麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第208回)

2010-01-31 12:23:31 | Weblog
1月31日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

あれから読めたのは、先週紹介した「能・狂言」の、別役実翻案による「能」だけ。
平家物語で有名な「俊寛」や、義経の関所越えのエピソード「安宅(あたか)」など、実話に基づく(らしい)ものもありますが、大半は「異界」との接触を描いた作品で、「なんだ、日本人はやっぱり昔から怪談とかSFとかが好きなんだなあ」と、あらためて思いました。というか、どこの国でもそうなのでしょう。やはり現実だけでは退屈なんですね。



どこを見ても、今「つながる」という言葉があふれていますね。「つながっていたい」とは、まあセックスのことでもあるのでしょうが、ベタベタして不快な言葉です。国中が新興宗教団体にでもなったような、この不愉快さはなんでしょうか。つながろうとしないやつは言葉や暴力で徹底的に村八分にする。子どものころ見た「あさま山荘」の人たちみたい。あるいは子どものころ見たドラマの「特高」の人たちみたい。カエルの卵みたいな気持ち悪い世界。魚介類を煮るときのにおい。窒息しそうなにおい。



岩波文庫で「スケッチ・ブック」が復刊になるようです。つまり新訳は出ないようで、残念。この本には「スリーピー・ホロウ」は入っていません。ただもうひとつの傑作「リップ・ヴァン・ウィンクル」は入っています。やかましやの女房と意図せず別れられた幸せな男リップ。そこに悲しみのかけらもないのがいい。作者はここでも人間の真実を完璧に照らし出しています。



サリンジャーが亡くなったようですね。91歳。
あとで思い出したいので書いておきます。



では、また来週。
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生活と意見 (第207回)

2010-01-24 00:51:21 | Weblog
1月24日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

ここで何回か触れたことのある、講談社少年少女古典文学館シリーズが、現在判型を小さいものに変えて新たに刊行されています。今日はその中の「能・狂言」の巻を買ってきて、谷川俊太郎訳の狂言10編を読みました。

まるで「がきデカ」を読んでいるような感じでとてもおもしろかったです。昔、中学の国語の教科書で習ったとき、「なかなか」(あまりに〇〇なのでかえって××だ(?))という言葉が気に入って、会話の中に無意味に「なかなか」をはさむのが一時的に仲間内で流行ったりしたことを思い出しました。



「二重人格」、読了しました。今度の読書で思ったのは、この作品が、「自分の分身」を悪魔(鬼神)に見立てた「ドン・キホーテ」として書かれているということです。ゴリャートキンのセリフに「騎士道」という言葉が出るのも当然のこと。以前書いたように、「罪と罰」もある意味「ドン・キホーテ」だし、「白痴」は誰にでもわかるように、ドン・キホーテとキリストの融合です。

ドストエフスキーの作品には大きく分けてふたつの流れがあると思います。ひとつは、「貧しい人々」の流れで、「おかみさん」「白夜」「虐げられた人々」「未成年」「永遠の夫」「賭博者」などがそれに続いている。
もうひとつは、「罪と罰」「白痴」「悪霊」「カラマーゾフ」などで、その流れの最初が「二重人格」だと思います。

前者は、人間ドラマというか、キリスト、ドン・キホーテ的な人物はもちろん出てくるのですが、前面には押し出されないで、それよりももっと地上的なものがテーマ。
後者は、ほとんど、キリストとドン・キホーテ、マグダラのマリアと聖母マリアの4人についての考察がテーマだと思います。

つまり、焦点距離の調節なのでしょう。前者は近視眼的、後者の視線は天上的です。天上的なものも圧倒的でいいですが、わざと近視眼的に書くときに、作者の心の余裕が生み出す世界には、とても甘い、若い、忘れることのできない、死ぬほど古臭いけど「永遠の青春の雰囲気」が閉じ込められています。

前者の中で、たった一編だけ、ただ「好き」を基準に選ぶなら、「虐げられた人々」が私のベストです。何度読んでもどきどきするし、読み始めて5分もすると、私は20歳ころのあの雰囲気の世界に包まれ、当時の悩みを抱えて呼吸している自分を感じます。あまりに好きなので、わざと、なるべく時間をおいてから読み返すようにしています。

いつも以上にだらだら書きました。



では、また来週。
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生活と意見 (第206回)

2010-01-16 22:37:31 | Weblog
1月16日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

光文社新訳文庫から、「純粋理性批判」の新訳が出始めました。
全7巻の予定。
少し読みましたが、わかりやすい訳だと思います。しかし、( )で訳者が言葉を補足している部分はどうでしょうか。逆にわずらわしいと感じる人もいるかも。

余計なことかもしれませんが、「純粋理性批判」のテーマについて書きます。
それには、このタイトルを言い直してみればいいのですが、まず「批判」は、カントが序文かなにかで述べているように、「まだ(自分が創始したばかりで)『学問』と、積極的に呼べるほど整ったものではない」という意味で使ってある、つまり「学と呼ぶにはまだ早い」ということですが、それは謙遜ととってもよく、であれば、まず「純粋理性批判」は「純粋理性学」といっていいことになると思います。つぎに「純粋理性」ですが、今はコンピュータがあるので説明が簡単です。「純粋理性」とは、「まだ一度も入力されていない人間の心というOS」という意味です。心なのか脳なのか、同じことかもしれませんが、「純粋」とは「未経験」の意味です。あわせると「まだ一度も入力されていない人間というOS学」ということになります。入力はされていなくても、当然OSには、データを処理するプログラムが用意されているわけで、それはどんなものなのか探ろうというのがテーマなわけです。

私は(同じような方がたくさんいらっしゃると思いますが)、子供のころから「わかる」とはどういうことだろう、と考えていました。結果としては「わかる」と、すっきりします。では、すっきりして心の緊張状態をとることが「わかる」ことの目的なのでしょうか。また、言葉で考えると人生はなんのためにあるのかまったくわからないのに、なんの不安もなく自分は生きているというのはとても不思議なことですよね。土台になっていることの意味がわからないのだから、その上に重ねたものはすべてよくわからないもののはず。でも、土台の意味はわかろうと努力もしないのに、どうでもいいようなことについては、わかりたいと強く思い、すっきりするまではなぜか努力をします。「わかる」とはどういう行為なのか。「純粋理性批判」のテーマを知ったとき、読んでみようかな、と思ったのは「わかる」という行為がなんなのかわかるのでは、と思ったからです。

今でも覚えていますが、大学時代1年生を3回やったあとに専門に進級し、科目登録のためにいろいろな授業を試しに受けていたとき、金曜1限に、川原栄峰先生の「純粋理性批判」の授業がありました。ドイツ語の原書でテキストを読んでいく哲学科の授業です。1限は8時20分開始で、でも多くの先生はだいたい20~30分くらい遅れて入るのでしたが、川原先生は時間ぴったりに授業を始められました(ひょっとしたら、先生はカントの規則正しい生活サイクルをご自分でも実行されていたのかもしれません)。そのころ、朝4時前に寝たことのなかった私は、たぶんその日は徹夜で出たのだと思います。当時、岩波文庫以外で唯一文庫になっていた天野貞祐訳「純粋理性批判」(講談社学術文庫)を読んで臨みました(読んでもさっぱりわかりませんでした)。授業中は、眠くて眠くて、ほとんどなにも聞いていませんでしたが、その日川原先生の言われた、「カントがこの研究にとりかかった目的」についてだけは今でも記憶に残っています。カントはこの研究を、「神の存在証明は無意味だということを証明するために行った」というのです。そのことが「なるほど」と思えたのは何年も後のことですが、とりあえず、1時間30分だけは、私はテキストとしてこの本を学んだのです(その1回だけで結局この授業はとらないことにしました)。

川原先生の仕事は、ちくま学芸文庫「ニーチェ全集」の「この人を見よ」(元講談社文庫)が私にとっては身近で、この本については今でも先生の訳が一番しっくりきます。というか他の訳は嫌いです。

「純粋理性批判」は、これで、岩波文庫、学術文庫、平凡社ライブラリー(元の理想社版カント全集)に続いて4番目の文庫となりました。これらの文庫に加え、岩波書店の新カント全集、河出の「世界の大思想」シリーズの高峯一愚訳(単行本化もされています)、また、以文社の単行本も、いちおう全部持っています。以前書きましたが、「超越論的論理学」の「概念の図式」の説明がこれまでよりわかりやすければいいなあ、と思っています(今のところ、いちばんいいと思う訳は岩波の新カント全集のものと、高峯訳です)。



「聊斎志異」6巻出て、完結しました。
しかし、「未成年」以来、またちょっとドストエフスキー流行りになっていて、「二重人格(分身)」を、三回目か四回目ですが、読んでいます。くどい文章だけど、クセになりますね。



では、また来週。
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生活と意見 (第205回)

2010-01-10 22:09:05 | Weblog
1月10日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

「未成年」、夕方5時半ころに読み終わりました。
今回の読書で、ほかの四つの長編と同じように、この作品も私の心に根をはりそうです。もっとも理解が難しかったところは、ヴェルシーロフの「ロシアとヨーロッパ」論の部分ですが、抽象的には、それでも理解できたつもりです。それ以外は、どの設定も、どの文も不明瞭なところはまったくありませんでした。とてもとてもおもしろかったです。読んでいていくつものメモを書きましたが、それはいつか創作のために使いたいと思います。

昼食を食べていつもの古本屋に寄ったとき、新潮社版のドストエフスキー全集の「未成年」の上巻だけが出ていて、今回読んだ文庫と内容はまったく同じなのに、なんとなく買ってしまいました。500円でした。



大塚ひかり訳「源氏物語」が完結しました。こちらは、かなり怠けていてまだまったく進んでいません。いつか集中して読みたいと思います。



「トム・ソーヤー」と「ハックルベリ・フィン」の2冊でずっと止まっていた角川文庫のマーク・トウェイン完訳コレクションにようやく第3弾が出ました。「アーサー王宮廷のヤンキー」です。有名だけどまだ読んだことがありません。いつ読めるかわかりませんが買ってきました。



カメラマン宮島径氏が、3回目の写真展実現に向けて動き始めました。これ以上、私をあせらせる知らせはありません。なんとか「友だち」だけでも今年は書きあげたいと思います。



では、また来週。
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生活と意見 (第204回)

2010-01-05 00:45:44 | Weblog
1月5日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

年末にドストエフスキーの「未成年」を読み始めて、現在下巻の頭です。
以前書きましたが、五大長編の中で「未成年」だけは今まで一度しか読んだことがありませんでした。

しみじみと、おもしろいですねえ。
登場人物の関係を把握するのにちょっと手間がかかりますが、ストーリーが流れ始めると、本当におもしろい。以前、この作品の印象を「ドストエフスキーの『ライ麦』」と書きましたが、やはりそれは正しかったと思います。ただ、これを書いたとき、作者はすでに60歳に近かったはず。なのに、20歳の自意識過剰な青年の独白をここまで再現できるなんて信じられない。つくづく不思議な人ですね。



では、また来週。
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