麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第260回)

2011-01-30 14:30:22 | Weblog
1月30日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

今週は、ビギナーズクラシックスの「土佐日記」と「梁塵秘抄」を読みました。
どちらも大変おもしろかったです。よく、「平安時代の人は、こういう恋愛をしたんですね」とか、「源氏物語」などを例に言う人がいますが、私は高校のころから、いつも「それは、『平安時代のほんのひとにぎりの貴族たちは』の間違いだろ?」と思ってきました。今週読んだ二作には、王朝ものにはあまり描かれない庶民やそれ以下の者(私がその時代に生まれていれば間違いなくその階級だったはずの人々)について描かれていて、興味深かったです。また、古今和歌集には、有名な「あやめも知らぬ恋もするかな」とか、「あやめもわからないほど惚れたやつがこんなアホみたいな歌を歌えるのか」と思うような気取った歌がいくつもあって、その選者である紀貫之はなにかキザでいやなやつのような気がしましたが、「土佐日記」を読むと、ちょっと山上たつひこ的な下ネタもあって驚きました。これは高校の授業で教えられない、と思いました。「古事記」もそうですが、昔の書物はおおらかでええなあ、という感じですね。



なにか調子が悪いです。
余熱が冷めてきているのでしょう。
私を私としてまとめるのにかなりエネルギーを使っているような気がします。
なんせ、宇宙創成の余熱で、いろいろな印象や刺激を溶接して「私」をまとめあげているだけですから。熱が引いて時間が経てば溶接した部分はまたもとのように剥がれて別物になっていき、やがて消える。個人的にはまったくつらくないけど、こうなってなお「私ざかり」の若い人々の中にいっしょにいないと生きていけないのがつらいですね。ひと言でいえば「死ねよ」って感じですね。でも、若い人から見れば私こそ死ぬべきでしょう。めんどうだなあ。深沢七郎的詠嘆に変えるなら、めんどうだナァ。



では、また来週。

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生活と意見 (第259回)

2011-01-22 19:44:07 | Weblog
1月22日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

あれから、ビギナーズクラシックスの「万葉集」「伊勢物語」「古今和歌集」を読みました。どれもとてもおもしろかったです。



しばらく前からエアコンが壊れていて、部屋で遭難していました。本日、新しいエアコンの工事が終わって現代人らしい感じが戻ってきました。



少しずつ「風景~」に手を入れる作業をしています。やはり、あせって書き飛ばしたところもいろいろあって、自分でもなさけないですが、でも、そのときそこで手を止めていたら絶対最後まで書かなかったろうなと思うと、いつものことですが、それはそれでしかたなかったのだ、と当時の事情を思い出します。書きあげてからもう7年。ああいう時間の中にもう一度自分を入れてみたい。それができるなら、今度は迷わずに、自分にもっともふさわしい完全な喜劇を書けるような気がするのですが。ただ、その喜劇を笑ってくれる人がいるかどうかはわかりませんが。



では、また来週。
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生活と意見 (第258回)

2011-01-15 23:01:04 | Weblog
1月15日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。


今日は、起きてすぐ、角川ビギナーズクラシックスの「古事記」を読み始め、4時間ほどで読み終えました。とてもおもしろかったです。



なぜカントなんか読むのか。
「ちんぽ」などというひどい話を書くようなバカが。

でも、私にとっては「ちんぽ」を書くことと「純粋理性批判」を読むことは同じ意味を持っています。それは、どちらも「母親の退屈な人生観」から救われる効力があるという点で、です。もう少し説明しようと思いましたが、めんどくさくなってしまいました。とにかく母親、ひいては女性のなにが退屈かというと、言うことに「間違いがない」こと。こちらがおびえた気持ちのときには、その「間違いのなさ」もたしかに瞬間役に立つけど、その懐にしばらくいると飽き飽きしてうんざりします。役に立つ話ばかりで窒息してしまう。「人間は物自体を認識することはできない」ということを体で考えているときに感じる世界の雰囲気は、そういう間違いのない人生観とはまったくべつの、しかし、それも完全にリアルな「世界」そのものです。別に「純粋理性批判」でなくても、子どものころの、「廊下は右側を歩きなさい」といわれてすぐ、「向こうから来るときには今と反対側が右なんだから」と体で感じて、「ということは、廊下は両方が右ではないのか」と、足元がぐらついた経験でも同じこと。「ハエの目から見た風景」という写真を理科の教科書で見てめまいを起こしたのも同じこと。それは、「いつも誰かとつながっていたい」人には存在しない世界であり、昔はそれを「男性的精神」と呼べた境地の始まりだったはずなのに、今や「役に立たない」ということで「ないこと」にされている世界です。なんせ哲学も「明日からポジティブに生きる」ことに役に立たなければダメな哲学といわれる時代ですからね。つまり、「女の実用物になって死ぬ以外男に幸せはない」という、それが人類の結論だったわけですね。いや、すばらしい。映画って、本当にすばらしい。すばらしすぎてなにを書こうとしたのか忘れました。まあ、役に立たない人間が何をいっても意味ないことですからお許しを。



では、また来週。
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生活と意見 (第257回)

2011-01-10 22:25:36 | Weblog
1月10日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

「悪霊1」読みました。
どこが、ということはよく考えてみないとわかりませんが、小沼訳のほうがやっぱりいいような気がします。とにかくドストエフスキー作品の個人全訳は、米川訳か小沼訳しかなく、米川訳は岩波文庫や角川文庫で保護されているのに、小沼訳はぞんざいに扱われているような気がします。版元はもっと手に取りやすい形で出すべきだと思うのですが。つまり、ちくま文庫で「ドストエフスキー小説全集」を出すべきです。絶対。(「罪と罰」と「悪霊」の小沼訳を多くの人に読んでみてほしい)。光文社新訳文庫でなくても、こんないい訳があるということを知らせるべきです(ところで、新訳文庫はすでに出し過ぎで荒れてきていますね。なんでも新しく訳せばいいというわけではないのに)。



講談社から去年出た「完全解読 純粋理性批判」を買いました。先験的(超越論的)論理学の「概念の図式」の部分を読み、ようやく理解できたような気がします。著者の竹田青嗣さんも書かれているように、ここは難解な部分なのだそう。カントがどういう意味で図式という概念を持ち出したかは理解できましたが、やはり「苦しまぎれでは」という不遜な気持ちもぬぐいきれません。この本はとてもいいです。でも、初めて「純粋理性批判」に触れるのなら、この本はまったくおすすめできません。1ページ目に「物自体」という言葉が出てきて、すでになにがなにやらわからなくなるはず(以前「物自体」を手塚治虫のムーピーに例えましたが、そのことに修正の必要は感じません。あ。ブログ全体にも修正の必要は感じません。誤りや言いすぎに気がついたときには直しているので)。私の勝手な読み方ですが、やはりショーペンハウアーの「意志と表象としての世界」(いまは中公から新書で出ています)を読んだ後で高峯訳(岩波文庫の篠田訳は読めませんでした。意味が取りにくい)を精読するのが一番だと思います(ところが現在高峯訳は古本屋でないと手に入りません)。また、大学時代のテキスト(哲学C)ですが、「西洋哲学史」(岩崎武雄著・有斐閣)の「カント」の部分もとてもすばらしい解説です。前に書いたように私が「純粋理性批判」に触れて約30年。きちんと読もうと思って約10年。須磨源氏みたいに何度も何度もここまで繰り返してきましたが、これまでおおよその輪郭しか知らなかった「先験的(超越論的)弁証論」にも、高峯訳で踏み出しました。いまその前ふり的なところを読んで、著者の「志の高さ」に感動しました。こんなことを考え出すなんて変人中の変人で、わけのわからない偏屈者という気がしますが、プラトンの「イデア」を理性の意味付けととらえ、その理想像まで昇って行こうとする人間の心を自然のこととして信頼しきっているその心。疑わないその心。それはすばらしい。ショーペンハウアーが「神のごときプラトンとカント」とまで言ったのはこのことなのか、と思います。おそらくそこには、「自分はそうはなれない。もっと卑俗な人間だから」というショーペンハウアーの気持ちが隠れていますが。さらに卑俗、汚物にまみれ、しかもなんの才能もない私のような凡夫からすれば、まさに神、というかキリスト的な存在という気もします。……ああでも、その理想の高さが、ドストエフスキーにはがまんならない偽善のようにも感じられたみたいで「地下室の手記」では、「美と崇高の(なんとか)」というカントの論文の中の言葉を思いっきり揶揄していますね。そうしたい気持ちも痛いほどわかるのが困ったところ。私だけでなくおそらくほとんどの人間がそうでしょうが。いや、でも、もちろんドストエフスキーはニコライ・スタヴローギンの対極に「美と崇高」があることを信じてもいたと思います。「地下室の手記」の「私」は、ドストエフスキーの登場人物の一人にすぎないのだから。……話がそれ続けましたが、筆者としてはもうこのへんでよかろう、と思うものです(というのが「地下室の手記」のラストだったと思います)。



神保町の古本屋・巌松堂がつぶれました。大好きだったのに。11月21日で終わりだったとは。一昨日はじめて知りました。こんなことなら迷っていた三島由紀夫全集も買えばよかった。ニーチェ全集も何冊か買えばよかった。あの一階と二階の本の並び。なつかしい並び。まだこれからもつぶれるのでしょうね。体の内側からだけでなく、外側からも自分の一部がこうして死んでくのが見える。もう二度と生まれたくないですね。心の底の底から。



では、また来週。

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