4月29日
立ち寄ってくださって、ありがとうございます。
しばらく前から、マルセル・プルーストのことを書きたいと思いながら、いったいなにから書いていけばいいのかわからずに、のばしのばしにしてきました。
プルーストについて語る人は、たいがいこのあたりで(つまり4行目あたりで)、「彼のような偉大な作家が」とか「20世紀の最高傑作」とか、「これは、『時間』というものの実態を」とか、そういう重々しい言葉を並べて、読むほうをうんざりさせてしまうのが常です。
そういったことを言わずに、「失われた時を求めて」について語り、まだ読んだことのない人に読む気を起こさせるにはどうすればいいのか。
それには、「この本の趣旨を述べることは一言ではとてもできない」などと、賢そうな、あるいは自己弁護的なことを言わないで、一言で言い切ってみることでしょう。
「失われた時を求めて」は、千一夜物語、つまりアラビアンナイトです。
語り手の「私」は、シェヘラザードであり、語られるのは冒険です。ただし、それは、真の冒険、つまり心の中の冒険です。
千一夜物語は、シェヘラザードの語る話が全体の99パーセントを占めますが、また、それを聞いている王と彼女にも物語があり、その王と彼女の話は千一夜物語の全体の「額縁」になっており、そのため額縁小説と呼ばれたりもします。
「失われた時を求めて」では、「私」の成長が、この「額縁」の役目を果たします。一人の人間の人生。それは、誰もがすんなり入って行くことのできる額縁でしょう。
千一夜物語に千一夜ぶんの短編小説が含まれながらも、読者には、「シェヘラザードは最後には殺されてしまうのか?」といった興味が、ずっと続いていくのと同様、「失われた時」では、「私」が目にし、耳にしたさまざまなことが語られていく――登場人物の誰かをそのつど主人公としながら――のですが、「私」の運命はどうなるのか、といった興味が、読み手にはインプットされており、その興味が読書の推進力になるのです。
もう少し言えば、「私」は、どちらかというと、才能のなさそうな人物――それは、プルースト自身から傲慢な自信(もちろん、こんな天才が傲慢でなかったはずはないので)を取り去った(あるいは取り去ったように見せた)人物です――に設定してあり、読者であるわれわれはやはり、自分には少しは才能があると思っているが、それほど自信もない、という場合が大半ですから、より彼の運命が自分の運命のようで常に気にかかるように作ってあるのです(たとえばそれは、『バカの壁』で自分がバカの部類には入らないと確認したがったり、『人は見た目が九割』で、自分の容姿はなんとか見られるほうに入ると確認したがったりする、そういう興味と同じです)。
もちろん30歳をはさむ3年間でこの小説を読みきった私も、「プルーストって謙虚な人だな」と、最初は「私」と作者を混同していて、そうだったからこそ、読み終えることができたのです。
「失われた時を求めて」は、『「私」の人生』を額縁とする千一夜物語です。
これが、第一の、この小説の素顔だと、私は考えます。
それでは、また来週。
立ち寄ってくださって、ありがとうございます。
しばらく前から、マルセル・プルーストのことを書きたいと思いながら、いったいなにから書いていけばいいのかわからずに、のばしのばしにしてきました。
プルーストについて語る人は、たいがいこのあたりで(つまり4行目あたりで)、「彼のような偉大な作家が」とか「20世紀の最高傑作」とか、「これは、『時間』というものの実態を」とか、そういう重々しい言葉を並べて、読むほうをうんざりさせてしまうのが常です。
そういったことを言わずに、「失われた時を求めて」について語り、まだ読んだことのない人に読む気を起こさせるにはどうすればいいのか。
それには、「この本の趣旨を述べることは一言ではとてもできない」などと、賢そうな、あるいは自己弁護的なことを言わないで、一言で言い切ってみることでしょう。
「失われた時を求めて」は、千一夜物語、つまりアラビアンナイトです。
語り手の「私」は、シェヘラザードであり、語られるのは冒険です。ただし、それは、真の冒険、つまり心の中の冒険です。
千一夜物語は、シェヘラザードの語る話が全体の99パーセントを占めますが、また、それを聞いている王と彼女にも物語があり、その王と彼女の話は千一夜物語の全体の「額縁」になっており、そのため額縁小説と呼ばれたりもします。
「失われた時を求めて」では、「私」の成長が、この「額縁」の役目を果たします。一人の人間の人生。それは、誰もがすんなり入って行くことのできる額縁でしょう。
千一夜物語に千一夜ぶんの短編小説が含まれながらも、読者には、「シェヘラザードは最後には殺されてしまうのか?」といった興味が、ずっと続いていくのと同様、「失われた時」では、「私」が目にし、耳にしたさまざまなことが語られていく――登場人物の誰かをそのつど主人公としながら――のですが、「私」の運命はどうなるのか、といった興味が、読み手にはインプットされており、その興味が読書の推進力になるのです。
もう少し言えば、「私」は、どちらかというと、才能のなさそうな人物――それは、プルースト自身から傲慢な自信(もちろん、こんな天才が傲慢でなかったはずはないので)を取り去った(あるいは取り去ったように見せた)人物です――に設定してあり、読者であるわれわれはやはり、自分には少しは才能があると思っているが、それほど自信もない、という場合が大半ですから、より彼の運命が自分の運命のようで常に気にかかるように作ってあるのです(たとえばそれは、『バカの壁』で自分がバカの部類には入らないと確認したがったり、『人は見た目が九割』で、自分の容姿はなんとか見られるほうに入ると確認したがったりする、そういう興味と同じです)。
もちろん30歳をはさむ3年間でこの小説を読みきった私も、「プルーストって謙虚な人だな」と、最初は「私」と作者を混同していて、そうだったからこそ、読み終えることができたのです。
「失われた時を求めて」は、『「私」の人生』を額縁とする千一夜物語です。
これが、第一の、この小説の素顔だと、私は考えます。
それでは、また来週。