手紙(自分を確かめるための創作)
手紙、読みました。
私が、次から次へと本を取り上げて書いているのが「不安定で軽薄でひとつもよく理解していない」しかも「そんなに読んでいては自分の書くことを忘れるのでは」との御心配です。申し訳ありませんが、御心配は無用です。私が書いているのは、自分の人生で出会えた、何万年という言葉の歴史の中で、出会えた、ほんの20~30人の作家や哲学者だけです。スタンダールも、小林秀雄も、あなたの好きな村上春樹も「理解できない」といつも言っていますよね。ちゃんと。他にも多くの作家が理解できないのですが、それはいちいち名前を挙げる必要もないと思っています。私が理解できた(しかも、その一部しか理解できないときはそのままそう書いていますよね)人、理解できたことについてだけ、いつも書いているつもりです。それが我流の解釈だとしても、われわれの場合、大事なのは、その解釈の仕方が正しいというよりも、そのことで自分にやる気がわくかどうかなのではないのでしょうか。私には、あなたのように芸術家のお仲間が一人もいないので、お仲間から創作の刺激を受けることもなく、常に自分ひとりで、誰にも頼まれていない、作り出す高揚感を持続しようとやっています。それには、自分が本当にすごいと感じることのできる人の仕事を常に読むしか手だてがないのですが。あなたやあなたのお仲間たちのように、もうすでに勉強することは終わり、これから巨匠になっていくだけ、というような方々とは身分が違うんですよ。私は50を過ぎてなにもない老人です。しかし、他にやりたいことがないのだから仕方ないと思っています。人間、ひとつは夢中になれることがないと生きていけませんからね。それが、普通の仕事と合致している人はもちろんそれでいいわけだけど、私にはそれが無理だとわかっているから仕方なくこうしているわけです。しかし、私には仲間などいなくてよかったと思っています。仲間がいると、私のような卑俗な人間は、すぐに内心で「あいつよりはまし」などと、世界で最も簡単な方法で自分を確認し、もはや創作によって自分を確かめるなどという回りくどい、しんどいことはしなくなると思うからです。如是我聞の作者がその中で言っていたことを思い出します。「本を読まないということは、その人が孤独ではないということだ。」以上。破たんした人間の破たんした文でした。