麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第787回)

2022-10-30 20:51:42 | Weblog
10月30日

結局、何が言いたいかというと、「レ・ミゼラブル」は、「詩」だと思うということ。実はこの3週間、「氷島奇談(原題「アイスランドのハン」)」(中公「世界の文学」)を読んでいました(先ほど読了)。ユゴーが二十歳で書いた長編小説です。まず、これをその年齢で書けたというのが恐ろしいような傑作ですが、その現象としての脅威はいまはおくとして、「ノートルダム・ド・パリ」「レ・ミゼラブル」と比べて、この最初期の作品が最も小説らしい小説になっているのがおもしろい(余談も入らず、全編の長さもちょうどいい)。つまり、この天才少年はすでに二十歳で小説の書き方を完全に学び終えていて、このあとそれを自分流に崩していった。そういう流れなのだと思います。そうして崩していくと、元々詩人である作者の作品は、当然、詩に近づいていく。「レ・ミゼラブル」はこうして散文による叙事詩として生まれたのだと思います。詩に性欲の描写など不似合いですよね。だから描かれない。人物像はどれも象徴的で、平凡な身分・職業の割には皆雄弁でひとりで何ページもしゃべる。これも詩なら普通のこと。そして、作者は詩であることを意識すればするほど、長い「余談」をはさむことで直接的にリアリティを補充する必要を感じる・・・・・・こういう事情があったのではないか。でも、なんにしても、できあがった自由な傑作は、いまだに新しさを感じさせる唯一無二の作物です。本当にすごいと思います。

2011年4月の書評。「坂の上のバカ」(勝谷誠彦著、扶桑社)

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生活と意見 (第786回)

2022-10-23 20:31:44 | Weblog
10月23日

性欲が描かれないという点で、現代リアリズム小説を読み慣れている私たちからすれば、「レ・ミゼラブル」にはなにかものたりないような感じ、人間という生き物の上辺のみを扱って最も醜いところにはふたをしているような、童話めいた感じを持ちます。しかし、だからといってこの作品が深みに欠けるということにはならない。この作品では性欲というリアリズムの代わりに、「悪」(というか「悪党」)についてものすごく深く掘り進め、その世界を別の方向に深化しているからです。 (続く)

2011年3月の書評。「結果を出し続けるために」(羽生善治著、日本実業出版社)。
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生活と意見 (第785回)

2022-10-16 17:06:57 | Weblog
10月16日

でも、ジルノルマンにしてもミリエルにしても、性欲は過去のことであり、彼らにとって、もはや大きな問題とはいえない。喜劇性も、「レ・ミゼラブル」にはその直接の担当キャラクターはいません。むしろ、ジルノルマンのような元・遊び人にほんの少し、その要素が割り振られている感じで、性欲自体が喜劇の側に入れられている。貧困が悪を生み出すことへの抗議、また良心の呼び声に従って誠実に正直に生きることの大切さをテーマにした、社会的、宗教的作品に、性欲や滑稽味の描出はいらないということなのでしょう。童貞が、神聖で高潔な信念のために死んでいくことのほうが、性欲がひきおこす事件や、笑いよりもより次元が高いという認識。それは、確かにユゴーの、社会に対する真剣、深刻な姿勢を表していると思いますが、同時に老いの兆候を示しているともいえます。同じ年齢で「カラマーゾフの兄弟」を書いたドストエフスキーは、父と息子が同じ女をめぐって争うこと、インテリの若者が満たされない性欲に押しつぶされることなどを正面切って描いている。それは性欲というテーマが作者にとって生涯無視することのできないテーマであったということとともに、その心の若さを表しているともいえるでしょう。「年老いてなお初々しい心」は、ユゴーにもドストエフスキーにも共通しているところですが、前者は少年のままの老人であり、後者は万年青年とでもいうか。ただ、ドストエフスキーも、カラマーゾフでは喜劇性を放棄しています。「悪霊」では、ステパン・ヴェルホーベンスキーという生きた人間喜劇をニコライの毒消しのように配置しているのに、カラマーゾフではゾシマの退屈な説教がそのかわりになっている。私にはそこにやはり作者の老いが強く感じられます。

2011年2月の書評。「お前の1960年代を、死ぬ前にしゃべっとけ!」(加納明弘、加納建太著、ポット出版)
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生活と意見 (第784回)

2022-10-09 23:36:19 | Weblog
10月9日

性欲と喜劇性。「レ・ミゼラブル」の世界から排除されている二つの人間的要素です。もちろん、ユゴーはそれを描けなかったわけではありません。「ノートルダム・ド・パリ」では、前者はクロード・フロロのエスメラルダへの病的な執着として、また後者は、ピエール・グランゴワールという狂言回しの存在を通してしつこいぐらい念入りに描かれています。「レ・ミゼラブル」では、性欲は、むかし遊び人だったマリウスの祖父・ジルノルマン老人の独白の中に、「若いうちは誰もがとらわれる激情」として回顧的に語られるし、ジャン・ヴァルジャンを改心させたミリエル司教もかつては性の楽しみを知っていたように描かれています。(来週に続く)

2011年1月の書評。「15分あれば喫茶店(カフェ)に入りなさい。」(齋藤孝著、幻冬舎)
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生活と意見 (第783回)

2022-10-02 16:07:24 | Weblog
10月2日

これだけ多くの童貞が登場するのは、やはり、ユゴー自身が生涯少年だったからだと思います。いかにも生命力、というか生命欲の強そうな風貌で、年譜を見るとたくさん愛人がいたようですが、きっと「成熟した大人の恋愛」とはほど遠い、童貞のような求め方を毎回繰り返していただけなのではないか。そしてユゴーもそのことを自覚していたのではないか。

年老いてなお、初々しい哀れな心よ!

第二部で、ジャン・ヴァルジャンのことをうたったこの一行は、同時に作者が自分に向けたなぐさめの言葉に違いないと思います。そうしてこれも、この作品で描かれる「レ・ミゼラブル(悲惨)」の大きなテーマのひとつだと思います。


2010年12月の書評。「生物多様性100問」(盛山正仁著、福岡伸一監修、木楽舎)。なお、文中の「アツメゴミムシダマシ」は、「キリアツメゴミムシダマシ」の間違いです。
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