麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第229回)

2010-06-26 22:41:34 | Weblog
6月26日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

ヘンリー・ミラーコレクション最終巻「ネクサス」出ました。
読み始めましたが、「北」「南」「セクサス」「プレクサス」という長編では、ずっと「ぼく」だった一人称がなぜかこの巻だけ「私」に。しかもなんとなく訳文がかたい。ちょっとがっかりしています。読めるとは思うけど、これなら前に読んだ河野一郎訳のほうがいいかも。最後の最後に残念なことです。



以前売り払った教文館の「パスカル著作集(全7巻)」中の「プロヴァンシアル」がどうしても読みたくなってジュンク堂で該当する2冊を買ってきました。「1980年初版発行」のまま。まったく売れてない。すばらしい仕事なのに、まったく売れてない。まあいいさ。

戦後すぐのころ、「パンセ」がベストセラーになったこともあったらしい。昔話。ニーチェはいまちょっとしたブームになっているようですが、「墓の歌」を本当に必要とする人間がどれほどいるのか。でも、ニーチェは異国で本が売れて、たぶん満足でしょうね。生前ほとんど一冊も売れなかったのだから。まあいいさ。



では、また来週。
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生活と意見 (第228回)

2010-06-20 10:49:25 | Weblog
6月20日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

「ブリキの太鼓」、第3部に入ってから挫折しています。
読む時間がとれないというのも理由ですが、それだけではないですね。作者本人に会ったら、ものすごくおもしろい人だろうし、絶対尊敬を感じてしまうと思うのですが、作品自体は入りにくい。興味が持続しない。ひとつには、オスカルが何をやりたい人間なのかがわからない。人間のエゴの告発? キリストへの呼びかけ? わからないです。なんとか最後まで読みたいとは思うのですが。この書き方ならいくらでも書ける、というか、結末がないような予感がします。



フィッツジェラルドの「夜はやさし」を買った、隣の駅の書店がなくなりました。普通の新刊本屋だけど、マイナー出版社の文学書も扱っていていい本屋だったのに。3月ころ行ったのが最後になりました。なくなるのだと知っていたら、記念に1冊買っておきたかった。残念です。



先週の、阿呆の寝言のような考えは、一見楽観的に人間の未来を信じている人の発言のようですが、それを書いたときの気分はとてもひどいもので、どちらかというと人身事故になりに行きたいような気分でした。

楽観的なことを言おうとするときは人生にうんざりしているときで、人生にうんざりしていることを書きたいときは元気なとき。私の場合、ほぼ完全にそう言えます。コリン・ウィルソンはすぐに、「『嘔吐』は否定的で悲観的だ」というようなことを言いますが(ごく若いころは私もそれに共感しましたが)、それは皮相的すぎる。『嘔吐』に、否定的で悲観的な見方が書いてあり、「人間は無益な受難である」という暗い雰囲気しか感じ取れないとしても、それが作者の本当の主張かどうかはわからない。『嘔吐』の一節がうまく書けた翌日にサルトルの気分が爽快で食事がうまかったことは間違いないはず。それは、「自分の否定的な気分や見方を完全に描き出した」という満足からくるものだったことでしょう。一番まずいのは、自分の否定的な部分をつきつめて見ることもせず、かといって完全に楽観的にはなれず、むずがゆさをかかえたまま「世界に一つだけの花」だからとかなんとか借り物の人格に自分を託し、その実勝ち負けにこだわるので、それすら演じきることができずに、周囲にときどきは「ぴりっとした(と自分では思っている)」皮肉も浴びせ、そんな小さなことで自分を悪人だと感じ、ひそかに反省し、反省した自分を偉いとほめ、とても複雑な人格になったような気分で、その複雑さを「大人」だと若い女の子に感じさせて今度チャンスがあったら口説いてみようと考えているようなクズな態度です(私自身の中にもそんな「クズ」が、まだ生き残っているに違いありません)。

100パーセントの楽しみを得るには、完全な肯定の土台が必要で、その土台を作るには、どんな小さな穴でも無視せず、正視して、実はそれが穴ではないということを証明できるまで見つめ続けなくてはなりません。その作業に一生かかっても、それをなおざりにしていつも48パーセントの楽しみを感じながら生きるよりはずっとましだと思います。



では、また来週。
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生活と意見 (第227回)

2010-06-13 18:19:18 | Weblog
6月13日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

「ブリキの太鼓」、400ページを越えました。
むずかしい。作者の意図がはっきりとつかめない。「赤と黒」のように投げ出したいとは思わないけど、なんだかよくわからない。散文というより、長い詩のような感じがする。それと、やはり作者の若さを強く感じる。元気すぎて、ついていけないようなところも。まあ、最後までいちおう読もうと思います。



ときどき重力にうんざりしますよね。重ねた本が落ちてくるのも、ほこりが積もるのも、地震が怖いのも、腰が痛いのも重力のせい。「このくそ重力が」と、よく独り言を言います。

もし、宇宙で生まれて、重力があまりない環境で繁殖を続けていったら、いまメモリを食いすぎている重力への配慮が必要なくなって、OSの内容は少しずつ変わっていくでしょうね。

もともと、身の回りの何メートル、何十年かの世界を認識するためにできたOSを「宇宙」にあてはめて「理解しよう」としていること自体がおかしなことなのかもしれません。それで「理解できない」と言っているのは、現在のOSの「理解する」という概念自体が宇宙の在り方に合っていないからで(スケールが違うという意味ではなく)、宇宙からすれば、ある意味、いい迷惑なのかもしれません。物理や数学が苦手な私にとって意味不明な、理論物理の公式があんなに必要なのは、宇宙の在り方と、人間のOSの認識の仕方の根本的なずれ方を正すギアがそれほどたくさんいるという証拠です。そして、OSは変化しない、と決めてしまえば宇宙はいつまでも「理解できない」のでしょうが、OSが進化するとしたら、いずれは宇宙の在り方を理解できるようになるのではないでしょうか。それはしかし、私が今使っている「理解する」とはまったく違う概念なのでしょうが。

ボルヘスの短編に、もはや存在しない、まったく未知の国(もちろん架空の国)の言語の文法について書かれた部分があります(いま思い出せるのは「彼女は月的に笑う」という例文だけですが)、OSの進化につれて概念の表現もすべてが変わっていき、やがて誰もが口にする日常的な言葉で「宇宙は在る」ということを、宇宙の在り方と矛盾しない「雰囲気」で語れるようになる……。

昨日から、また、そんなことを考えていました。



「悪の華」に「万物照応」という作品があります。これは、嗅覚や視覚や味覚がまじりあう感覚を歌ったものですが、もともとOSができていく過程で器官に感覚が割り振られる前には「刺激」が混然一体となっていたという証拠だと思います。ランボーの、母音に色が見えるという表現も同じような感覚だと思います。と考えれば、詩人たちは進化しているというより、先祖がえりに近い原始的な感覚を持った人なのかもしれません。まあ、その感覚を、自分を実験台に人間というものを「よく見る」ことに利用した、ファーブルと同じ観察者ともいえます。ちなみに、ファーブルを「虫の詩人」なんてあえていう必要はない。もともと「観察する人」は詩人なのだから。



うまくは書けませんでしたが、今日書きたいと思ったことはだいたい書いたような気がします。

では、また来週。
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生活と意見 (第226回)

2010-06-06 15:48:33 | Weblog
6月6日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

あいかわらず、「ブリキの太鼓」にかかっています。
いま、半分を超えたところ。半年はかからないとしても、あとひと月くらいはかかりそうです。



今年は、季節がわかりにくいですね。
春があったのか、なかったのか。もう暑くなろうとしています。
不思議な年です。私が書くまでもなく、みなさんそう感じていらっしゃるでしょうが。



これまで、あまり材料にならないと考えていた87~88年くらいのことがなぜかいろいろ浮かんできて、メモをとりました。創作にできるまでには、それ以外なにもやらずにいて2年くらいかかるでしょう。つまり、できないということ。自分の頭の中でだけ、組み立てることになりそうです。



では、また来週。
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