麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第26回)

2006-07-30 11:51:43 | Weblog
7月30日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

更新が遅れて申し訳ありません。

みんなが夏用の心に切り替わっているのに、それがこわくて、近所を歩くのも気が引けてしまうような感じです。

すみません。

来週は、書きかけの短編をどれかひとつ完結させて、読んでいただけるようにしようと思います。

では、来週は、いつものように土曜日に。
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ノートから

2006-07-30 11:26:24 | Weblog
 俺には人生の……


 俺には人生の全てが見えてしまった。つまり、人生とは「もっとあとになって考えればいいと思っていること」が、「いま考えなければいけないこと」になる、ということだ。



 死んでもまだ世界が……


 死んでもまだ世界が(その人の主観が)続く――つまり霊魂不滅説は、それを説く人間のつぎのような心を証明する。
「俺は物がほしくても盗んだりしなかったし、欲情にかられても強姦もしなかった。怒りにまかせて人を殺したこともなければ、内心で思っている悪口を人に言ったこともない。なのに、もし、死んで全てが終わるなら、あの憎々しい犯罪者と同じ終わり方じゃないか。あいつらも死んで全てが許されるなら、こんなにがまんしている俺はなんだよ? だから地獄はある。あいつらと区別されるために。俺は自分のがまんをほめられる。褒美をもらえるはずだ」
 ――おそらく彼は期待はずれに終わるだろう。



 自分を知って治す
 

 たとえば、酒を飲むと暴れる人がいる。習慣的にそうなのであり、その人は自分でもそれがわかっている。その人がある日、もうそういうことはやめたい、と思ったとする。と、彼は酒場でこう宣言するのだ。
「俺は今日からもう酔って暴れたりしない。暴れるほど飲まない」と。
 これは、改心を表明しているのだが、実のところ彼は改心などまったくしていない。
 この人の改心に必要なのは、「飲むと暴れる」のが自分の習性であるのなら、「酒を飲まない環境に自分を置く」ということだ。それが自分を知って治すということだ。
 恋愛におぼれるとバランスを失い、周囲が見えなくなる傾向が自分にはある――ならば、彼は女から身を遠ざけなければ危険からは逃れられない。
「今度の恋愛では、一定の距離を保って……」
 ――無理だ。

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生活と意見 (第25回)

2006-07-23 00:52:12 | Weblog
7月22日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

「短編」のところに載せるネタが、そろそろなくなりそうです。
新しいものを書いて、このブログで連載していこうかということも考えていますが、自分の性格からして(何度も、前に書いたものに手をくわえるので)、むずかしいかもしれません。いちおう、もちネタとしては、表紙が布張りのノートが12冊ありますが、このうち約半分は長編『風景をまきとる人』の下書きで使用済み。そうして残りの半分は、別の創作の下書き、日記、アフォリズム、読書感想文、手紙の下書きなどです。おそらく、そのなかの、なにかいちおうまとまっていて少しはおもしろいと思えたものを、順次載せていくことになると思います。いずれにしても、このブログには、自分の書いたものはすべてあげようと思っています。あまりおもしろくなければ、読み飛ばしてください。
 しかし、長編『風景をまきとる人』は、とりあえず最後まで読んでみてください。
 なんにしても、自分のなかにあるすべての要素を(ある部分についてはほんの少ししか入っていないとしても)入れて書いてみたものなので。

 またまた宣伝ですが、ぶんりき文庫『風景をまきとる人』(彩図社)は、全国どこの書店からも注文していただけます。また、『風景をまきとる人』で検索していただければ、ネット販売で扱ってくださっているサイトがすぐに出てきます。よかったら、お求めいただき、本の形で読んでもらえたら、うれしいです。

 カメラマンM氏、つまり宮島径氏とのコラボレーション展は、12月中旬に新宿で開くことに決まりました。詳細は、また秋になったらお知らせします。

では、また来週。
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ノートから

2006-07-23 00:50:26 | Weblog
 キリスト

 旧約聖書は、時代がダレて信仰が薄くなったときにスーパースターが現れて、「緊張せよ!」と言い、世直しが行われたこと、しかし、そのあとまた時代がダレて信仰が薄くなり、そのときスーパースターが……という繰り返しの物語だ。テーマはそれのみだ。
 イエスはこの繰り返しに決着をつけたという点からも、キリスト教的には「最後のスーパースター」である。つまり、彼の言いたかったことは、「いつも緊張していろ!」ということだ。人生のダレた時期、いや、一日のうちのダレた時間、それは、時代がダレているのと同じこと、だから自分のダレた心に鞭を打ち、一瞬ごと最後の審判の一秒前だと知って緊張していろ、と。……しかし、こんなことは普通の人間にはできない。はっきり言えば、そんな奴ウザったい。だから処刑された。つまり、イエスは、自分の言うとおり実践できるすぐれた人間だったために、民衆の嫉妬で殺された。
 それはまるきりソクラテスの死と同じだ。しかし、福音書の書き方はあいまいで、プラトンの書き方は理知的だ。そうして、より神秘的に祭り上げられるのは、あいまいな書き方をされたほうなのだ。



 ブッダ

 ゴータマもまた、一秒ごとの緊張を説く。しかし、彼のすごいところは、「もうすぐそのときが来るから」とスローガンを繰り返し、「まだわからないのか!」と吠えたりするのではなく、人間の習性をよくとらえ、一秒ごとに緊張するためにはどのように考え、どのように生活するのがいいのか、つまり一秒ごと緊張できる脳の状態を保つには、体をどう使うかとか、なにをどう見ていくとそこから世界の別の様相が引き出され、脳を刺激することができるかとか、そういう実用的な知恵を静かに説くことだ。
 大きく手を振り上げて、「OH! あなたの話を聞いて私は感動しました。いまから私の人生は変わります!」という、改心パフォーマンスをしたくてたまらないアメリカ人のような愚民(現代の日本人もほぼすべてそうだが)は、ブッダの教えには、そういう芝居がかったものを引き出せる要素が少ないので幻滅する。彼らには初めから世界をありのままに見ようとする気がない。彼らは、現実に、実はとても満足していて、この世の中に寸法が合っているので、「救われたい」と口にしながらも、初めから救われる気などないのだ。
 ブッダの実用的態度を受け継いでいるのは、ブレーズ・パスカルただひとりだ。
 しかし、パスカルは、熱血スポ根型天才であるために、キリストのドラマをどうしても欲してしまう。「パンセ」が、キリスト教を誰でも信じるようになれる本として、つまり「試験に出るキリスト教信仰」として完成されていたら、それはそれでいやらしい本になったかもしれない。
 私も世界にドラマなど見ない。運命などあるものかと思う。「東京のプリンスたち」の作者同様、人間は屁と同じ作用で生まれ、屁と同じに消えると思う。
 しかしいま、あえてドラマ仕立てに世界を見るなら、「パンセ」が完成されずにパスカルが死んだのは、神意かもしれないということもできる。
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生活と意見 (第24回)

2006-07-16 00:15:01 | Weblog
7月15日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

 誰でもそうでしょうが、他人の作品(いまは文学に限定して)の中に、自分と同じような感じ方や考え方の記述があれば、その作者を好きになることでしょう。
 私が今でもヘンリー・ミラーを好きなのは、「南回帰線」の冒頭の子ども時代の回想に、「なんら不足のない子どものころですら、私は死にたいと思った――苦労することに、なんらの意義も認められなかったので、すべてを放棄したかった。自分で求めもしなかった人間生活を続けても、なにひとつ得るところがなく、なんらの実証も得られず、プラスにもマイナスにもならないような気がした。」とあるのを読み、「そのとおりだったなあ」と思ったからです。
 最初に入れられた幼稚園が、私はものすごくいやで、みんながやっていることも何が楽しいのかまったくわからず、誰とも話もしたくありませんでした。家から二キロくらい離れた場所にあったその場所へ毎日マイクロバスで通っていたのですが、ある日(それが私の一番古い記憶です。私は満3歳でした)帰りのバスに乗る順番を庭で待っているときに、頭の中でなにかが破裂したようになりました。そのときの風景をいまでも思い出します。みんながバスの前で列を作っている。先生は列の真ん中あたりに立って後ろの子を前に誘導している。私は1人ではなれてそれを見ている。なぜか全体が黄色っぽい風景で土のにおいがすごくする。彼らを見ていて、私は心底うんざりしました。こいつらはなにをやっているのか。なぜならんでいるのか。なにがおもしろくてはしゃいでいるのか――それで、誰にも言わずに、幼稚園を抜け出して、1人で歩いて家に帰りました。先生と母親にはかなり心配をかけたようです。しかし、結局それ以降、小学校1年生までずっと、自分が下校したくなったら、そのまま帰る癖がついてしまいました(高校時代のエスケープも、あとで考えるとそれが復活した、ということのようです)。自作中の油尾と同じように、先生からは知恵遅れだから仕方がない、と思われていたようです。
 3~4年生になっても、私は世の中のすべてがよくわかりませんでした。なにしろ、先生の言うことがさっぱりわかりません。
 先生は、あるときは「誰とでも仲良くしなければいけません」と言い、またあるときは、「自分より成績のいい子と遊びましょう」と言います。言うだけではなく、プリントにしたりするのです。私は、もうこれだけでどうしたらいいかわからず、生きているのがいやになるのです。先生に限らず、親や親戚のおじさんおばさんなども、同じことです。大人の言うことはちゃんと聞けば聞くほど、世界を理解不能な場所にしていきました。
 混乱を極めた私は、あるとき、こう考えることで、なんとか生きていく地盤を作りました。
「図書館の入り口の、先生がすわっているところの後ろの本棚の一番上にある本(たぶん広辞苑)。あれが『世界の意味』について書かれた本なのだ。あの中には、一見矛盾したように聞こえる大人の発言も実はそうではないということがわかる、世界の法則のようなものが書き込まれているのだ。大人はみんなそれを読んでいる。僕は子どもだからまだそれを読めない。だからそれを読めるようになるために勉強しているんだ」
 これですっきりして、私は優等生にさえなったのです。
 それは、信仰となんら変わらないものでした。だから、やがて、世界にはそんな一冊の本は存在せず、当然誰一人それを読んでいない、読んでいないのに不安も引け目も感じず、自信を持って何かを非難したり、威張ったり、子どもをバカにしたり、酒を飲んで怒ったり怒鳴ったりしている……誰も世界の意味について知らないのに――とわかったときには、あぜんとしました。それは、幼稚園で、並んでいる同級生たちを見たときと同じ気持ちでした。こいつら、いったいなんだ?
 信仰を失った私がその後どうなったかは、ごらんのとおりです。

では、また来週。
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立て札

2006-07-16 00:12:50 | 創作
 私は、闇の寝床の中で休息していた。それは、心地よい眠りだった。私はずっとずっと眠り続けたので、最後には眠るということが私を表わし、つまり私という者から眠るという性質を取るとなにも残らないというところまで……私は、眠りと、闇と同化していたのである。しかし、やがて誰かが私を起こした。気がついてみると、私はまぶしい光の中へ放り出されていた。私の目の前には、一本の道が、ずっとまっすぐ続いている。私は一歩踏み出した。その一歩だけで私はひどく疲れてしまった。しばらくその場で休息していた私は後ろを振り向いてぎょっとした。さっき歩いた道はもう無くなって、底知れぬ虚無が口を開けていた。私は試しにもう一歩進んでから振り向いてみた。と、どうだろう、虚無は私の歩幅だけ広がっているではないか! 私は、とにかく前に進まなければならないようだった。疲労を感じながら道を行くと、ひとりの男が立っていた。黒い、だぶだぶの布にすっぽりと身を包んだ小さな男だった。私は私が誰だか知らなかったので、その男にたずねた。「私はいったい誰です?」男は低い声でこう答えた。「おまえは、鳥だ」「鳥である私はどうすればいいのです?」私は聞いた。「生まれなさい」男がそう言ったとき、私は生まれた。餌を食べ、成長し、卵を産み、死んだ。すると私は、再びあの道の上にいた。そこには、あの小男が立っていた。私は先に教えられたことを忘れていたので、男にたずねた。「私はいったい誰です?」すると男は、「おまえは亀だ」と言う。「亀である私はどうすればいいのです?」「生まれなさい」私は生まれた。餌を食べ、成長し、卵を産み、そして死んだ。私は生まれるたびに前のことを忘れたので、その後、幾千もの生き物となったけれど、以前自分が何か別のものであったという気持ちになることもなかった。しかし、幾千回目かに、まぶしい道の上に戻ってきたとき、重い疲れが私にのしかかっているのに気づいた。私は自分がさまざまな生き物として生を送ったことを思い出した。「今度は何になるのです?」私はあの男に聞いた。「人間に――」と、男は言った。私は疲れていた。「いったい何のために私は生まれるのです?」それは、私の、男に対する初めての反抗であった。「生まれ出るときに、立て札が見えるだろう。そこに答えが書いてある」男は言った。――いま私は母親の子宮の中にいる。目の前に立て札があって何か書いてある。男の言った答えだ。しかし、私は人間になったばかりで字なんか読めない。誰か読んで意味を教えてくれないか? こういう形の文字だ……「徒労」……なんと読むのだ? どういう意味なのだ?
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生活と意見 (第23回)

2006-07-08 21:41:19 | Weblog
7月8日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

今年もあと4カ月ですね。
計算だと5カ月ですが、12月になると「もう今年も終わりだ」ムード一色になって、「終わるための1カ月」のような、どうでもよい使い方をしてしまうに決まっているので、やはり実質4カ月と言っていいでしょう。
 この4カ月のうち、2カ月は、おそらく、「暑い暑い」と言っているうちに過ぎるはず。ということは、自分が何をやっているのか客観的に眺められ、少し落ち着いた気持ちですごせるのは、あと2カ月という感じでしょう。
 本当に、1年は短いですね。
 飯を食う仕事のことを考えれば、それくらいがちょうどいい気もしますが、自分の仕事をするには、本当に短い。その2カ月だって、暑さに疲れた体を癒そう、といういいわけで、ただやりすごしてしまうのも簡単なわけです。
 
 なにより自分のために、こんなことを書いています。
 今年も、自分にとって大事な仕事にとりかからずに終わらないように。死ぬまでにやっておこうと思うことは、少しでも進められるように。

 どこかに、秋だけがずっと続く国がないでしょうか。
 内耳の神経と同様、摩滅してしまった感受性には、もはや四季など実際にめぐってくる必要はなく、記憶の中の四季だけで十分です。
 それに、気候が人をうんざりさせるのも感傷的にさせるのも、ただ、爆発の余韻で地球という宇宙のくずの塊が自転していて、地軸が太陽に対して傾いているということだけが原因なわけで、私たちは、そのくずの塊の湿気の中にわいたぼうふらであり、若い夏の季節に異性のぼうふらが感じさせる輝くような美しさも、DNAが「複製をつくれるかも」と、感じて興奮しているせいに過ぎない……と、いくら虚無的になろうとしても、書いている手元が汗ばんで、ひんやりした心持にはなれないですね、やっぱり。

 今週は、「風景をまきとる人」(第23回)といっしょに、季節はずれの詩(のようなもの)を読んでいただこうと思います。

では、また来週。
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雪道を、向こうから自転車で来るじいさんよ

2006-07-08 21:39:27 | 創作
雪道を、向こうから自転車で来るじいさんよ。
あんたの顔は、転ばないように注意集中してるせいで、年のわりに引き締まり、悲壮感さえ漂う。

たぶん、西新宿四丁目か、中野区弥生町の自宅から、数分前、
あんたはふきげんな女房に見送られ、
わずかばかりの冬の午後を、
隣町の信之介じいさんと将棋を指すことで、
男のロマンに費やすため、
出かけてきたのだろう。

雪は今日は降っていない。
昨日までの積もった固まりは、歩道の両側に寄せられて、
あんたと俺は、裂けた海から現れた土地のような、
狭いアスファルトの帯の上で、
向こうとこちら、
まるで対決するようなかっこうで向かい合ったのだ。

あんたは、ユリシーズのように男の旅を夢見て、
あぶない氷結した道を、悲壮な顔でやってくる。

あんたは英雄だ。
小春日和に、危険な自転車にまたがり、
信之介と勝負を決めようとしているあんたの目は、ドラマを見ている。

だが、じいさん。
俺にはあんたが、
あんたのドラマと同様、
じゃまだ。

あんたはなんのためにわざわざ自転車に乗るのか?
どうしてそこまで自分のドラマに酔えるのか?

あんたが本当の英雄でも、
俺にとっては変わらない。

英雄のじいさんよ。
せっぱつまった顔をしたあんたは、
この細い道じゃ、じゃまなんだ。

俺は英雄になど用事はない。

本当の本当には、
生きる意味もなく、
本当の本当には、
向かう場所もない。

ただ、
俺は、
生きているのが、わりと好きなんだ。

さっき、ハトと、ゴミを奪い合っていたカラス。
俺がにらみつけると、わずらわしそうに舞い上がったカラス。
そんなものも好きだし、
よく知っている建物の壁に、
雪で濡れた跡があるのを、ながめるのも好きだ。
ゆっくりゆっくり歩きながら、
そういうものたちに心を絡みつかせて、
生きていきたいだけなんだ。

じいさん。
英雄になるなら、
もっと若いときじゃなきゃだめだよ。
あんたの年になるまで生きていてはいけない。
俺の年でももういけない。

じいさん。
信之介と勝負するのはやめて、
俺と一緒に、
小春日和の西新宿五丁目の風景に、
心を絡みつかせながらゆっくり歩こうよ。
自転車を降りてさ。
でなきゃ……

ほら、こけた。

俺はかなしいよ。

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生活と意見 (第22回)

2006-07-02 00:00:56 | Weblog
7月1日

立ち寄ってくださって、ありがとうございます。


いなづまに悟らぬ人の尊さよ

 正確にはどういう表記かわかりませんが、これは、いまや「えんぴつで奥の細道」が評判の、芭蕉の句です。以前書きましたが、高校時代、私はこの句を読んで芭蕉を好きになり、大学に入ったらその研究をしたいと思っていました。(実際は、日本文学科にさえ進みませんでしたが)
 この句は、私が最初目にした本では(いまは手元にありません)、つぎのような意味だととらえられていました。
「稲妻が光り、雷鳴が響く夕立の中、多くの人が、恐れ、慌てふためき逃れて行く。そのかたわら、『私は何事も悟っているから平気なのだ』とうそぶき、のんびり構える聖人(しょうにん)もいる。しかし、聖人だから危害が及ばないということがあろうか。慌てふためく人と、聖人のどちらが尊いだろうか」
 悟っているという人にだって落雷はふりかかる。恐れて逃げた人たちのほうが偉いのではないか、というわけです。しかし、私は、この解釈をそのままには受け取れませんでした。もし、そうなら、「尊い」という強い言葉を使うでしょうか。
 たとえ、それが学問的に正しいとしても、私はこの句をそう解釈して感動したわけではありません。
 私にとっては、この句の意味はつぎのようなものです。
「稲妻が光り雷鳴が響く夕立の中、多くの人が、恐れ、慌てふためき逃げて行く。そのかたわら、『私は何事も悟っているから平気なのだ』といって人々をあざ笑い、じっとしている聖人がいる。しかし、どちらが本当に悟った人間なのだろうか。悟ろうとして思考だけの生活に入った時は、一度世界はまったく意味を失うが、悟り終われば、現象は以前より強烈な意味を持って帰ってくるという。また、起こることと起こることの差異も以前以上に明確に感じられ、それに対して純粋な反応をしてしまうようになるという。――人生が死で終わる以上、人生には最終目的はないのであり、目的に意味がないのなら、過程がすべてであり、過程をよく生きることが、つまりそのときそのときの現象や状況に純粋に反応して生きることが、なによりも大事なのではないか。そうならば、本当に悟っているのは聖人ではなく、稲妻に驚き恐れ、逃げ惑う人々のほうではないか。自覚はなくても彼らは、それを楽しんでいるのだ。稲妻に驚き恐れ逃げ惑うことを楽しむことで、人生を聖人より、よく生きているのだ。」
 散文で書くとこんな感じの気持ちが句には込められていると、私はいまでも思います。思想的には、芭蕉の到達点が、これだったのではないでしょうか。
 芭蕉=忍者説もあり、また、奥の細道にしても、パトロンから結構な金をかき集めて行ったリッチな旅だったというのが定説になっていますが、少なくとも芭蕉の中の思想家は、文章から受け取るままの、ストイックでしかも現実肯定のかっこいいじじいだったと思います。

では、また来週。
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遠回りのバス

2006-07-01 23:58:51 | Weblog
 遠回りのバスに、僕は乗っていた。
 窓から見える景色は、みな陽炎のようで、季節は夏のようだった。
 遠回りのバスは、海岸沿いの土地をゆっくりと走ってゆく。
 僕の隣の席には、白いワンピースを着た美しい女の人が座っている。
 美しいことはわかっているのだが、その女の人の顔は見えない。
 まぶしすぎる光が、女の人の後ろにあるからだ。
 僕は、きいたことのない発音の言語で、女の人と時々話し、笑った。
 遠回りのバスには、おそらく、目的地がないようだった。
 永遠ほども走り続けるうちに、僕は様々な町を見た。
 町には、どこにも、ふかふかとした絨毯が敷かれ、それが町ごとに違う色だった。
 赤い絨毯の町には、高い、銀色の塔が建っていた。
 紫色の絨毯の町には、静かな雑草が生えていた。
 時折、僕の住んでいた町が現れた。
 が、その次の町は、また、見知らぬ色の町だった。
 僕は、それらの町を見ているうちに、自分が、ガラス製のプリズムであることを思い出した。
 全てを了解したような気がして隣の席を見ると、女の人はいつの間にか光になってしまっていた。

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