4月28日
しばらく前から、プルーストを読み返しています。
新訳ふたつを主軸に、井上訳などと読み比べてものすごくゆっくり読んでいます。
もうすぐコンブレーを読み終わります。
やはり、最高ですね。それしか言えません。
翻訳については、今回わかったのは、新訳文庫は井上訳に近く、岩波文庫は鈴木訳に近いということ。私ごときが判定を下せるものではないですが、個人的には新訳文庫が好きです。というか、いいと思います。部分によっては岩波のほうがわかりやすいですが、なにか固い感じがする。読み進めたいという気分になるのは断然新訳文庫です。
思いつくままに書きます。
何回か前、芥川龍之介のことを書きました。修正の必要は感じませんが、もちろん、あれだけで作者も作品も語りつくせているとは思っていません。ひとつ書くと、いつも思うのは、芥川龍之介が、たとえば同級生たちに、どう見られたがっていたかというようなこと。その容姿は日本人ならほとんどの人が思い浮かべられるくらい広く知られていますが、「秀才とはこんな感じか」という典型的な顔ですよね。たしかに河童にも似ていますが、まあいかにも東大英文科という顔。ただ、それは、美しい顔ではありません。本人もそう感じていたでしょう。と思うたびに、いつも思い出すのは「地下室の手記」の一節です。「美しい顔じゃないのはしかたないから……とびきり理知的に見えなければならない」。たしかそういう記述があります。これは、若いころ芥川龍之介も自分に言い聞かせたに違いないせりふではないでしょうか。異性にも同性にも夢心地の気分を与えられる容姿(そういう同級生は芥川の時代にも当然いたでしょう)ではない。でも、べつの、それにまさるともおとらない効果を与えたい。それは、たぶん「芥川って、とても俗人とは思えないよな。学科も秀才だけど、古今東西の書物に通じていてほとんど仙人並の知識があるというぜ。俺たちのはるか先をいっていて近寄りがたい雰囲気だ」。なにか、そういうふうに言って欲しかった人なのではないでしょうか。そうして狙い通り、みんなそういう感じを、いやそれ以上の感じを彼に対して抱いたのではないでしょうか。すると、また、彼のような人は、ますますその仙人ぶりを見せたい……そういうことを感じる人だったのではないでしょうか。そんな気質が、ときには「まだ自分で克服できていない人間としての弱点をすでに克服したように演じてしまう(書いてしまう)」というような事態を招いた……。いまでも秀才たちにはきっとこういうことがあるのではないでしょうか。芥川が志賀直哉をすごいと思ったのは、言葉の平易さや正確さもありますが、なによりも、自分が克服できていないところは克服できていないと書く、その正直さにうたれたからではないでしょうか。芥川は、自分と同じような秀才ならだれも怖くなかったに違いありません。相手がどこで無理をしようとし、どこで勉強を放棄したか、どこで正確な表現を探す苦労をやめたかなども簡単にわかったはずです。なによりその方向なら、自分よりすごい人はいないということを、自分が途中で投げ出さず、最後までねばりぬくことを知っていた。でも、はじめからそういうところに力点を置いていない志賀直哉のような人にはどう立ち向かっていけばいいのかもわからなかったことでしょう。そうして、なによりも、正直に書くには、自分のことが完全にわかっていなければ正直にさえなれないわけで、長い間秀才として走ってきた人には、その、一見簡単に思えることがどうしてもできなかったのではないでしょうか(実際それは誰にとっても世界でいちばんむずかしいことかもしれません)。「歯車」などは(高校時代から大好きな作品ですが)それができていると思いますが、それは最後の最後のことでした。偉そうに(いつものように)書いていますが、もちろん、私はその作品にあこがれ続けています。死ぬまでには全編読んでみたいと思っています。
では、また来週。
しばらく前から、プルーストを読み返しています。
新訳ふたつを主軸に、井上訳などと読み比べてものすごくゆっくり読んでいます。
もうすぐコンブレーを読み終わります。
やはり、最高ですね。それしか言えません。
翻訳については、今回わかったのは、新訳文庫は井上訳に近く、岩波文庫は鈴木訳に近いということ。私ごときが判定を下せるものではないですが、個人的には新訳文庫が好きです。というか、いいと思います。部分によっては岩波のほうがわかりやすいですが、なにか固い感じがする。読み進めたいという気分になるのは断然新訳文庫です。
思いつくままに書きます。
何回か前、芥川龍之介のことを書きました。修正の必要は感じませんが、もちろん、あれだけで作者も作品も語りつくせているとは思っていません。ひとつ書くと、いつも思うのは、芥川龍之介が、たとえば同級生たちに、どう見られたがっていたかというようなこと。その容姿は日本人ならほとんどの人が思い浮かべられるくらい広く知られていますが、「秀才とはこんな感じか」という典型的な顔ですよね。たしかに河童にも似ていますが、まあいかにも東大英文科という顔。ただ、それは、美しい顔ではありません。本人もそう感じていたでしょう。と思うたびに、いつも思い出すのは「地下室の手記」の一節です。「美しい顔じゃないのはしかたないから……とびきり理知的に見えなければならない」。たしかそういう記述があります。これは、若いころ芥川龍之介も自分に言い聞かせたに違いないせりふではないでしょうか。異性にも同性にも夢心地の気分を与えられる容姿(そういう同級生は芥川の時代にも当然いたでしょう)ではない。でも、べつの、それにまさるともおとらない効果を与えたい。それは、たぶん「芥川って、とても俗人とは思えないよな。学科も秀才だけど、古今東西の書物に通じていてほとんど仙人並の知識があるというぜ。俺たちのはるか先をいっていて近寄りがたい雰囲気だ」。なにか、そういうふうに言って欲しかった人なのではないでしょうか。そうして狙い通り、みんなそういう感じを、いやそれ以上の感じを彼に対して抱いたのではないでしょうか。すると、また、彼のような人は、ますますその仙人ぶりを見せたい……そういうことを感じる人だったのではないでしょうか。そんな気質が、ときには「まだ自分で克服できていない人間としての弱点をすでに克服したように演じてしまう(書いてしまう)」というような事態を招いた……。いまでも秀才たちにはきっとこういうことがあるのではないでしょうか。芥川が志賀直哉をすごいと思ったのは、言葉の平易さや正確さもありますが、なによりも、自分が克服できていないところは克服できていないと書く、その正直さにうたれたからではないでしょうか。芥川は、自分と同じような秀才ならだれも怖くなかったに違いありません。相手がどこで無理をしようとし、どこで勉強を放棄したか、どこで正確な表現を探す苦労をやめたかなども簡単にわかったはずです。なによりその方向なら、自分よりすごい人はいないということを、自分が途中で投げ出さず、最後までねばりぬくことを知っていた。でも、はじめからそういうところに力点を置いていない志賀直哉のような人にはどう立ち向かっていけばいいのかもわからなかったことでしょう。そうして、なによりも、正直に書くには、自分のことが完全にわかっていなければ正直にさえなれないわけで、長い間秀才として走ってきた人には、その、一見簡単に思えることがどうしてもできなかったのではないでしょうか(実際それは誰にとっても世界でいちばんむずかしいことかもしれません)。「歯車」などは(高校時代から大好きな作品ですが)それができていると思いますが、それは最後の最後のことでした。偉そうに(いつものように)書いていますが、もちろん、私はその作品にあこがれ続けています。死ぬまでには全編読んでみたいと思っています。
では、また来週。