麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第225回)

2010-05-30 09:34:53 | Weblog
5月30日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

iPadが話題になっていますね。
この製品を知ったとき、すぐに思い浮かんだのは、泉鏡花の「夜叉ヶ池」か「海神別荘」かに出てくる、手をかざすと文字が浮き出て読書ができるという本のこと。まさにそれはiPadですよね。まあ、誰でも考えつくといえばそうですが、明治時代の人の空想としてはすごいと思います。

20歳ころ、「夜叉ヶ池」が映画になって、鏡花が少し流行ったことがありました。

「水は美しい。いつ見ても美しいな」

というセリフで始まる物語。なんという一行か、と思って忘れられません。鏡花の中にある、「中途半端で醜い生き物、人間よ、滅びよ」といった目線がこころよく、読みやすいとはいえない小説も何作か読みました。有名な「高野聖」は、中国の奇談にも似た味わいのある話(「三娘子」を思い出させます)で、当時すでに「聊斎志異」も読み始めていた私には大好物のひとつとなりました。鏡花の、その、人間に対する軽蔑への共感は、たぶん、気質的なものもあると思いますが、当時自分の性欲をもてあましていた私の、自己否定願望からきていたのでしょう。鏡花を読まなくなったのは、(漢字が難しいせいもあるけど)年々、人類を道ずれにしてまで滅ぼさなくてはならないほどの性欲がなくなってきたからでしょう。もし、作者がそれらを書いた理由のひとつが、自己否定願望にあるとしたら、ある意味、鏡花の幻想的作品群は永遠の青春小説といっていいのかもしれません。

思い出したので、書きました。



しばらく前から、「ブリキの太鼓」の新訳を読んでいます。おそろしく、読みにくい。以前から出ている文庫に比べると、それでも読みやすくなったと思いますが……。いま、ようやく第2部に入ったところです。読了できたらなにか書こうと思いますが、半年くらいかかるかも。その間に「嘔吐」の新訳が出たら、もちろんそちらを先に読むつもりです。



では、また来週。

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生活と意見 (第224回)

2010-05-22 12:31:53 | Weblog
5月22日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

柴田元幸新訳で、ヘミングウェイの「in our time」が出ました。
短編集「われらの時代に」(In Our Time)の、各短編の頭にくっついている掌編(何編かは、「短編」そのものに組み込まれています)だけを集めたもの。ご存知の方も多いと思いますが、もともとは、これだけで独立して170部作られた本。

すごい。
なんという文章か。
ほとんど英語で書いた「俳句」と呼んでもいいような章もあります。
高見訳と読み比べてみましたが、柴田訳から見ると、高見訳にもまだ無駄な言葉が多い。

なかでも、今回気に入ったのは、第10章。これだけで、もうひとつの「武器よさらば」になっている完璧な作品。今度の訳でそれを強く感じました。「武器よさらば」より、こちらのほうがリアルでより悲惨な感じさえします。

今は「移動祝祭日」もちゃんとした訳で出ているし、短編もこうしてちゃんと訳されている。本当にいいですね。学生時代の「ヘミングウェイ環境」と比べたら格段の差です。

興味のある方はぜひ見てみてください。



ネットで人文書院のページに寄ってみたら、なんと、サルトルの「嘔吐」が新訳になるという予告が。訳者はあの、史上2人目の「失われた時を求めて」の個人全訳者で、岩波文庫「悪の華」「マラルメ詩集」の訳で知られる鈴木信太郎博士の息子、鈴木道彦さんです。「初夏発売」となっています。ものすごく楽しみです。

「嘔吐」は、「真理伝説」という仮タイトルで、最初、昔風の堅苦しい文章で書きすすめられ、セリーヌの「夜の果てへの旅」が出たときに、サルトルが驚いて、その話し言葉に近い文体をお手本にした、と解説に書かれていました。が、正直、現在の白井訳では、「どこが?」と思うくらい、そのことがわからない。どう読んでも、昔風の堅苦しい文章そのもののように感じられる。

きっと今度の訳では、それがわかるに違いないと思います。
なんにせよ、白井訳以外これまで邦訳が出たことがなく、何度か改訳はしてあるにしろ、初訳からは約60年ぶりの新訳。画期的なことだと思います。



「マラルメ全集」、いい。
別冊になっている注を読みながら、ゆっくり読んでいます。「イジチュール」に行きつけるのはいつのことやら。

以前、現代思潮社(?)版をもっていましたが、「イジチュール」は、私の感覚では「小説」です。よく覚えてないのですが、主人公が、夜、自分の部屋から廊下へ出るまでに何十行もかかる、というような書き方だったと思います(ディケンズなら「彼は廊下に出た」と、半行ですませるか、主人公を廊下に立たせておいて、「彼が廊下に立っているということは、どこかでドアが開けられたに違いない。しかし、誓って言うが、作者は、廊下の奇妙な物音に気を取られて、その音を聞かなかったのである」とかなんとか、2~3行で書くでしょうね)。

「死霊」もびっくりの超スローペース。でも、高校時代、私もそういうものが書きたくてしかたなかったことがあります。「ストーリーなど不純」「なにもドラマがないことが大事」などとバカに深刻に考えたりして。あの、ほとんどストーリーのない「魔の山」が大好きなのも(2回しか読んでないけど)、そういう傾向のひとつですね。

やはりそれは、ひと言でいえば、「倦怠を好む」ということなのでしょう。
活動より倦怠が好き、というのは、子供のころからそうだったと思い当たります。

小学生のころ、土曜の午後に、学校で「今日遊ぼう」と、ついついその場のノリで約束し、友だちが何人か自転車できたのを「もう遊びたい気分じゃなくなったから」(ちゃんとそう言いました)と追い払い、そのくせなにもすることがないままに寝転んで、窓から空を見ている……そんなことがよくありました。自覚しているわけではもちろんないのですが、そういうとき私は倦怠を楽しんでいたのだと思います。

しかし、「不幸の原因はただひとつのこと、つまり、人間が部屋の中にひとりでじっとしていることができないことにある」というパスカルの言葉通り、やがて私は好きな女の子のことを思い出し、心はざわめき、倦怠を楽しむ余裕がなくなり、町で会えるかもしれないという(会っても思い切りバカにしたあいさつをするだけなのですが。ああ)期待に立ちあがり、部屋を出ていく。私は不幸になりに行くわけです。

話がそれ続けている……。
なにがいいたかったのか。

マラルメの詩はむずかしいけど、その味わいは、少年時代の土曜の午後の世界の感じに近いということでしょうか。たぶん、そんな感じ。もちろん、プルーストも。



では、また来週。
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生活と意見 (第223回)

2010-05-16 12:39:42 | Weblog
5月16日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

「マラルメ全集」第一巻、買いました。
「日本特価書籍」で約1万8000円。私にとって最高のぜいたく(酒は飲めないし、タバコはやめて5年。という何の楽しみもない人間なので許していただきたいところ)。

高かったけど、訳文を一読、買ってよかったと思いました。
まず、雰囲気は以前から好きだった「不遇の魔」(西脇順三郎訳では「不運」)の訳が、まったくの新訳で、過去のいくつかの訳と比べ、とてもわかりやすくなっていて感激。はじめて全編を(私個人のレベルで)理解できました。

ほかにも、20年近く前に出た「詩と散文」(マラルメの一巻選集・筑摩書房)中の作品で、ちょっとわかりにくかった表現が改訳されて、とても意味がとりやすくなっています。
なぜこれほど発売が遅くなったのか、十分納得がいきます。

ボンクラ自称作家がマラルメについて書く、というだけでもお笑いだとは思いますが、もう少し書けば、とくに「倦怠」をもてあそびたいような気持ちのとき(私はそれを健康な欲望だと思いますが)、マラルメの詩はボードレールよりぐっとくることがあります。そういう効果を与えてくれるのは、私にとって、なんといっても石川啄木の歌とマラルメの詩です。「マラルメを日本語で読んでも意味はないよ」と言った東大仏文科卒の某氏、どうぞ笑ってください。笑ってもらって結構ですが、私はそうは思いません。



「純粋理性批判」第二巻が出ました。
今は読む気がしないので買いませんでした。
でも、出たのをきっかけに、前に第一巻が出たとき書いたことの続きのようなものが頭に浮かびました。

――人間は、OSを介してしか世界に触れることはできない。だから、人間は、正確にいえば、「自分のOSを介して世界がどのような感じなのか感じている自分」のことしか知らない、ということになります。ハエのOSを介せば、世界が人間と違うように解釈されていることはあきらかです。

ということは、OSを介さない、いってみれば「生(なま)の世界」が人間の知る世界以外にはあるはずで、それがカントやショーペンハウアー、そしてニーチェにも継承される「物自体」という概念です。ショーペンハウアーはその正体を「意志」と呼びました。同じと言ってはいけないのでしょうが、「力への意志」も同じことだと思います。

「物自体」を考えるとき、まったく正確ではないのですが、私がよくイメージするのは、手塚治虫の「火の鳥」に出てくる、ムーピーという「無定形生物」です。ムーピーは生き物なのですが、形がなく、なろうとするとどんな生き物の形にもなれます。たとえば、世界が一匹の大きなムーピーで、その世界の中にあるものは全部、ムーピーが自分の体の一部を粘土みたいに使って、こねくりあげた存在であり、ムーピーはいわば、自分の体を使って「世界劇場」という人形劇をやって遊んでいる……。なにか、そういうイメージ(それを「神」と呼べば、おそらくスピノザになるわけですが)。

もちろん、これはただの導入的イメージでまったく正確ではありません。まあ、しかし、「意志と表象としての世界」は、そのようなイメージに近い世界観を説明したものだと言えます。この場合、もともと唯一の存在である「一匹のムーピー」には、時間も空間も無関係です(もちろん、私たちの言葉で言う「生きて」いるわけでもありません)。時間、空間、因果関係などは、すべて、人形劇の人形同士の間でだけ必要な約束事であって、「一匹のムーピー」には必要ないからです。ここで、「ムーピー」という不正確なイメージは捨てて、以後「意志」という言葉を使うことにします。

以下はおもに私の考えです。
時間、空間、因果関係、そういうブログラムが組み込まれたOSが必要なのは、ただ人間だけ。たとえば、なぜ「時間」が必要かというと、人間には寿命(形が崩れる期限)があって、その間に飲み食いつないで生殖をしなければならないというタイムリミットがあるからでしょう。そのためには「あと3時間たつと、これで2日まるまる食べてない」とか「私が妊娠できるのはあと何年だ」とか「5分以内にもっと腰をかくかくさせて射精しないと後ろから敵が来そうだ」とかそういう、世にも大事なことを把握する必要があるからでしょう。

私は、「時間」が生まれたのは、生き物が「根」を抜いて、個体で移動し始めたからだと思います。「水と栄養を補給しないと何時間後かには枯れて死ぬ」ということになって初めて、必要になったから「時間」が生まれたのでしょう。根を持つものに時間は存在しないと思います。

「時間」「空間」「因果関係」、そういうものを、人間という認識者が生まれる前からあった「客観的な事実」として見、「いったいそれはなぜ存在するのか」と問い続けてきたのが古代からの哲学で、「そうではなく、それらが存在するのは人間が自分のOSを通して世界をそんなふうに整理しているからだ」といったのが、「純粋理性批判」の「コペルニクス的転回」。そして「そういうOSを作りだしたのも、すべてはただ生き延びるための知恵だ」と言い切ったのがニーチェです。

カントとショーペンハウアーの考えは、まったく同じとは言えません。でも、ニーチェから見れば、同じようなものだったに違いありません。「人間が世界を解釈するOSを作りだしたのも、その中で『真理』『理性』『正義』などの概念を作りだしたのも、すべて生き延びるための知恵だ」。今では誰もが「そうだ」と感じるに違いないことを思いつくのに何万年もかかったわけですね。まあ、仕方がない。子供も、まず興味をひかれるのは目の前にあるものたちであり、それを見ている自分について考えるのはかなりあとになってからなのだから。

「力への意志」も「意志」も、その似姿は、今では「遺伝子」に端的に表現されていると言えます。そのことは、ニーチェの時代では、わからなかったこと。
遺伝子は、自分をコピーさせるためにはなんでもやる。個体が自分の存在に疑問を感じると、「大丈夫。私には生きる意味がある」とか「私の子供は他の子供たちとは明らかに違ってすぐれている。将来が楽しみだ」とか、生きていくために必要なうぬぼれのおとぎ話を聞かせ、なんとか個体に生き続けさせ、自分のコピーを残す機会を増やそうとする。まるで娼婦のように、生き続けるためにはなんでもする。

いったいなんのためにそんなことが必要なのか。
それは、はるか未来から見れば原始時代以前に生きている私には、まったくわからないことです。――それが「超人が生まれてくるため」なら、いいのでしょうが。



ああ、でも上の節を書き始めたときには、考えもしなかったけど、こんな気持ちになったとき読むのに、マラルメはとても適しています。とくに「青空」などが。そういうわけで、また読書に戻ります。



では、また来週。

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生活と意見 (第222回)

2010-05-09 12:46:59 | Weblog
5月9日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

すごい。
まだ風邪が治りません。本当に風邪なんでしょうか。
わかりませんが、めんどうなことです。



連休は正味3日間だったのですが、その間に「北回帰線」「南回帰線」を読みました。「北」は何回目かわからない読了です。でも、実は「南」を頭から最後まで通して読んだのは、初めてと言っていいくらいです。もちろん、どのページもばらばらに何十回となく読んでいますが。ばらばらに読んだ回数は「南」が一番多いはず。

「北」は、小説。「南」は歌。そういう感じです。今は「セクサス」「プレクサス」の記憶もなまなましいので、「南」の、モーナをテーマにした抽象的な歌もおもしろく感じられますが、いきなりそこだけ読むと、なんのことだかさっぱりわからないのも無理のないことで、後半にさしかかったところで読むのをやめたくなっても、それは読者の怠惰のせいとはいえないでしょう。ある意味、「南」は、ミラー全作品のダイジェストといってもよく、他の作品を読んだ後で読むのがいいと思います。

ミラーのリズムが染みついてしまい、とうとう、今は亡き福武文庫の「愛と笑いの夜」で、「頭蓋骨が洗濯板のアル中の退役軍人」と「ディエップ=ニューヘイブン経由」(吉行淳之介訳)をひさしぶりに読みました。もともとこの本は角川文庫から出ていて、初めて読んだのは学生のころだと思います。細部は大人になった今のほうがよく理解できたと思いますが、全体の印象はどちらも、当時とまったく同じです。どちらも傑作だと思います。

ひとつ謝罪を。以前、ここで、主人公が死にそうになる場面のことを書きました。私はそれが「プレクサス」の「南部行き」あたりのエピソードだと思っていたのですが、これは「北回帰線」の間違いでした。エピソードの位置としては「後半の真ん中くらい」という「感じ」だけは正しかったのですが……。すみません。



光文社新訳文庫から出たドストエフスキーの「貧しき人々」を買いました。失敗しました。ダメです。どうしてもこの方の訳文が好きになれません。「地下室の手記」でも十分後悔していたのに。往復書簡という形式が冗長なしまりのない訳文を選ばせるのかどうかわかりませんが、「貧しき人々」も文庫ではいい訳がないですね。私はやはり小沼文彦訳が一番いいと思います。

ちくま文庫に小沼訳ドストエフスキー全集が入ればいいのに! なぜ出ないのだろう? 私はそれを、訳者が決定訳を目指してゆっくり改訳をしているからではないか、と思っていたのですが、実はすでに12年前、訳者は亡くなっていたことを先日知りました。……だめだ。書くとむなしくなってくる。



では、また来週。
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生活と意見 (第221回)

2010-05-03 14:24:08 | Weblog
5月3日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

また風邪をひきました。ずっと寝ています。
最悪の時期は過ぎたようですが、今もまだ治りません。困ったものです。



前に書いた田川訳「新約聖書」の「マルコ」の本文訳を読みました。
訳注はまだ完読していませんが、予想通りすごくいい本です。

読みやすく、難しい漢字もない。今回の訳は、私にとって「決定訳」になると思います。

福音書は「マタイ」から始まることが多いですが、4つの福音書の成立順は、マルコ→マタイ→ルカ→ヨハネ。最も古い「マルコ」が最も素朴な福音書だといえます。今回訳注を読んでわかったのは、パウロが呼びかけている「イエス・キリスト」は、パウロの見た幻想の中にあらわれた男であり、マルコが「イエス・キリスト」というときには、これに対して「現実世界に生きていた生身のイエス・キリスト」を意味するということ。つまり、極端にいえば、前者では、イエスは、すでにキリスト教という宗教の広告塔のように祭り上げられた存在であり、後者は、生きていて、逮捕されて、磔になった「イエスという名の一人の大工」だということらしい。いつも一冊の中におさめられて、「これがキリスト教の聖典」といわれれば、福音書の中にそんな対立があることなんて、私のような無知な人間にわかるわけがない。でも、これまでも、「マルコ」は他の福音書とぜんぜん違うなあ、と感じていたことが、ちゃんと勉強している人に実証されたようで、うれしかったです。

興味のある方には、本当にすすめたい、いい本です。



それにしても、風邪。
イエスがいたら、服にでも触って治してもらいたい。
不信心な無宗教者ではムリか。

まったく中途半端で意味のない人生です。



では、また来週。
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