麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第148回)

2008-11-30 15:18:57 | Weblog
11月30日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

今週も、本の情報しか書く余裕がありません。



ポプラ社から、ポプラ文庫クラシックとして、江戸川乱歩の少年探偵シリーズが6冊出ました。うれしいことに、カバーは、あの昭和40年代にハードカバーで登場したときのままの絵です。思わず「少年探偵団」と「怪人二十面相」を買ってしまいました。

講談社の文庫全集のときも、光文社の文庫全集のときも、迷ったけど結局買いませんでした。やっぱり少年探偵シリーズは、このカバーと挿絵じゃないと、です。できれば全巻出してほしいものです。



新潮文庫で、もう「ティファニーで朝食を」の新訳が文庫化されました。単行本として発売されてからまだ1年経っていません。「なんでかな」と、思ったら、新潮文庫も古典新訳シリーズをはじめるようで、その第1弾ということで勢いづけのためのようです。村上春樹訳で、「ティファニー~」なら注目を浴びること間違いありませんからね。

そのシリーズの刊行ラインナップが帯にありました。
うれしいのは、ヘミングウェイの「移動祝祭日」が高見浩新訳で出ることと、ジョイス「ダブリン市民」が柳瀬尚紀訳で出ることです。
前者は、約20年前に岩波の同時代ライブラリーシリーズで出て以来の新訳。その本も絶版になって久しく、ずっと「買っとけばよかった」と思っていました。また、「ダブリン市民」は3種類ほどの訳で読んでいますが、フィネガン完訳者のものとなると別格。いまからわくわくします。



では、また来週。
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生活と意見 (第147回)

2008-11-24 12:52:14 | Weblog
11月24日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

土曜日は、3ヶ月に一度の通院日だったので、朝、新宿で病院に行ったあと、出かけついでに恵比寿まで散髪に行きました。行くたびに思いますが、今回も、昔なじみの場所にいろいろ新しいものができていて、自分の若さとともに、自分にとっての東京も終わりかけているような気がしました。まあ、これまでも、誰もがこうして自分の親しかった場所が見知らぬ場所になるのを見て、老いを知り、死んでいったのでしょうね。

帰りにはなんとなく代官山まで歩いて東横に乗りました。若いころ、一時的にとてもよく利用した東横線。山手線で近づくときとも、井の頭線で近づくときとも違う渋谷が感じられました。



しばらく前ですが、朝日文庫で、啄木の「一握の砂」が出ました。原書と同じように、1ページに2首だけの体裁のもので、ゆっくり読めます。いままた啄木の新刊が出るのはファンとしてはとてもうれしいです。



では、また来週。
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生活と意見 (第146回)

2008-11-16 20:51:51 | Weblog
11月16日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

創作のメモのようなものを少し、ノートに書いてみました。
なんだかまだ自分でもよくわかりませんが、できあがったらおもしろそう。
でも、たぶん、取りかかる余裕はないでしょう。



大塚ひかり新訳「源氏物語」。とうとう出ました。「夕顔」まで読みました。すごい。ものすごくいい。原作者のどこが天才かはっきりわかるように訳してあって、訳文だけでなく、「ナビ(注)」もすごい。体裁としては「桃尻語訳・枕草子」を思わせますが、過不足ない説明という点では、大塚源氏のほうがすぐれていると感じます(もちろん、物語とエッセイという別物の訳・注なので、本当には比べられないでしょうが)。44歳でようやく最初の自分の本の原稿に「(おしまい)」と書いて以降、正確に言うとなにひとつ生き延びていてよかったと思うことはありませんが、この訳を読めたのはすごくうれしい。生きててよかったという感じです。「本」という物そのものでいえば、30歳ころ、筑摩の世界文学大系で最後まで出ていなかった「失われた時を求めて Ⅲ-A 囚われの女・逃げ去る女」が出たとき以来ではないでしょうか。または、やはり同じころ、ショーの「メトセラへ帰れ」が約50年ぶりに岩波文庫で復刊になったときか。

訳者本人もいうまでもなく天才だと思います。ただひとつ注文をつけるなら、文庫が完結したら、もう少し大きな判型の本を出してもらえないものでしょうか。ルビが小さくて、目の悪いおっさんにはちょっとしんどい。そこが唯一心残りです。



フィッツジェラルドの「バビロンに帰る」も新書で出ました。これもまあ、本当に天才ですね。なんと上手い創作でしょう。ただ、フィッツジェラルドは、いい男だし、若いころモテたのだと思います。だから、若い主人公が、自分にとってもっとも大切なことが「愛する女を手に入れることだ」というとき、私には、正直言うとその感覚が完全にはわかりません。やっぱり若い私にとっては、世界の意味は何で、自分がなんのために生きるのかを知りたいということが最上位の課題でしたから。でも、そうなったのも、おおかた私がブサイクで、誰にも愛されなかったからに違いありません。手に入れようにも、誰も私を愛してくれる人はいなかったのです。

「ギャツビー」には、「話者」という狂言回しがいて、ギャツビー(やトムとデイジー)の世界と、普通の世界にいる読者との距離を縮める見物用の車のような役をしているので、それに乗っていると(車そのものは意外と身近な感じに作ってあるので)、アトラクションを見るように彼らの動きがわかり、自分も少しだけ、地味な役でそのアトラクションに参加しているような感覚も味わえます。この「語り手」の発見が、「ギャツビー」を古典にしていると思います。ところが、短編には、この車をもたないものが多く、いってみれば、ギャツビーがナマで現れて、そこに近づくてだてはないように感じてしまうのです。また、そんな作品に漂う、「本物はもうみんな終わってしまった」という排他的なふんいきが、私には、作者の傲慢さと感じられることすらあります。その「本物はみんな終わってしまった。俺たちは見たけどね」という感じは、訳者である村上春樹さんの創作にも漂っている気がして、たぶん村上作品を読破するじゃまをしていると思います(私にとっては)。

でも、「結婚パーティー」は、好きです。



では、また来週。
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生活と意見 (第145回)

2008-11-09 20:35:38 | Weblog
11月9日

立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

ここ半年くらい、あまりほしいもののなかった近所の古本屋に、‘90年代に発売された、集英社ギャラリー「世界の文学」シリーズが入りました。定価は1冊4300円と高いのですが(だからこれまで1冊しか買ったことはありません。その1冊も以前売りました)、それが新品の状態で1200円。なかなか魅力的です。

いまどき、新刊文庫さえ1000円近くするのに、この本は、2段組で1000ページを超えるボリュームです(たとえば、フランス編Ⅳは、「異邦人」と「水いらす」と「なしくずしの死」ほかが1冊になっているのです)。とりあえず、前からほしかった「イギリス編Ⅲ」を買ってきました。ここには、ここだけでしか読めない、ジョイスの「肖像」の翻訳が収録されています(文庫にもなっていないし、単行本にもなっていません)。今回は、5章だけ読みました。感想としては、すばらしい、のひと言。以前ここで岩波文庫の大澤訳を推薦しましたが、5章については、今回の訳が、丸谷訳も含めて、過去の「肖像」訳(ほとんどの訳を私は持っています)で、一番いいと思います。

集英社は、「ユリシーズ」の全訳も、「ダブリン市民」の全訳も、「フィネガンズウェイク」の抄訳も単行本として出しているのだから、「肖像」も、この翻訳で単行本を出すべきでしょう。そうすれば、「ジョイス選集」ができあがるのに。もったいない。なかなかそうならないから、あまりいい訳ではなかったのかな、と思っていたら、ぜんぜん違うのでびっくりです。

先週は、新刊文庫でもいいのが出ました。
河出文庫のダンテ「神曲」(第一部・地獄)の翻訳です。おそらく、一番わかりやすい平川訳です。これは、昭和40年代に、グリーン版世界文学全集のために訳されたもので(もちろんその版も持っています。というか、「神曲」はその版で読みました)、そのあと単行本にもなりました。完全な口語訳としては、同じく昭和40年代に、角川文庫で出た三浦訳以来のことだと思います。買ってきて、冒頭だけ読んでみましたが、若いころ読んだときの気分がさっとよみがえってきて、「いけない。これは、一晩で一気に読まなければ」と思ったので、今週はやめることにしました(「肖像」を読んでしまったので)。

何週間か前に、ここでちくま文庫の源氏物語の新刊のことを書きました。10月発売は間違いで、明日がその1巻目の発売日です。すみません。

では、また来週。
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生活と意見 (第144回)

2008-11-02 03:33:00 | Weblog
11月2日

立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

先週は、とてもマズい書き方になってしまい、バカ丸出しのような結果になりました。
言い訳をすれば、先週も、昼は生活のための仕事を家でしなければならなくて、頭が疲れてしまったのに、無理やりああいうテーマを扱うよう自分に強いたからです。

なぜ強いたかというと、先々週、じいさんの話を書いているうちに、なんとなく、こういう書き方で、創作の形にもっていく方法があるのでは、と感じて、それを試してみたくなったからです。でも、うまくいきませんでした。

ただ、先週書こうとしたことのひとつだけを取り上げて書き直してみると、以下のようなことになるでしょうか。

原因はさまざまだが、若いときにも、ふだん持っている世界観が揺らぎ、自分が生きていることに意味を見出せなくなることがある。そんなときには、まるでエネルギーを失った老人のように、これまで「道具」としてしか意識しなかったものたちが、別の顔、見知らぬ、不気味な、不敵な顔で目の前に「存在」するのを見る。

それを見たときに、「吐き気」を感じて、そこからなんとか日常の世界を取り戻したい、という主人公の心の動きを「嘔吐」は描いています。

また、それを見たときに、それら悪意ある「存在」たちとにらめっこをし、それらから目をそらさずにいつも見張っている気持ちでいること。そういう心の状態でいる決意をした主人公について書いたのが「死霊」です。

前者のロカンタンは、芸術作品を作ることで自分の中に秩序を取り戻し、それによって安定した世界観の中に帰れるはずだ、ということを発見します(まさに、マラルメ的、つまり芸術至上主義的解決です)。

後者の三輪与志は、暗闇の中に現れた異形のものたち、彼の異母兄弟に言わせると「のっぺらぼう」と正面から向き合い、その姿が見えにくくなる昼間でも、つねに彼らの「存在」に心を配り、「おまえたちがいるのはわかっているぞ」と虚空に向かってにらみをきかせるのです。

三輪与志のような態度は、一見哲学的で深遠なもののようにも見えますが、極端に言えば、それは、ホールデン・コールフィールドが「あらゆるインチキくさいもの」に対してとっている態度と大差はなく、青春時代にしかありえない、若々しい態度です(彼は、「のっぺらぼう」と向き合うことで「ところで、どうしてこうなんだ? え?」と神に疑問を突きつけているともいえます)。

普通、創作なら、そんな態度をとり続けようと思った主人公が、年とともになかなかそうはいかなくなり、誰にも見えないところで自分に挫折し(誰にも見えないので、黙って挫折して。自分でもやがて挫折なんてなかったような顔をして。挫折していない青年を嘲笑する側にまわって)、その弱気な心で惚れた女が妊娠して、それでも子どもが生まれてみたら、まあそれでもよかった。みたいな展開になるはずですが、「死霊」は違います。

三輪与志は、最後まで(といっても、物語はほんの数日間のことなのですが)変わりません。それは、おそらく作者その人が一生変わらずに自分の決意を生ききった人だからだと思います。私の知る限り、この作者ほど、青春の心のまま生きていけた人はいません(プルーストもそうですが、普通の意味で就職をしたことがないというのも一因でしょう)。暗い風景と暗い題材を扱いながら、なぜか常にさわやかな若々しい空気が流れているのは、この小説こそが本当の青春小説だからだと思います。ここまで深刻でなくてなにが若さなのか。笑ってしまうくらい深刻。これに比べれば「檸檬」なんて、大人すぎて不純です。

昼間友だちとさんざん騒いだ。一人惚れた女がいてうまく近づけないので帰ってきて横になると、そのことでしばらく悩んだ。だが、明日は予備校へ行こう。今日サボったから。電気を消してもしばらく眠れない。部屋の隅の何もないところを見るともなく見ている。すると、自分の属性がすべて抜け落ちていき、やがて19歳の動物のオスという属性さえもなくなり、自分がただの視座になったように感じる。自分は「無」で、しかし、自分が向き合っている世界も「無」だ。それは、しかし、大人の感じるかもしれない、むなしいという意味の無ではない。また、「君たちの将来は無限だ」とかおためごかしをいう教師のいうような将来の容器でもない。この「無」は、たぶん、闇の切り口のひとつ。世界を時間tで微分したときの接線の傾きなのだ。その傾きが今の自分には正確に感じ取れている。そういう実感そのものがこの「無」の正体なのだ。

そんな瞬間に自分の時間を止めてしまい、永遠にその闇の中にいることを選んだ。「死霊」はそういう永遠の若者のひとり言だと思います。



では、また来週。
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