麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第485回)

2015-05-31 20:50:29 | Weblog
5月31日

仏法部読了し、これで本朝部はすべて読み終わりました。天竺・震旦部に入る前にちょっと休もうと思っていたところ、新潮文庫から「ボヴァリー夫人」の新訳が出て、驚きました。買ってきて、シャルルがエンマと知り合うあたりまでさっと読みましたが、やはりすばらしいですね。これこそ小説、という感じです。フローベールは、文章についての談義や、人生についての談義も地の文ではいっさい触れません。すべてを物語のプロットと描写と会話の中に溶け込ませている。その潔さが猛烈にかっこいい。――この新刊の訳者の経歴のところに「失われた時を求めて 全一冊」とあったので、なんじゃそれは、と検索したら、単行本の新刊で角田光代さんとの共訳で新潮社から「失われた~」の縮約版が出たとのこと。さっそく昨日、立ち読みしました。うーん。という感じ。まあ、訳者自身があとがきで書かれているように、この本は一度全編を通読した(私のような)読者には必要ない本でしょう。でも、とにかく興味がある、という方には一冊(原稿用紙1000枚だそうです)で一応全編を見渡せるのでいいのかもしれません。ひとつ気になったのは、ボヴァリー夫人の新訳者であるフランス語の先生が、「角田さんが『ぼく』という一人称を使ったのには驚いた。日本語訳としてはじめてのことである」というようなことを書かれていたこと。それは間違いです。集英社世界文学全集で、鈴木道彦さんが「花咲く乙女たちのかげに」を単独で訳された時に、「僕」という一人称を使っています(この本も持っています)。のちに鈴木さんは全訳をされたとき、主人公の年齢が進むにつれ、「僕」が不自然に感じられたので「私」にした、と書かれていました。「ぼく」と「僕」の違いはありますが、今回の一人称が初めてなわけではありません。偉い先生にぼんくらがいうのもなんですが、本当に知らなかったのなら、ちょっと問題ではないか、と思いました。――また、私は偏見の塊なので書きますが、できればプルーストの世界に女性に入ってきてほしくありません。たぶん、女性から見れば、「失われた~」は性愛小説であり、それしか扱っていないように見えるかもしれません。しかし、ここには少年にしかわからない、数々の世界の見方が出てきて、それが物語の根底を支えています。「常に前向きにしか生きられない」女性という生き物には絶対に理解のできない部分が多々あります。母親としてなら理解できても、それは、作中で話者の母親が「女目線から見てよくないという理由で息子の読書の範囲を狭めてはいけない」との自覚からアラビアンナイトはガラン訳ではなくマルドリュス版を与える――といった程度の理解でしかなく(それでもすごくものわかりのいい対応ですが)、なぜ男には哲学(つまりおとぎ話)がなければ生きられないのか、女性には絶対に理解できないからです。――また、女性が「ぼく」と書いたり言ったりするのも虫唾が走るくらい嫌いです。実は中学の時、東京から転校してきて、文芸部というクラブを作った女の子が「ぼく」派でした(その影響を受けてぼく派が増えたものです)。――要するに、私は、「失われた時~」は、女性には必要ない書物だと思います。――よく、「哲学が理解できない」「こうすれば理解できる」というような不思議な本がありますが、自分の心が必要としなければ、別に哲学なんか理解する必要はないはず。たとえば、「有名なニーチェというやつはどういうことをいっているのか見てみよう」と、ツァラトゥストラを読んで、その趣旨を要約し、有用か無用か、文学として上質か不出来か評価を下す、なんてまったく無意味で無駄な行為です。ツァラトゥストラを読んだ時、パンセを読んだ時、砂漠で泉に出会ったように感じ、ただ何度も繰り返し読んでしまう。そういうふうにならないのなら、その本はその人にとって必要ない書物というただそれだけのことです。――私はスポーツ全般に興味がありません。もしそんな私が、知りもしないのに客観的にスポーツとはこれこれで、有用か無用か、なんて言い始めたら、それを必要としている人は激怒しますよね。本にしてもそれは同じことです。必要がない人はなにも評価しないでいい。それだけのことです。女性が「プルーストを評価をする」なんてやめていただきたい。女性には別の領分があるのだから(たとえば文学なら「嵐が丘」のような)、そちらで女王になればいいわけで、なんにでも首をつっこむのはやめてほしい。――私は「失われた~」を読んで、無意味から救われました(女性といても、無意味からは救われませんでした)。詳しくは書きませんが、この本は私にとっては水のようなもの。それも、泉鏡花のいう「水は美しい。いつ見ても、美しいな」という水としての。私がここで何度も引用したルグランダンの言葉も、その本当の切実さが女性に理解できるとは思いません。性愛にも、華やかさにも、富にも、優劣の付け合いにもなんの関係もない場面だから。でも、ここは「失われた時~」の中で、本当に大切な一節なのです。――なんのまとまりもないですが、ここでやめようと思います。
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生活と意見 (第484回)

2015-05-24 19:43:20 | Weblog
5月24日

巻十九読了。合間になんとなく「銀の匙」を読み(若いころ途中まで読みましたが)、やはりすごいな、という感じと、なぜか完全には好きになれない感じを、また持ちました。そこで百の「冥途」を読んでみると、こちらは完全によいと感じる。その違いはなにか。どうも私には「銀の匙」は描写する対象よりも文そのものに力点が置かれているような気がする。場所によっては言葉のほうが事物に先行しているような感じさえする。百は対象を完全に五感でとらえていて、どう書けば正確に書けるかしか考えていないような気がする。百のほうが平明で男らしい。そのへんが好悪の分かれ目なのでしょうか。――そうだ。若いころ「犬」もあまりいいとは思えなかった。たぶんユーモアがないから。まあしかし、「銀の匙」の作者のほうが女性には好意を持たれるでしょうね。間違いなく。

今日、用があって二年ぶりに渋谷で降りました。東横のホームが解体されたまま晒されていて悲しくなりました。できればもう渋谷には行きたくないです。
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生活と意見 (第483回)

2015-05-17 16:58:06 | Weblog
5月17日

巻十九に入りました。この巻含めてあと二巻で本朝仏法部は終わり。先週から読んだところでは、わらしべ長者の原作と思われる話や、日本霊異記にも出てくる、吉祥天女の像に愛欲をもよおす話などがありました。また、ある坊さんが先輩から数珠をもらい、先輩が亡くなった数年後、中国に留学。皇帝に謁見した際、皇帝の皇子が、「まだわしのやった数珠をつけているのか」と、日本語で話しかけてくる。じつはその皇子は先輩僧の生まれ変わりだった、という話なども。読むとすぐ、「暁の寺」の、ジン・ジャン(飯沼勲の生まれ変わり)と本多のやり取りが浮かんできました。「本多先生、おなつかしい……」というあの場面です。――本朝仏法部のあと続けて読むかどうかわかりませんが、講談社学術文庫「今昔物語集全9巻(天竺・震旦部)」を6巻以外手に入れました。新書3巻(東洋文庫)、文庫全15冊。すべて今昔。ならべただけでも壮観です。これは明らかに、私のような脳みその程度の人に合わせた「お経」ですね。読んでいるうちにそう感じてきました。世俗に生きる、教養のない人間でも仏教の尊さがわかる。これはそういう「平易経」として作られたのでしょう。
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生活と意見 (第482回)

2015-05-10 16:58:06 | Weblog
5月10日

巻十五はすべて坊さん尼さんの往生物語で、似たパターンの話が続きました。往生の話ばかり読んでいると、自分も早くそうならないかと待望するような気になってきます。それは悪くない気持ちです。しかし、十六からはまた奇談めいた感じに戻りました。いちおうこの世に戻ってきた、という感じ。別に戻らなくてもいいのですが。

源信の母の立派さに心を揺さぶられました。多くの母親は、息子が世間的に成功すれば喜ぶはず。ところが源信の母は出世して己に酔っている息子を俗物と軽蔑する。子どもの頃、私は、母が「世界の背景にある意味を見出すように」と、自分に期待しているのだと信じて疑いませんでした。だから勉強しろというのだと。ところが母親は私が金持ちになることを望んでいたのです。食い違いもいいところ。親不孝の典型ですが、もともとこういうふうにしか生きられなかったのでしかたありません。二度と生まれなくてすめばそれで満足です。
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生活と意見 (第481回)

2015-05-02 14:05:12 | Weblog
5月2日

仏法部、角川文庫の上巻、読了。すでにスーパースター級の坊さんの話は少なくなり、有名無名各寺の和尚、はては乞食僧の話にまで話のすそ野は広がっています。なぜここまで飽きずに読めるのか考えてみると、結局私自身、坊さん側の人間だからなのだと思います。もちろん、徳が高いというようなアホな意味ではなく、名誉、富、子孫をまったく求めていないという点で。しかしまた彼らと違うのは、私が極楽往生も求めていないこと。本当にほしいのはひとりで紙に向かえる時間だけです。子供のころにはけっこうあった、「自由」。ひとり、とはいま現在の物理的な状態だけでなく、心のどこにも、めしを食うための人付き合いの影が一切ないこと。つまり、不可能な状態ということです。
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