麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第34回)

2006-09-24 01:17:18 | Weblog
9月24日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

今日は、12月11日からの「写真&言葉」展のタイトルを、カメラマンの宮島氏と決めなければならず、ずっとそのことを考えていて「友だち」の続きを書くことができません。

すみません。

10日ほど前から、ディケンズの「大いなる遺産」(中央公論社「世界の文学」セレクション)を読んでいて、2日前に読み終わりました。
新潮文庫でこれまで何度か挑戦しましたが、訳文の日本語にどうしてもなじめず(たしか初版が昭和27年とかで、改版にはなっているけど改訳にはなっていないのです)、挫折ばかりしていました。ところが、たまたま見つけて買ったこれは、とてもいまの日本語に近くて味読できました。読後の感想としては、「ディケンズはすごい」のひと言です。私流にまたおおげさにいうなら、うちのめされました。それは、もちろん、書き手として云々というようなおこがましいことではなくて、人間として、です。
結末には2パターン、主人公のピップがエステラと結ばれるものと、そうでないものとがあるそうです。そうかと思って見てみると、新潮文庫のものは前者で、私が今回読了したものは後者です。

私の意見を言わせてもらえば、この作品にハッピーエンドはありえないでしょう。
いくつものテーマが絡み合っていて、そのどれもが完璧に具象化されて描かれていますが、私の感じる限り一番大事なテーマは、ピップを、つまりディケンズの中のひとつの人格を裁くことだと思います。ジョーという人間を捨てて都会に出て行き、悲しみもしなかったピップが、幸福になれるはずがない、というのがなにより作者の考えであると思います。また、そうでなければ、最後に幸福に包まれるジョーとの対比がはっきりしません。ハッピーエンドのパターンは、友人の助言があってそうしたということですが、きっとその友人は、そのほうが芝居にしたときに人気が出る、と考えたのでしょう。
こんなにいい作品だとは、予想もしていませんでした。私は、この本を東京堂書店で買いましたが、このシリーズは1993年ころに出たもので、きっとジュンク堂や紀伊国屋本店にならまだあるんじゃないかと思います。
気が向いたら、探してみてください。


では、また来週。
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生活と意見 (第33回)

2006-09-17 01:59:37 | Weblog
9月17日+18日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

念願の秋が来て、とてもうれしいです。

本好きとしてもうれしいことがひとつ。

光文社文庫から、古典の新訳シリーズが出ましたね。
「カラマーゾフの兄弟」、「小さな王子(星の王子さま)」、「マダム・エドワルダ」など。

「カラマーゾフ」の新訳は、私の知る限り、池田健太郎訳以来、30年ぶりくらいではないでしょうか。訳者は、去年か今年の頭に、みすず書房の「理想の教室」シリーズで「悪霊」の「スタヴローギンの告白」を新訳した人です。たしかにその訳はよくて、私はこの人の「悪霊」の新訳がでるのかな、と思っていたのですが、「カラマーゾフ」が先だったようです。
「カラマーゾフ」はたぶん、5回くらい読んでいますが(すべて池田健太郎訳で)、今度の訳は、たしかに日本語が自然で、読みやすいと思いました。導入部が、とにかくまどろっこしいので、ここでゾシマ長老の言葉があまりにジジ言葉に訳されていたり、説教くさくなっていたりすると、先に進む気力が萎えてくる人が多いでしょう。そのせいで次に進めなかった人には、絶好の訳です。

 しかし、まあ、私にとって「カラマーゾフ」とはなにかといえば、それは「ミーチャ」の章と、「少年たち」の章である、ということになるでしょう。
 ミーチャ(ドミートリー・カラマーゾフ)が、グルーシェンカを完全にあきらめ、彼女が追っていった昔の男と友だちになろうとして、ただその道化役を遂行しようとして、真夜中にモークロエ村まで馬車を飛ばす場面。もう、信じられないような、ドン・キホーテ的な、笑えて泣ける場面です。でも、それをとても若いときに読んだ私には、そのときの夜空がまるで自分で体験したもののように、記憶に残ってしまっています。
 また、「少年たち」の章のこみいった設定。おそらくほかの誰も思いつかないような展開、それなのにまるで本物の少年が書いたようなリアルなディテール。(作者は60歳のはずなのに)

 私はよく、20世紀の作家は、ドストエフスキーをタネ本にして、その中から自分が得意なところを取り出して発展させただけだ、と感じることがありますが、「少年たち」の中には、サリンジャーがのちに発展させたものが多く入っていると思います。
それは、「大審問官」を、サルトルやカミュ、埴谷雄高らが発展させたということと同じです。
ドストエフスキーは、そういうさまざまな方向を1人で抱えているというところがなによりすごいと思います。
あまりにその「哲学」ばかりが話題にされることの多いドストエフスキーですが、私はそれはまったく間違っていると思います。ドストエフスキーは、ディケンズやゴーゴリを師とあおぎ、なによりも感動を狙って書いたのですが、シェークスピアも大好きだったために、せりふが長くなりすぎて、小説としてはちょっと散漫になったのだと思います。「大審問官」にしても、それはたしかに深刻な話ですが、その思想も、それを語るイワンも、作者にとっては1人の登場人物とその考えに過ぎない。つまり、作者の中のいくつかの人格のひとつに過ぎない。たぶん、「大審問官」の提示する問題の解決は、イワン、アリョーシャ、ミーチャ、スメルジャーコフ、フョードル、グルーシェンカなどなどの人格・考えの総合である作者その人の中に、作者がそれらを抱えながら生き生きと生きていたということの中にすでにあるように思います。

ずれてきましたが、私は「ミーチャ」と「少年たち」の章をこれから新訳で読めるのが楽しみだ、と言いたかったのです。

今週は、「友だち」の3回目を、「風景をまきとる人」の33回と同時に読んでいただこうと思います。

では、また来週。

※9月18日、午後5時40分、「友だち」第3回、改稿しました。
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生活と意見 (第32回)

2006-09-09 23:46:13 | Weblog
9月10日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

今日は、カメラマン・宮島径氏とのコラボレーション展の宣伝をさせていただこうと思います。
期日は、12月11日~17日までの1週間で、場所は新宿の「PLACE M」というところで行います。ホームページに、その予定が記載されました。

http://www.placem.com/j/schedule.html

場所の地図も、ここから見ていただくことができます。

私のブログを読んでくださっている皆さんには、すでに「短編」として読んでもらった短い文章が写真のあいだにちょっと顔を出している、といった感じですが、宮島氏の写真の中にいることで、まったく別物になったような感じが味わっていただけると思います。
 もちろん、これは、勝手に私の立場から言わせてもらったことであり、基本的には「宮島径写真展」ですから、皆さんは、なにより、先入観なく氏の写真をご覧になっていただけたらと思います。

 氏は、私より8歳下で、今年39歳。プロカメラマンとして、おもに雑誌で活躍しています。また、美術館の作品パンフレットなどを手がけることも多く、最近では、府中市美術館の『第2回府中ビエンナーレ-来るべき世界に』展のパンフレットなどを撮っています。

 私は、6年前に氏と仕事で知り合いました。職業上、カメラマンの知り合いはたくさんいますが、個人的な話をしたことはほとんどありませんでした。
 どういういきさつでそうなったのかは忘れましたが、ある日、宮島氏が、とても若いころに撮った自分の写真集(ノートに写真が貼ってある、世界に1冊しかないもの)を当時の私の仕事場に持ってきてくれました。私は、なにより、びっくりしました。それは、全編これまで見たことのないような写真だったからです。こんなことが写真でできるのか、こんなことを写真でやろうとする人がいるのか、と驚いたのです。こまごま説明めいたことはいくらでも書けますが、あまり意味がないと思うのでやめます。私には、その写真集が、短編小説集のようにも見え、詩集のようにも見えました。そうして、一見物静かな風貌の氏の内面に積もっているものが見えたように思いました。

 私は、当時、流されるままに40歳を迎え、『風景をまきとる人』を書きはじめてはいましたが、最後まで書くのか、書いてどうなるというのか、書かなくたっていいだろう、いやしかし……などと、その前の何年間と同じ日々を送っていました。
 けれども、氏の写真を見てから、なんとしても自分も作品を持ちたいと強く思うようになりました。そうして、創作上の悩み(いままで誰にも相談できなかった悩み)を氏に相談するようになりました。氏は、ジャンルはまるで違うのに、いつも問題の核心を聞き取ってくれ、的確な意見をくれました。氏がいなかったら、私は、原稿を終わらせることができなかったと思います。
 私が原稿を進めることで、氏にもなんらかの刺激を与えることができたようで、氏も1回めの個展を開きました。

「世界とは、その瞬間の『世界のふんいき』以外のなにものでもない」

 というのは、私自身の言葉ですが、氏の写真はまさに、1枚に世界のふんいきを詰め込んだものであり、と同時にそれを見てしまった氏の頭の中の正体でもあります。

今回のコラボレーション展は、最初で最後になるものかもしれません。
「性格」というようなことでいえば、私と氏の性格はまったく違っているし、ふだん見たり読んだり聴いたりしているものも違います。
今回も、なにかのテーマに合わせて共同で作った作品ではなく、お互いぜんぜん違う時期に違うアプローチでやっていたことが、なにか共鳴しているようだ、と感じたので形にしてみよう、となったまでです。
でも、私には、この、偶然の共鳴がなによりおもしろいのです。
ゆるく、急ぐ。というか、これからもわざと共鳴するのではなく、見て取った世界のふんいきを報告し合い、偶然それが重なったらまたこんなこともやってみたいと思います。
きっとこんなことは、そんなにしょっちゅう起こることでもないと思うので。

長くなりましたが、みなさん、宮島径氏の写真を見に来てください。

SPACE Mの展覧会の前に、高田馬場の「26日の月」というギャラリー・バーで11月16日~30日まで、「宮島径写真展」が開かれます。ひょっとすると、私もなにかお手伝いをするかもしれません。こちらのほうも、よろしくお願いします。

http://www2.ttcn.ne.jp/~moon26/


では、また来週。
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生活と意見 (第31回)

2006-09-03 01:13:37 | Weblog
9月3日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

少し涼しくなったので、ほっとしています。

なんとなく、やる気が出て、「友だち」の2回目を書きました。
登場人物のふたりが、テーブルを挟んで座わるまでに、あと何回かかることか。
ゆっくり進んでいきますので、よろしく。

ちなみに、「風景をまきとる人」は、クリスマスイブに終わる話なので、そのころに連載も終わる感じになればいいな、と思っています。

では、また来週。

※9月3日、午後11時56分、「友だち」第1回、第2回、ともに改稿しました。
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