麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第134回)

2008-08-25 00:52:25 | Weblog
8月25日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

「タダでは涼しくなってやるもんか」といわんばかりに雨が降っていますね。
「気温を下げたんだから、湿気くらいがまんしろ」。そういうことでしょうか。



いままで一度も書いていませんが、私は、実は酒が一滴も飲めません。生まれてから、のどを通ったアルコール飲料は、500ミリリットルに達しないでしょう。また、食べ物でも、私は魚介類をいっさい食べません(どちらも油尾と同じです)。これは、明らかに、書き手としも人間としてもマイナス要素(とくに書き手としては)であり、自分でもいけないとは思うのですが、もはや50年もそれでやってきて、変えられない部分でもあります。ふだん、なるべくそのことを意識しないですむように、自分からそういう飲み食いの場所に行くことはしません。飲んでいる人を見るのがやはり愉快ではないところがあるし、魚介類のにおいが鼻につくのもいやなので。

まあ、それはそれでいいのですが、最近、年のせいで、若い人たちを見ていると、ただ若いというだけで、彼らに魚介類の生臭さのようなものを感じるようになりました。とくに恋愛関係のようなものが目に入ってくると、なにか魚介類を無理やり口に押し込まれているような、不愉快な感じがして、ちょっと吐き気がします。もちろん、いつも飲み屋やすし屋などを避けるのと同じで、自分から若い人が集まる場所に行ったりはしません。でも、電車や街なかや職場などでは、その場を避けて通れないので、あるときは、ほとんど暴力のように感じてしまうことすらあります。

若い人には、そんな偏食の年寄りの感じ方をどうやっても説明できません。言っても、「うらやましいだけだろ、ジジイ」としか思われないことはわかっています。なぜなら私が若いときにも、きっとそう思ったに違いないからです。

でも、本当にはもう、生臭いものは、鼻にも心にも近づけてもらいたくありません。大層なことはなにも望まないので、いやなことはなるべくなら避けたい、と願わずにいられません。



では、また来週。
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生活と意見 (第133回)

2008-08-17 23:14:34 | Weblog
8月17日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

今日は、ようやく、ちょっと、ほっとできる気温になりましたね。
いちおう、地球は太陽の周りを回っていたんですね。
止まっているのかと思いました。先週あたりは。



以前簡単な思い出は書いたかもしれませんが、また、なんとなく、思い出したので書きます。

「風景をまきとる人」に出てくる「絶対零度」というバンドは、実在したアマチュアバンドで、たしかメンバー全員が東京大学の学生だったと思います(ひょっとしたら、ベースの人だけそうだったのかもしれない、という気がいましてきましたが、どうでもいいことですね)。
79年か80年に、私は実際、吉祥寺のライブハウスで彼らの演奏を聴きました。メンバーの誰かが、私の知り合いの知り合いだったはずですが、それももうよく覚えていません。
「風景を~」にも書いたとおり、「なんにもなーい」と叫ぶボーカルが印象的で、またベースの人が、フェンダーのプレシジョンベース(もしくはジャズベース)で、コージー・パウエルを暗くしたような顔でうつむいたまま同じリフを苦行のように繰り返しまくっていたという姿が記憶に焼きついています。
私は聴きながら、「わかるよお、わかる。でも、そのまま言っちゃおしまいだろう」などと偉そうに考えていたのを覚えています。もちろん、それは、当時ちょっとノイローゼ気味で、いまで言えばひきこもって大学にも行っていなかった私が、同い年ですでに自分たちの表現を持っている彼らに強い嫉妬を感じ、心の中でこきおろそうとした、というところが真相に違いありません。いまも昔もおろかな自分。



では、また来週。
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生活と意見 (第132回)

2008-08-10 23:34:30 | Weblog
8月10日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

河出文庫から、古典の現代語訳シリーズで、「江戸怪異草子」が出ました。
江戸時代に、怪奇ブームを生み、やがて傑作「雨月物語」などが書かれる下地を作ったものだそうです。中国の怪異ものを、登場人物名や地名を日本に置き換えて書きなおした翻案ものだそうです。

 さすが元が中国ものらしく、まったく説教くさくないのがいいですね。本当におもしろいです。こんなおもしろいもの、いままで手近で読めるような形になっていなかったなんて、ひどいですね。もっともっとこういう本が出ればいいのに。内容は違うけど、大好きな「東海道中膝栗毛」も、いまは手軽に読める現代語訳が、世界文化社の安岡章太郎訳以外、ないですからね。もったいない。名前だけ知っている山東京伝なんかも、どんなことを書いていたのか、知りたいです。百が夢の中で弟子に入ったくらいだから、きっとおもしろい人に違いないと思うのですが。



 コンラッドの「闇の奥」の新訳が、出ません。それどころか、新刊の後ろに告知される、これから出る本のリストからも消えてしまいました。むずかしい仕事なのでしょうか。出ないとなるとなお読みたい。



 昨日はひさしぶりに「友だち」を少し書き進めました。400字で5枚くらい。必ず完成させてくたばりたいと思います。



 では、また来週。
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生活と意見 (第131回)

2008-08-03 23:06:19 | Weblog
8月3日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

凸レンズで集めた光で焼き殺される蟻みたいな気分ですね。

こういうときにも読める唯一の作品は、やっぱり「罪と罰」です。
Gmの4ビートで「始まったから続けるんだ」といわんばかりに流れるイントロ。以前書いたように、よく聞き分けると、ときにG7がまじったり、C7の8ビートがアクセントとして添えられたりと、ドン・キホーテ的な雰囲気も出しますが、基本はGm。ベースが「ソでいくぞ、この野郎」とリズムを刻んでいきます。金貸しの老婆の部屋までの730歩はまさにアレグロ。しかし、どんどん加速していき、やがてラスコーリニコフの心臓の鼓動につれて8ビートから16ビートへ。気がつくと老婆とその妹は死んでいます。

それにしても、この迫力は何?
これは、ドストエフスキーの作品でも、ほかでは感じられないものです。スピードの変化は、唯一その直前に書かれた「地下室の手記」に見られますが、迫力という点では、「罪と罰」以上のものはありません。もうひとつだけあるとすれば、これも以前書いた「カラマーゾフ」の、ミーチャがモークロエ村に馬車を飛ばし、逮捕されるまでのシーンでしょう。しかし、それにしても「罪と罰」とは音の厚みが違う。

で、少し考えていたら、「罪と罰」は、作者が、ほとんど最後に自分の手で書いた作品であるということを思い出しました。このあと、「賭博者」の執筆で口述筆記を始めてからは、すべて秘書としての奥さんに「語って書く」というスタイルになるからです。
いってみれば、「白痴」以降の長編は、「打ち込み」系なのに対し、「罪と罰」は、作者がアナログの楽器を演奏している、そのライブ的な緊迫感があるといってもいいのかもしれません。もちろん、作者は、低音楽器から高音楽器までをひとりでずーっと演奏しているわけです。「罪と罰」には、そういうペンを握る汗と筆圧、音で言えばミストーンや、ハウリング、フィードバック、弦が切れる音、などが、作品の中に保存されているような気がしてしかたありません。

それに続けて、「『罪と罰』はベートーヴェンの『運命』に似ている」、という考えが浮かびましたが、やはり違う、と思いました。「運命」は、そのキーどおりCmに違いありません。Cmは、絶望や苦悩を表現しても、どこか洗練されていて、骨太ではありません。「罪と罰」はGm以外考えられません。

でも、このまま最後まで「罪と罰」を読み返したりはしません。今日は、その最初の章を味わってみたかったのです。私はよく、レコードやCDを聴くように、そのときにあわせて、ある作品のある章だけを読んだりします。それが、本を手元に置いておかないといけない理由です。「読み終わったから捨てる」などという考えは、私にはなく、そもそも読み終わって捨てるような本は初めから買ったりしません。だからいつも置き場所に悩みます。

では、また来週。
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