屋でぱらぱらめくっていたら、たしか「小説の王様(王?)」というタイトルのエッセイがあって、その一行目に魅せられました。こんなふうに書いてあったと思います。
「『大いなる遺産』は、なぜ私がこの本の作者でないのか、と残念に思う作品だ。云々」。
まったく同感。そう思って読み進むと、日ごろ私がディケンズについて考えていることをもっと深くていねいに調べて、もちろん私など及びもしない的確な表現で書きつづってありました。私はうれしくて、また年寄りなのでときどき涙が出そうになりながら読みました。ジョン・アービングの作品は実は読んだことがありません。有名な「ガープの世界」が学生時代、文庫になったので読み始めましたが、あまりおもしろくなくて途中でやめました。それ以来、スタンダールと同様「自分には関係ない作家」として頭の中に整理されていました。ところが、この「ディケンズ論」ともいえるエッセイは、まったく「このエッセイの作者が私ではないことが残念で仕方ない」くらい共感しました。
「メタ」的な、ただ己の頭のよさをこれみよがしに見せつけようとするだけの作家が多い現代、ディケンズのような本当の天才がこのような形で正当に評価されるのは、当然とはいえ、いいことだと思います。
 まあ、実際また100年も経てば、すべては時間という裁判官の正当な判決を得て、無意味なものは何も残っていないでしょうから、どうでもいいといえばどうでもいいのでしょうが。
 ちなみに、その文庫本を私は買いませんでした。買って何度も読み返すうちに、効果が弱まるのを感じるよりも、そこで得た興奮を思い出すにはむしろ手元にないほうがいいと思ったからです。これが、私がコレクターにはなれない理由です。

 では、また来週。

「秋になったから、長編小説でも読もうか」。そんな方にはぜひ拙作「風景をまきとる人」(彩図社)を読んでみていただきたいです。インターネットで、版元のページだけでなく、さまざまな書店から購入可能です。もちろん、近所の書店で注文していただいても大丈夫です。
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