麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第325回)

2012-04-29 00:08:42 | Weblog
4月28日


しばらく前から、プルーストを読み返しています。
新訳ふたつを主軸に、井上訳などと読み比べてものすごくゆっくり読んでいます。
もうすぐコンブレーを読み終わります。
やはり、最高ですね。それしか言えません。

翻訳については、今回わかったのは、新訳文庫は井上訳に近く、岩波文庫は鈴木訳に近いということ。私ごときが判定を下せるものではないですが、個人的には新訳文庫が好きです。というか、いいと思います。部分によっては岩波のほうがわかりやすいですが、なにか固い感じがする。読み進めたいという気分になるのは断然新訳文庫です。

思いつくままに書きます。

何回か前、芥川龍之介のことを書きました。修正の必要は感じませんが、もちろん、あれだけで作者も作品も語りつくせているとは思っていません。ひとつ書くと、いつも思うのは、芥川龍之介が、たとえば同級生たちに、どう見られたがっていたかというようなこと。その容姿は日本人ならほとんどの人が思い浮かべられるくらい広く知られていますが、「秀才とはこんな感じか」という典型的な顔ですよね。たしかに河童にも似ていますが、まあいかにも東大英文科という顔。ただ、それは、美しい顔ではありません。本人もそう感じていたでしょう。と思うたびに、いつも思い出すのは「地下室の手記」の一節です。「美しい顔じゃないのはしかたないから……とびきり理知的に見えなければならない」。たしかそういう記述があります。これは、若いころ芥川龍之介も自分に言い聞かせたに違いないせりふではないでしょうか。異性にも同性にも夢心地の気分を与えられる容姿(そういう同級生は芥川の時代にも当然いたでしょう)ではない。でも、べつの、それにまさるともおとらない効果を与えたい。それは、たぶん「芥川って、とても俗人とは思えないよな。学科も秀才だけど、古今東西の書物に通じていてほとんど仙人並の知識があるというぜ。俺たちのはるか先をいっていて近寄りがたい雰囲気だ」。なにか、そういうふうに言って欲しかった人なのではないでしょうか。そうして狙い通り、みんなそういう感じを、いやそれ以上の感じを彼に対して抱いたのではないでしょうか。すると、また、彼のような人は、ますますその仙人ぶりを見せたい……そういうことを感じる人だったのではないでしょうか。そんな気質が、ときには「まだ自分で克服できていない人間としての弱点をすでに克服したように演じてしまう(書いてしまう)」というような事態を招いた……。いまでも秀才たちにはきっとこういうことがあるのではないでしょうか。芥川が志賀直哉をすごいと思ったのは、言葉の平易さや正確さもありますが、なによりも、自分が克服できていないところは克服できていないと書く、その正直さにうたれたからではないでしょうか。芥川は、自分と同じような秀才ならだれも怖くなかったに違いありません。相手がどこで無理をしようとし、どこで勉強を放棄したか、どこで正確な表現を探す苦労をやめたかなども簡単にわかったはずです。なによりその方向なら、自分よりすごい人はいないということを、自分が途中で投げ出さず、最後までねばりぬくことを知っていた。でも、はじめからそういうところに力点を置いていない志賀直哉のような人にはどう立ち向かっていけばいいのかもわからなかったことでしょう。そうして、なによりも、正直に書くには、自分のことが完全にわかっていなければ正直にさえなれないわけで、長い間秀才として走ってきた人には、その、一見簡単に思えることがどうしてもできなかったのではないでしょうか(実際それは誰にとっても世界でいちばんむずかしいことかもしれません)。「歯車」などは(高校時代から大好きな作品ですが)それができていると思いますが、それは最後の最後のことでした。偉そうに(いつものように)書いていますが、もちろん、私はその作品にあこがれ続けています。死ぬまでには全編読んでみたいと思っています。

では、また来週。

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生活と意見 (第324回)

2012-04-22 10:09:16 | Weblog
4月22日


岩波文庫から、ボルヘス「汚辱の世界史」が出ました。
晶文社の単行本を改訳したものです。

中公文庫「パリの異邦人」(鹿島茂)を読みました。
とてもおもしろかったです。

では、また来週。

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生活と意見 (第323回)

2012-04-14 18:55:43 | Weblog
4月14日


「下に掲げるのは、最近予が本多子爵(仮名)から借覧することを得た、故ドクトル北畠義一郎(仮名)の遺書である。」……。
いけね。むずかしそうだわ。

と、若いときから感じ、読めなかった「開化の殺人」を読みました。おもしろかったです。

すみません。調子が悪くて……。

また来週。

☆新刊情報を忘れていました。
なんとハヤカワ文庫で「日はまた昇る」の新訳が出ました。
買ってきましたが、とてもよさそうです。
私は、前回読んでからまだ時間がたっていないので
もうしばらくしてから読もうと思います。
ぜひ見てみてください。

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生活と意見 (第322回)

2012-04-07 10:50:21 | Weblog
4月7日


芥川龍之介の「偸盗」を初めて読みました。
若いころから、
「おばば、猪熊のおばば」……
いけね。入れないや。

という感じを何十回も繰り返してきましたが、
ようやくそれを乗り越えて読みました。
やっぱりすごいですね。
なにがすごいといって、若さがすごい。

ここには非情と虚無が完璧に描かれており、ドナルド・キーンはこれをやりすぎでダメな作品というのですが、まったくそんなことはありません。
なぜここまで非情と虚無を力強く書くかというと、それは作者が、人の善意と世界の美しさと童話のような世界観を心の底から信じているからです。若い作者は、自分のそんな甘さが歯がゆく、大人たちに「世界はそんな甘いもんじゃないよ」といわれるのがいやさに、「そんなこと、知ってらい」と、自分から先に完璧な非情さと虚無の作品を書いてみせた。しかし、登場人物の境遇を語るその言葉の端々から、隠したものたちの顔はのぞいており、作り物めいた乾いた世界が作者の「ツッパリ」であることを明かしています。

物語より、そのことが私にはとても感動的でした。

テーマとしては、これはボルヘスの「プロディーの報告書」の「じゃま者」と同じです。老練な作家が書くと、同じ女を愛した兄弟は「偸盗」の兄弟ほど悩むことはなく、「結局あの女がおれたち兄弟のじゃま者なんだな。じゃあ始末しよう」というそれだけの話になる。テーマとしては、その書き方で十分でしょう。というか、テーマとしてなら「じゃま者」のほうがはるかに無駄なく、しかもショックを与えます。

ですが、もちろん、創作はテーマのためだけにあるわけではない。
「偸盗」は永遠に読まれる作品だと思います。

では、また来週。

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生活と意見 (第321回)

2012-04-01 21:41:18 | Weblog
4月1日


更新、遅くなりました。

中央公論新社から「ランボーの言葉」(激訳)という本が出ました。見かけはイロモノっぽいですが、読んだら、とてもよかったです。訳者はちゃんと自分の解釈を書いていてその多くに共感しました。それで火がついて、3種類のランボー全詩集をいろいろ拾い読みしました。高橋彦明訳も。

と、ひさしぶりにヘンリー・ミラーを読みたくなり、中断していた新訳の「ネクサス」を三分の二まで読み進めました。若いころ、河野一郎訳で読んだときにはわからなかったミラーの「老い」も感じ取れる作品。もはやここには「性の作家」はいません。これが小説なのかどうかもよくわかりません。ただ、作中のミラーが、まだフランスに出発する前に、「薔薇色の十字架刑」のためのメモを書くシーンまできたところで、この物語はすでに終わりを迎えているといえるでしょう。ミラーがそのメモを書けたのは、自分で気づいたとおり、モーナとは終わってしまったから。そうでなければ記録なんてぜったいできないはずだから。あとの話はそれを信じたくない男のみじめな告白になることでしょう。

それでもヘンリー・ミラーは「北回帰線」を書いた。たぶん、一度死んだあとで。「北回帰線」は本当の傑作です。ミラーのその他の著書はすべて「北回帰線が生まれるまで」という注釈書、あるいは資料といえます。それは稲垣足穂が「自分の著作はすべて一千一秒物語の注釈」といったことと同じです。そういえば、2人は誕生日が同じです。若い頃は私も占星術を信じていたので、よく覚えています。「弥勒」はある意味「薔薇色の十字架刑」です。昔は、足穂のほうがミラーより純粋だと思いました。しかし、いまは、その評価は逆です。そうして、やはりミラーの純粋さは志賀直哉に似ていると思います。

暗夜行路はぜんぜん傑作ではありません。でも、とてもいい作品です。薔薇色の十字架刑と同じように。

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