麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第139回)

2008-09-28 14:19:54 | Weblog
9月28日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

ネルヴァルの長編「東方への旅」の一部「暁の女王と精霊の王の物語」(90年復刊角川文庫)を読みました。これは、通読したのは初めての本です。

旧約聖書のヒーロー、ソロモンと、シバの女王の恋愛を題材に、ネルヴァルが大きくアレンジを加えた歴史幻想小説。クライマックスは、職人頭のアドニラムが、地下の精霊たちの国に降りていき、そこで地上の人々が知らない、「世界の真理」について、カイン(「カインとアベル」のカインの精霊。アドニラムの直系の祖先)に説明を受けるシーンでしょう。神曲にも似た幻想は、リアリティがあって、とてもおもしろい。「オーレリア」もそうですが、なにかこういうところを読むと、昔「麻里布さんの作品は、ネルヴァルに似ていますね」と、まだネルヴァルを知らないころ、知り合いに言われた理由がよくわかります。本の解説を読むと、おおかたの訳者は、ネルヴァルの幻想の元を、彼の神秘学趣味のせいにしていますが、それだけではないのが、私にはわかります。もともとなにかの直感というか感覚というか、生(なま)の物があってこそ、こういうシーンが生まれてくるのです。自分に必要だから、それを見たくて描くのです。もちろん、それを描き出す才能には人によって雲泥の差があるわけですが……。



ファンタジーのようなものも、1作だけ書けたらいいのですが……たぶん手をつけたりする余裕は死ぬまでないでしょう。貧民層に生まれた者は、相応の教養を身につけるだけで十分。「世界のしくみ」について思いをめぐらせるなんて余計なこと。なるほど、そのとおりです。おみそれしました。すたこらさっさ。



では、また来週。
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生活と意見 (第138回)

2008-09-21 21:38:57 | Weblog
9月21日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

昨日と今日は、ネルヴァルの「シルヴィ」と「オーレリア」を続けて読んでいました。
ネルヴァルが自死したのは47歳。いまの私より若いときです。「オーレリア」を読むと、やはり、こんなことを書く人は、すでにこの世では生きられない、というのはわかりすぎるほどわかります。私ふうにいえば、各人は、みな自分のおとぎ話の中で生きているわけですが、そのおとぎ話の材料として、多くの人が「現実」と呼んでいる世界の、どの部分も必要でなくなったとしたら、もはやここにいても仕方ありません。

「シルヴィ」は、いい。心にしみます。ネルヴァルは、生涯、恋に恋している少女のような人で、本物の、女という図太い動物には理解されなかったに違いありません。彼が愛していた「女」とは、自分の考えた「理想」(「理想の女」ではなく、いってみれば「宗教的理想世界」)という概念そのものだったのだから。たぶん、そこには、母親の記憶がない、という不幸も大きく影響しているのでしょう。

「シルヴィ」には、「失われた時を求めて」のもつ雰囲気の一部が感じられます。ネルヴァルみたいな「繊細な精神」のマイナーな作家が、アジアのボンクラ自費出版作家に愛読されるようになったのも、もちろん、プルーストがネルヴァルの再評価を世に迫ったからです。たぶん、これからもマイナーな作家のレッテルははがれないのでしょうが、少なくとも「シルヴィ」は、傑作として読まれ続けるに違いありません。

興味のある方は、ちくま文庫「火の娘たち」をどうぞ。
「オーレリア」は、現在簡単に手に入らないと思います。ちなみに、私の持っているのは、「講談社世界文学全集」版で、ロートレアモンの「マルドロール」といっしょになっている巻です。中公・「世界の文学」版も持っています。こちらは、ボードレールとの2人集ですが、どちらも古本屋には、300~500円くらいで出ていると思います。



雨がすごかったですね。
では、また来週。
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生活と意見 (第137回)

2008-09-15 02:17:23 | Weblog
9月15日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

「風景をまきとる人」の改訂を続けています。
いまのところ、意味がはっきりしない部分や、あせって書き進めてしまったところなどを直すだけにしようという考えに落ち着きました。それだけでもいろいろあります。

締め切りもないのに、なぜあせったのかというと、ひとつには金がなくなってきて、仕事をしないでいられるのはあと何日、というような状況があったから。もうひとつは、「完結する」ということから逃げて、各所に手を入れると、結局また書き上げないままになると思ったからです。660枚の原稿の全編のリズムを確かめるため、多いときは1日3回通して黙読しました。なにより、通して読んでもらえるものにしたかったのです。すごく疲れたけど、今から考えると、とても楽しい毎日でした。
頭が干からびるかと思いましたが。



平凡社ライブラリーから、アーサー・ウエイリー訳「源氏物語」の日本誤訳が出ました。
本邦初の試みです。
ご存知の方も多いと思いますが、1925年にイギリスで刊行されたこの翻訳は、ヨーロッパをはじめ世界で源氏物語が読まれるきっかけとなったもの。

今年は源氏物語千年紀(文献に源氏についての記載がされてから千年)ということで、角川文庫の与謝野源氏二種、新潮文庫の円地文子訳、このウェイリー訳の和訳、と源氏にまつわる文庫が花ざかりです。ウェイリー訳も「紫」まで読みましたが、たしかに、こんな散文が、いまの時代のわれわれには一番わかりやすいかも、と思いました(与謝野源氏を読んでから、瀬戸内訳に対する評価は、私の中で下がっています)。



光文社文庫の「カラマーゾフの兄弟」の売り上げがついに100万部を突破したそうです。すごいと思うけど、なんだか、ブームって怖い、という感じもします。次は、どうやら同じ訳者による「罪と罰」の新訳が出るようです。なぜ、「悪霊」ではないのか? でもとりあえず、楽しみです。

では、また来週。
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生活と意見 (第136回)

2008-09-08 00:56:58 | Weblog
9月8日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

数ヶ月前から、徳間文庫で「中国の思想」シリーズが出始めました。
「論語」で始まって、最新刊は「荘子」。「荘子」は、何種類か訳本を持っていますが、本当におもしろい。いま世間では、「老子」が少し流行っている感じ。でも、「荘子」のほうが説教臭がなく、好きです。若いころは反対で、「荘子は無駄話が多い」と感じていました。それも、若者にすれば、当然の感じ方だと思いますが。

今日は、「ツァラトゥストラ」を読んでいました。
予備校生のころ、広島本通りの古本屋「アカデミイ書店」で買った講談社文庫の上下2巻本。なんの前知識もなく、ただその日気が向いたので買いました。それから30年。この本も「南回帰線」などと同じで、ずっと持ち歩いていた時期があるので、ボロボロになっています。何度もボンドでページを張り合わせて読み続けています。

手の皮がむけて赤くなったおじいさんがご主人だったと思いますが、おそらくもう生きてはいないでしょう。角川文庫の「パンセ」も同じ時期に広島で買いました。その新刊本屋も、とっくの昔にありません。

偶然同じ時期に買った2冊が、生涯の愛読書になるとは、当時はまったく思っていませんでした。しかも、そのころは哲学などやる気はなく、国文科に入ることをめざしていたのだから不思議です。

「ツァラトゥストラ」には、赤線がたくさん引いてあります。文庫なのに、定規をあてて赤ボールペンで。その箇所をたどるだけで、自分の心が若いころと同じ波を打ち始めるのを感じます。プルーストが言うように、本の中には、それを読んだときの自分とそのときの時間が完全に保存されているのでしょう。

いま、また少しずつ本を整理しているのですが、あのころ買った本は、どうしても手放す気になりません。くたばるときもそばにいてほしいと思います。

では、また来週。

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生活と意見 (第135回)

2008-09-01 00:59:08 | Weblog
9月1日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。



先週のブログはひどかったなあ、と思います。
何度か週の途中で削除しようと思ったのですが、結局、誰に何を隠す必要もないのだと考えてそのまま残すことにしました。
たぶん、夏バテした心の「ぐうの音」だったのだと思います。



酒が飲めないことは、昔から、他人とのコミュニケーションのネックになってきたことはたしかです。私には人生で、「今度飲みに行きましょう」と、人を誘ったことが一度もないですし、仕事の義務以外では、酒席に参加したことは、ほとんどありません。

大学時代も、合コンはおろか、クラスコンパというものにも出たことがありません。
「風景をまきとる人」の中に、飲み会のシーンが出てきますが、これは、仕事の関係上どうしても顔を出さなければならなかったいくつかの酒席で見たものを材料に書いたシーンで、私には酒の席がこのように見える、という一種の報告です。正直に言えば、そのような場の何がおもしろいのか、いまだにまったくわかりません。楽しめないので、そのぶん、せいぜい他の人たちを観察することで時間をつぶすしかなかった、というところもあります。



また、私は大学時代、サークルというものにも入ったことがありません。
「風景を~」の丸山の学生生活は、だから、すべて創作であって、モデルになった人や、材料になった何人かの体験談はありますが、自分の経験ではありません。

実をいうと、「風景を~」を書いているとき、一番「作り話を書いている」と自覚できて楽しかったのは、丸山の、普通の大学生活を描いているときでした。何度か書き直すうちには、自分が丸山のような学生時代を過ごしたような錯覚が起こって、たぶん、自分がそう感じるのだから、読んでくださる方にもある程度リアルなものになったのではないか、と思いました。



私は、正直、社会に出て、ここまで「酒」というものが重要になるとは思ってもみませんでした。酒席の誘いを、「俺は飲めないので」と断ると、「つき合いが悪いな」などといわれ、それだけでどことなくいやな雰囲気が漂う。誘うほうは、向かう場所に楽しめるものが待っている。私にはなにも楽しいものがない。だから行かない。それだけのことなのに、です。彼は、私がギター選びにつき合えと言ったらつき合うはずはないでしょう。しかし、そこで私が「つき合いが悪いな」といえば、私はほとんど狂人のように扱われることでしょう。

星新一に「おみそれ社会」というタイトルの本があります。一度も読んだことはないのですが、社会に出てから私は何度も何度も心の中でそのフレーズをつぶやくようになりました。
とくに酒にまつわることはそうで、「俺の注いだ酒が飲めないのか」「飲んで腹を割ろう」などと、子どものころ父と行った散髪屋で読んだ大人の劇画にあったようなセリフの世界が、実際自分が大人になってもまだあるというだけで、私にはもう、「おみそれ社会」なのです。
「おみそれ、おみそれ。おみそれしましたので、どうか私のようなバカは放っておいてください」。それが、私の、酒席を愛する人へのたったひとつのメッセージです。

酒が絡まなくても、パーティのようなものとか、打ち上げのようなものも、「おみそれ社会」です。やはり仕事の関係上いくつかそういう席にもいたことがありますが、とりあえず食えるものを食うと(義理で出ている以上、一食の食事代を浮かすくらいのことは許されていいでしょうから)すぐに、外に出ます。一人になれると、心の底からほっとします。

そんなとき、いつも思い出すのは、幼稚園や小学校の低学年のころ、自分の好きな時間に下校していたときの気分です。一人になれて感じる気分は、そのころとまったく変わりません。誰にも相手にしていただかなくても、「自由」。それが私にとって、空気や水と同じ必需品なのだと思います。



おみそれ、おみそれ。
まっぴらごめん。
すたこらさっさ。

それが、自分のすべてです。



では、また来週。
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