麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第126回)

2008-06-29 23:35:44 | Weblog
6月29日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

ひさしぶりに2日間、部屋からほとんど出ないで過ごせました。
ただ、やはり天候のせいか、更年期のせいか、心はあいかわらず不調です。



角川文庫から、フィッツジェラルドの「夜はやさし」(上・下)と「ラストタイクーン」が改版になって再発されました。「夜はやさし」は、集英社の単行本が出たのに合わせたタイミングになりました。偶然なのでしょうか。

また、新潮文庫からは、ドストエフスキーの「未成年」が復刊になりました。これも改版されているのでとても読みやすい字の大きさです。

「未成年」は、私が大学に入ったころには、普通に売られていた本ですが、なぜかその後絶版になっていました。今回の復刊は25年ぶりくらいのことだと思います。これでひさしぶりに五大長編が新潮文庫で読めるようになりました(「未成年」は、ほかに岩波文庫の米川正夫訳がいまでも手に入るはず)。

五大長編の中で、「未成年」だけは、いままで一度しか読んだことがありません。それでもこの物語の雰囲気はどういうものだったか、すぐに思い出すことができます。これは、ある意味、ドストエフスキーの「ライ麦畑~」とも呼べる作品です。ただ、50歳代の作家が、21歳の主人公の手記という設定で書いているために、「これくらい無軌道な書き方のほうが若者としてリアルだろう」という作者の狙いがあるのか、どこかまとまりがなく、途中で読むのがつらくなったのを覚えています。しかしまた、その、手記そのものを提出して小説だとするところに、後のヘンリー・ミラーのような、新しい小説のプロトタイプを感じたことも覚えています。私も、もう一度読んでみようと思います。

「ラストタイクーン」が私は好きなのですが、読んだのは、70年代終わりから刊行されていた集英社世界文学全集で、角川文庫版ではありません。角川版は、正直ちょっと読みづらいです。でも、本当におもしろい小説です。あとがきを見ると修整が入っているそうなので、読みやすくなっているかもしれません。

そうだ。角川文庫からは、好色五人女の新版も出ました。このところ、文庫界はかなり充実しているようです。

それにしても「闇の奥」はまだ出ないのでしょうか。
本当の狂人の話を読めば、自分の症状が軽くなるのでは、という期待は日増しに強くなっていきます。

では、また来週。
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生活と意見 (第125回)

2008-06-23 00:34:09 | Weblog
6月23日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。


〇惨めさ
 われわれの惨めなことを慰めてくれるただ一つのものは、気を紛らすことである。しかし、これこそ、われわれの惨めさの最大なものである。なぜなら、われわれが自分自身について考えるのを妨げ、われわれを知らず知らずのうちに滅びに至らせるものは、まさにそれだからである。それがなかったら、われわれは倦怠に陥り、この倦怠から脱出するためにもっとしっかりした方法を求めるように促されたことであろう。ところが、気を紛らすことは、われわれを楽しませ、知らず知らずのうちに、われわれを死に至らせるのである。(ブレーズ・パスカル『パンセ』より)

今日はこの言葉以外、読みたいものがありませんでした。

自分自身が湿気そのものになったように憂うつです。
すみません。


また来週。
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生活と意見 (第124回}

2008-06-16 01:01:17 | Weblog
6月16日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

神保町の古本屋で、特装版角川文庫(1984年刊)の「自殺について」を買って読んでいます。
ショーペンハウアーは、私にとって「師匠」だと勝手に思わせてもらっている人のひとりです。もちろん、自分を、「世界で最も才能のないドストエフスキーの弟子」と考えているのと同じで、世界で最も天分のない弟子として、すそ野の片隅に住む蟻が富士山を見上げるように慕っているだけですが(言うまでもなく、彼の、「世界で最も天分にめぐまれた弟子」は、ニーチェです)。

しかし、「意志と表象としての世界」は、めずらしく、「ほぼ完全に」理解できた哲学書です(「有と時」は、「ほぼ」理解できたと思いますが、「完全に」ではありません。「純粋理性批判」は「理解できないところがいろいろある」哲学書です)。

この主著をショーペンハウアーは30歳になったばかりのころ出版し、あとは死ぬまで、自分が本当に書きたくなったときにだけ筆を取り、この主著の補足をし続けました。それらは、「余録と補遺」というタイトルで老年になってから出版されました(白水社の全集の10~14巻)。「自殺について」は、その中の一部と、遺稿の中からの断章を集めたものです。

自分の著書のタイトルが「自殺について」になるということなど、作者が望んだことではありません。また、ショーペンハウアーの選集には「孤独と苦悩」とかおおげさなタイトルがつけられることもよくあって、その言葉のイメージが内容にまったく合っていないので、末端の弟子としてもちょっと不愉快を感じずにいられません。

いかにそのイメージが合っていないかを見てもらうために、「自殺について」から少し引用してみます。


〇自然の顧慮するところは単にわたしたちの生存だけであって、わたしたちの快適な生存ではない。

〇世界は存在する。なるほど、型のごとく存在している。それにしても、この世界から誰かがなにものかを得ているのか? わたしが知りたいと思うのは、ただ、それだけに過ぎない。

〇これらのこと(セックス)がすんだあとで、わたしたちは、自分たちの捉えようとして追求していたものが、真実には存在しない単なる影であったことを、しみじみと感じる。

〇人間が、ずっと引きつづき存続しているのは、単に、その好色・多淫を証明するだけのことに過ぎない。

〇ひとつの極にのみ最も緊張した活気が現れている時には、その間じゅう、反対の極はほとんど働かないのが常態であるから、脳髄の眠っている間に遺精(性行為をしないのに自然に精液が射出されること)したり、日中でも眠気を催してぼんやりしている時や、食後の昼寝の際には、とかく、勃起しがちになる。それ故、勃起している折にはとうてい高尚な精神活動はできるものではない。


うーん。
ナイス、師匠。



では、また来週。
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生活と意見 (第123回)

2008-06-09 00:37:04 | Weblog
6月9日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

じわじわっと下のほうからゆで始められたような感じ。
また夏がくるんですね。

今日もうたた寝をしているうちに1日が終わりました。

たぶん、残りの時間も、目を開けたままうたた寝をしているうちに過ぎていくことでしょう。

――もう、8時か。

――もう、死か。



昨日、2時間ほど、新しい長編小説のために費やしました。完成予想枚数は800枚(ちなみに「風景を~」は、約660枚です)。

ある日の朝8時から夜中の3時までを描くつもり。まあ、自分にとっての「ユリシーズ」です(これまた、できあがるとどこにもその影響が見られないはずですが)。

作品を仕上げることも目標ですが、このような設定にしておけば、この作品に取りかかれるときにはいつでも、私はその1日だけを生きることができ、その時間の中に自分を閉じ込めておくことができる、というのも私にとって大事なこと。

その創作の中に戻るときは、「もう10時か」と、うたた寝から目覚めたように、私は生き始めます。そうしてそこから離れると同時に、目を開けたままうたた寝する日常に帰っていく……でも逃避ではありません。私は私のレベルで、お話を作ることが心から好きなのです。

できない約束ばかりしていても仕方ないので、「そのうち完成したら読んでください」とは言いません。きっと完成することはないでしょう。8時から書き始めてお昼にならないうちに、「お呼び」がかかるに違いありません。

――ああ?……もう、死か。すごいよだれ。わかった。いま行くよ。ほいよ。



では、また来週。
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生活と意見 (第122回}

2008-06-02 00:17:35 | Weblog
6月2日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

木曜日から体調をくずして、休んでいました。
天候の落差に老体がついていかないようです。今年はちょっとひどいですね。



「消え去ったアルベルチーヌ」(光文社文庫)は、何週間か前に、出てすぐ買ったのですが、訳者の前書きだけを読んで中味は読んでいません。なにか、この翻訳のもとになったテキストは、学問的には意味があるものらしいのですが、「失われた時~」のたんなる読者である私には、あまり関係のないもののような気がしたからです。そのうち気分が変わって読んだら、またそれについてなにか書きます。が、私に言えるのは、やはり井上訳でも鈴木訳でもどちらでもいいから、とりあえず全訳を順番どおり読むのが第一ということでしょうか。以前、「第六編は、第五編とともに独立した恋愛小説になっているから読んでみては」と書きましたが、現時点ではその言葉は撤回したいという感じです。

コミック版「失われた時~」の第二巻「花咲く乙女たちの陰に」が出ました。まだ、立ち読みすらしていませんが、舞台になるバルベックグランドホテルがどんなふうに描かれているのか楽しみなところです。



今日なぜか思い出したのは、「風景をまきとる人」を書き進めているとき、そのつど仮のタイトルをいろいろ決めていたことです。以前書いたように、はじめは、「こころ」というのが仮のタイトルで、冒頭は「僕たちは彼のことを、いつも「センセー」と呼んでいた。」というものでした。

おそらくこの時点では、実際に出来上がったものとは違い、油尾と丸山と久美の三角関係が物語の中心になると考えていたような気がします。つぎに、シーンをかなり書き溜めてからつけた仮タイトルは「やりすぎ」というものでした。いままでどこでもタイトルになったことのない日常語で、目をそむけたくなるほど下世話なタイトル。それが理想だったからです。

このあたりまでは、油尾の語る「風景をまきとる人」のおとぎ話というか世界観は、この小説ではまったく使わないつもりでした。結局、「風景を~」になったのは、「これは自分にとって生涯で一冊だけ作れる本かもしれない。もう機会はないかもしれない。一冊しかできないのなら、『風景をまきとる人』のイメージは絶対に提出しておきたい」と考えるようになったからです。そこから主軸がずれてきました。でも、そうなってからのほうが、圧倒的にやる気が出ました。

途中、すごく悩んだのは、各章をそれぞれ別の文体で書いてみたいという野望をなかなか捨てられなかったことです。このブログでは、あまり触れていませんが、私はマニアというほどではないけどジョイスのファンで(どの程度かといえば、70年代に出たフィネガンズウェイクの部分訳「フィネガン徹夜祭」(都市出版社)を古本で1万4000円だか5000円だかで買うのになんの躊躇もしないが、途中まで出た岩波文庫版「ユリシーズ」をどうしても手に入れて読みたいというほどではない、という程度)若いときは、いろいろ文体を模倣したものを書きなぐっていたという経験があります。だから、「ユリシーズ」のように、各章で文体を変えてみたい、と考えたのです。

たとえば、「風景を~」の第一章は、漱石の「こころ」のパロディにし、飲み会の章は「ユリシーズ」の「キルケー」のように戯曲の形式で書く、また丸山と久美のベッドシーンの章は、プラトンの対話編のパロディのように書きたい、最後の章は「ペネロペイア」のように「意識の流れ」で書きたい、などです。もちろん、そのように書く才能も時間もなかったことは、結局私にとってはよかったのでしょう。もし、そんな試みをしていたら、いまだに一章も書きあげられなかったに違いないので。



では、また来週。
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