麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第52回)

2007-01-28 16:23:14 | Weblog
1月28日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

ぼんやりですが、今年の目標を決めました。
小部数で本を作ってくれるところが見つかったので、短編集を、とりあえず作ってみようと思います。文庫サイズではなく、普通の単行本のサイズです。カバーは、今度こそ宮島氏の写真にしようと思っています。
出す時期が決まったら、またお知らせします。

 スーパーの、バレンタインデーのチョコについて書いたのが、まるで昨日のことのような気がしますが、もう1年経ったんですね。あのときと同じ光景が、店に戻ってきています。

 おととし入院していた病院に、いまは2カ月に一度薬をもらいに行くだけになっています。昨日が、今年初めての病院でした。去年の頭ころから、受付も診察室も、新しい建物にどんどん引っ越していて、とうとう売店もなくなりました。新しくできたコンビニには、若い男女の店員がいて、なつかしいおばさんたちの姿はありません。Kさんがなくなってからも一年半。私自身も、ただ幽霊のように、いるような感じで歩いてみているにすぎません。
「虚空」という埴谷雄高の本の解説に吉本隆明が次のようなことを書いていたと思います。
――埴谷雄高は、独房の中で、こう考えることにした。つまり「自分のような人間が生まれてきたはずはないのだ」と。そう想像することで自分を消すのだ、と。
 すばらしいと思いました。キチガイならここまでいかないといけない。
 中途半端な私は、そんな方法を思いつきませんでした。しかし、私は私で、ある日を境に(7歳ころ)、自分が眠っている間に世界はにせものになったまま、まだ一度も本物には戻っていない、と思いながら今日まで生きています。

 今週は、ノートから、カントとショーペンハウアーのことを書いた文章を写してみます。
興味のない方は、読み飛ばしてください。

 では、また来週。
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ノートから (カントとショーペンハウアー)

2007-01-28 16:21:16 | Weblog
 カントとショーペンハウアーの根本的な違いは、「何のために哲学を始めたか?」にあると思う。
 カントは、少年である。彼は、世間で行われる習慣、法律、信仰に論理的な矛盾があるのを感じつつ成長した。たしかに、多かれ少なかれ、誰でもそうだといえば言える。しかし、われわれの多くは、成長するにつれて、それらを「仕方のないこと」と認識するようになり、なにしろその観点を持っていてもなんの得にもならないことから、やがてそんな観点を捨て去り、「なるほど、世の中とはこういうものなのだ。こういうときには、こうすればいいのだ」と、処世術を築く材料にしてしまう。
 それが、「大人になる」ということだろう。
 カントは、こういう意味では、大人にならなかった。
 カントは、心の奥に「世界を統べる唯一の真理」が(つまり見せかけの論理的な矛盾が氷解する地点が)存在することを秀才の少年として確信しており、人間は(自分は)そのことを見極められるという自信を持っている。
「世界を統べる唯一の真理」は、コンパクトに持ち運べる万能法であり、それさえ持っていれば、どんな局面、どんな複雑な人間界の事件も、自然現象もその場で説明でき、解決できるという、ほほえましい秀才の信仰である。
「純粋理性」の批判にたどりついたのも、ただその万能法を求めた結果にすぎない。彼の関心は、初めから人間にあり、幸福な社会にあり、間違った判断さえしなければ、人間は誰でも自ずと「善」を知り、そこへ向かうはずだという明るい展望がある。
 数学の得意な人間は、結局、どんな文章題や証明問題も単純な定理と公式で解けるのを知っているから、勉強にそれほど時間を要しない。カントは、人生全ての諸問題に、そういう定理を見つけたかったのだ。
「純粋理性」の批判は、存在論的な場所――つまり宇宙空間のようなイメージへわれわれを誘うが、カント自身はリアリストであり、存在論がその探求の途上に姿を見せたのは、いわば「たまたま」なのだ。
 道の途中、「あ、こういうこともあるな」と、考えたにすぎない(三批判書の中で、「純粋理性批判」がもっともボリュームを持つのも「たまたま」であり、もっと簡単にやっつけられると思ったのに、意外とてこずった、という結果にすぎない。カントの目的は、実践にあり、道徳にある)。

 これに対し、ショーペンハウアーは、幼いころから、なによりも人生に「不条理」を感じて成長してきた人だろう。それは、自分の認識対象(目の前の世界)に矛盾を見た、というより、すでにそれを認識している自分自身も勘定に入れた感じ方である。
「世間で行われる習慣、法律、信仰に論理的な矛盾があるのを感じ、しかし、その背後には、その矛盾点が氷解する地点がある」とカントのように考えるのは、なにより、人間が真理を知りうる、そうしてその真理とは人間以外の自然にとっても有意義なものである、という信仰の土台の上に築かれるものだ。
これは、人間が「自分の存在は棚に上げて」いるからできる考えである(もちろん、そのほうが、歴史的には古く、まっとうな認識である。原始人は、「象とはなにか? どうやって殺して食うか」と考える前に、「自分とはなにか?」なんて考えたはずはないのだから)。
ショーペンハウアーは、起こることそのままを真理と感じた。だから、不条理を感じた。「不条理を感じる」のは、「矛盾を感じる」のと同じではない。「矛盾を感じる」人は、その矛盾を正すことができ、要するに世界を変えることが可能だと考えている。「不条理」とは、「世界に矛盾を感じる自分の主観はあるが、そう感じても、世界は変わらないし、それが真理だし、ただ自分はそう感じる自分を感じているだけだ」という感覚である。
このような感じ方をする子どもの少年時代とは、論理的ではなく、感情が先に立つ少年時代である。
世界の美しさ、はかなさ、ロマンチックな心の動き、大きすぎる期待、裏切られての失望、嘆き。このような経験が、彼に、個人的な質問としての「なぜ?」を生んだ。
世界は不可解である。しかし、彼は、あまりに自分の感情のリアリティが美しく深いために、自分より別の場所に「世界を統べる唯一の真理」があるとはとうてい考えられない。自分にとって、すべてはそのまま真理なのだ。この、世界への不可解さ、自分の感じ方への絶対の自信が、世界がただ自分ひとりのために「説明されること」を彼に望ましめた。「見えるとおりが真理なのはわかっている。ではなぜそうなるのか?」。これへの答が、彼の哲学である。
それは、当然、宇宙論になる。宇宙の地図の中に自分の居場所を書き込むことが彼の目的なのだから。

つまり、カントは学者で、ショーペンハウアーは芸術家であるということになるだろう。

ショーペンハウアーは、道徳については、単純な「同情」というようなところから、むりやりそれを引っぱってこようとするが、それは、サルトルが「人生には先験的に意味はない」と言いながら、なお、ヒューマニズムは可能だといったのと同様、無理がある。

なぜショーペンハウアーからは、「人間はどう生きるのが正しいのか」が出てこないかといえば、彼がそんなことをもともと求めていないからである。
彼には芸術がもたらす、宇宙の真の似姿に陶酔しつつ生きることが最もすばらしい生き方だと、初めから答が出ており、それを必要としない人たちは、「それでしょうがない」としか考えていないのだから。
ショーペンハウアーが、「教師」として見られることがあるのは、一部の人、つまり芸術家にとってだけであり、もともと生活人には無関係なのだ。

カントは「教師」たろうとしている。
生活の規則正しさや、ゆっくり正確に書こうとする身の律し方が、模範として自己を人々に示している。

さあ、「生の哲学者」はどちらだろうか?

カントは現世での、人間の「よい生」を信じ、ショーペンハウアーはそれを信じていない。

では、カントが「生の哲学者」だろうか?

しかし、カントが思い描いているのは、いわばユートピアであり、ドン・キホーテの思い込みのようなものかもしれない。
模範といっても、人間は神でも機械でもない以上、それだけ律儀な生活を送るのは、「非人間的」であり、ロボットめいているともいえる。
つまり、カントは、現実を見ているようで、実はまったく自分の夢の世界だけで生きている人なのかもしれない。

これに対し、ショーペンハウアーは、「人生は夢である」と言いながら、世界をちゃんと直視しているリアリストである。観念的でありながら、「両目はできるだけ水で洗うべし」とか「われわれの脳は30歳ころがピークで」といった唯物的な行動、言動をとる。
自分の「人生は夢である」という主張を現実に人々に認められたがり、疫病が流行ればすぐに避難する。
これは、夢の中で生きている人のやることではない。

では、カントが非人間的で、ショーペンハウアーのほうが「生の哲学者」だろうか?

しかし、カントは社交も好み、モテはしなかったろうが、大学教授として、人間らしい一生を送った。普通の職業人として、一定の時間を仕事に割いた――その仕事が、彼の場合、思惟と著述だったのだ。彼は、生き生きと、自然にその時代に生きた。
これに対しショーペンハウアーは、バランスを欠き、仕事はやめて、人を遠ざけた。
それは、非常に不自然な、隠者の生活である。普通の意味で、生き生きと人生を送ったとは言えないだろう。

では、カントが「生の哲学者」なのか?

しかし、カントの信じる「よい生」が、誰にも必要のないものだったら?
そのあとの時代に続々登場する、秀才の大学教授たちのように、「ああしろこうしろ」と人に価値観と、自分の頭のよさを認めることを押しつけはするが、その実、世界に必要のない人種を生み出す、その端緒になったのがカントだとしたら?
これに対し、人生に挫折し、苦悩し、秀才の職業大学教授たちに「宇宙のしくみはこれ。人間の発生した理由はこれ。ほら、もう悩まなくていいだろ?」と言われても、「それじゃ、『俺』の生きている理由はなんだ?」と、問い返すしかない人々にとって、ショーペンハウアーのほうが、どれだけ心に慰めを与えてくれることか……。

ここまでくれば、もう、結局は2種類の人間がいるとしかいえまい。
カントを必要とする人と、ショーペンハウアーを必要とする人。
挫折を知らず、実はまったくかっこ悪いのにそのことに気づかず、「頭さえよければいいのさ」というおとぎ話の中で生き生きと生きていける人。
自分をつねに外から見てしまうために短所ばかり目について、どうしても生き生きとは生きられないと考える人……。

このへんでやめてもいいだろう。
とりあえず。

ショーペンハウアーがカントを尊敬するのは、カントの中の「少年」を尊敬しているのだ。プラトンのような。
カントはショーペンハウアーに対し、「なぜそんなに悲しい結論を導く必要があるのか?」と、思ったことだろう。「それは哲学ではない」と。
そういう明朗単純なところも、古代ギリシャ的であり、それは、ショーペンハウアーがあこがれつつ手に入れることのできないものなのだ。

それこそカントが「生の哲学者」の証拠かも……。
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生活と意見 (第51回)

2007-01-21 19:46:52 | Weblog
1月21日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

瀬戸内寂聴訳の「源氏物語」が、文庫になりましたね。
書き込みを見ると、私が最後に源氏を読んだのは、94年の2~3月ころのようです。
当時改版になったばかりの、中公文庫の谷崎訳で、です。このときは、できるだけていねいに初めから読み進み(誰でもそうでしょうが、断片的には様々な章をときどき読んでいたのですが)、「雲隠」で光源氏が死んでからも、「紅梅」まで読み進んだようです。しかし、そのあとのいわゆる宇治十帖はいまだに完読していません(抄訳は読んでいますが)。
今度の訳は、たしかに読みやすく、谷崎源氏に比べれば艶がないという感じもしますが、言い方は悪いけど、われわれにはこれで十分なのではないかという気もします。今度こそ、最後まで読んでみようと思っています。

そういえば、少し前に、「口語訳・古事記」も文庫になりましたね。
こちらも、出てすぐに買って、下巻のヤマトタケルの話までは一気に読みました。これまで福永武彦訳が一番読みやすいと思っていましたが、この本は、その何倍も読みやすく、また、下ネタのような部分も隠さず訳してあるので、これまでよくわからなかったところもわかって、本当におもしろいと思いました。

外国語の翻訳もそうですが、古典の現代語訳も、私が若いころはまだ難しいものが多くて、なかなか作品そのものに近づくことができませんでしたから、いまのような状況はうらやましい限りです。
まあ、しかし、音楽にしても、「いつの時代のものでも、何でもすぐ気軽に聴ける」のがいいのか悪いのかはわからないですからね。1枚をすりきれるまで聴いてから次のレコードを買っていたわれわれのころのほうが、よかったところもあるんでしょうから、本も、なんでもそろうのがいいのかどうかはわからないですね。でも、とりあえず入門はしやすくなったわけで、それはやっぱりうらやましい。

個人的なことは、書けません。
むなしいので。

では、また来週。
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生活と意見 (第50回)

2007-01-14 03:39:40 | Weblog
1月14日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

今日は、「友だち」の続きを書こうと思ったのですが、なんだかものすごく眠くて、頭がまったく働きませんでした。
なにも提供できなくて、申し訳ありません。

 なんとなく「罪と罰」(江川卓訳・岩波文庫)を読んでいます。
 中村白葉訳、旧・江川卓訳、小沼文彦訳、池田健太郎訳と読んできて、今回が5回め。小沼訳、池田訳では、ラスコーリニコフよりスヴィドリガイロフの虚無感に共感する年齢になったな、と実感しましたが、今回はまたなぜか、ラスコーリニコフに感情移入できる感じになっています。若者めいたすさんだ感がどこかに戻ってきているのかもしれません。ひょっとすると、「友だち」を書こうとしているからかもしれません。自分では無意識のうちに、心を当時にチューニングしようとしていて、でもうまくいかないものだから、代償行為として、「罪と罰」を読んでいるのかも。たぶん、そうでしょう。

 新潮文庫では、工藤精一郎訳になっていますが、私はなぜか工藤訳が苦手で、「死の家の記録」も小沼訳で読みました。(「未成年」は読もうと思った時に工藤訳しかなかったので読みましたが。)

 ドストエフスキーの翻訳は、自分としては小沼訳がいちばんいいと感じます(私は、小沼氏個人全訳の筑摩版「ドストエフスキー小説全集」を持っています)。とくに「罪と罰」「悪霊」の翻訳は見事で、まるで日本の小説を読んでいるように、味読できます。ただ、本が大きいので、持ち運びできないのが欠点です。同訳者の「作家の日記」は文庫になったのに、なぜ小説は文庫にならないのか、筑摩書房に聞いてみたいと前から思っています。

 だらだらと思いついたことを書けば、私はドストエフスキーの最大傑作は「悪霊」だと考えます。扱ってある問題の深刻さと、構成の巧みさ、リアリティなどの点で、この作品こそが、作者の真骨頂であると思います。
 しかし、残念なことに、新潮版の江川訳では、それがわかりにくくなっています。チホンの僧庵でのスタヴローギンの告白の章があとまわし(付録)になっている、という構成上の問題もひとつですが、それだけではないように思うのです。「地下室の手記」をあれほどいきいきした日本語に置き換えることができた訳者が、なぜかこの小説では本領を発揮できていない。江川訳で時間をあけて2回読んだあと、(30歳ころ)小沼訳を読んで、あまりにわかりやすくおもしろいのでびっくりしました。
 ニコライ・スタヴローギンは、これほど憂鬱なヒーローは見たことがないという怪物です。しかし、いまは、ニコライのことについて書いていくだけの力が脳にありません。
 
「悪霊」のすばらしさは、ニコライという存在のヤバさはもちろんのことですが、これを取り巻く人々の造形にあります。ステパン・ヴェルホーベンスキー(子ども時代の家庭教師)、ワルワーラ・スタヴローギナ(母親)、ピョートル・ヴェルホーベンスキー(革命家、ステパンの息子で、ニコライの信奉者)、キリーロフ、名前は忘れましたが(レビャートキンかな)、退役軍人とその妹(実はニコライの妻)。
 これらの人々とニコライの関わりを、ひとつひとつクローズアップすると、小説全体がそれぞれ別のテーマの物語であるように見えてくる、というのがこの作品のおもしろさです。(もちろん、長編小説とはそういうものなのでしょうが)
 よく、この小説については、キリーロフの自殺問題などが取り上げられるのを見ますが、以前「大審問官」について述べたのと同様、私には、それがあまり大きなテーマとは思えません。たまたま、哲学的にわかりやすい発言がはさんであるので、それを神託(この場合、神はドストエフスキーなのでしょう)と受け取って議論するのはいいでしょうが、それだけを大問題のように言うのはどうでしょうか。もし、それが大問題なら、作者は論文を書けばよく、小説など執筆しなかったと思うのですが。

 ニコライと退役軍人の妹の関係を見れば、そこにはSM的テーマが。
 ニコライとピョートルの関係を見れば、そこには同性愛のテーマが。
 ニコライとニコライが犯してしまう少女の関係には当然ロリコンのテーマが。
 ニコライとステパンの関係には、父と息子、教育の影響というテーマが。
 ニコライとワルワーラ夫人の関係には遺伝というテーマが。
 それらすべてが、殺伐としたニコライという個人のニヒリズムの中に溶け込んでいき、まるでニコライの行き着く先(首吊り自殺)が、ロシアの、また人間世界の行き着く先であるかのような、暗い予感を響かせています。
 それは、おそらく人間が絶滅するまで、響き続けることでしょう。

 普通の大作家なら、ここで終わるのですが、そうではないところが、ドストエフスキーの別格的なところです。
 作者はこの陰惨な物語を包み込むように、ステパンとワルワーラの関係を、「額縁小説」のように使っています。男は、本質的に無意味でこっけいな生き物であり、その思想も発言も全て強がりに過ぎず、女はそれを知った上で、なお男を許し死を看取る(県知事レンプケと妻の関係も同様です)……ついに恋愛までいかない2人の関係と、ステパンの穏やかな臨終場面が、小説全体を優しく包み、幕を引きます。そこには、どんなに深刻なニヒリズムも、結局こっけいな「人間喜劇」の一部にすぎないという作者の認識があります。

 さらに、ここには、ドストエフスキーが繰り返し描くテーマ「雰囲気責め」が、もっとも顕著に描かれている、と思います。つまり、誰かがなにかをはっきりと命令したわけではないのに、それを実行しなければならないような「雰囲気」ができあがる、とか、まだ手の打ち方はいくらでもあるのに、もうだめだ、という気分に人を追い込む「雰囲気」とかについて、彼ほど意識的に描いた作家はいません。
 ニコライはピョートルに具体的な命令はなにもしないのに、実質革命組織のリーダーであり、結局その存在(だけ)が、組織内での暗殺行為にも間接的な指示を出すことになるのです。また、少女の死も、「雰囲気責め」によって、ニコライは手を下さずに実行されます。
 あとで理由をたどれば、「なぜそんなバカなことが?」と思えるようなことでも、人間はある「雰囲気」の中にいれば平気で実行してしまう……その怖さを執拗に書いたのは私の知る限り彼1人です。それをテーマだと考えれば、「悪霊」はまた、初期作品「ステパンチコヴォ村とその住人」の焼き直しであると見ることもできるのです。

長くなり、時間も遅くなりました。

今週はこのあたりで。

では、また来週。
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生活と意見 (第49回)

2007-01-06 19:55:49 | Weblog
1月6日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

ひさしぶりに、読書の話をさせてもらいます。

村上春樹訳の「グレート・ギャツビー」を読みました。
この作品を読むのは3回めで、7年ぶりのこと。
初めて読んだのは大学1年生のときで(新潮文庫・野崎孝訳)、そのときは、なぜデイジーが再会してすぐにギャツビーと一緒にならないのか、よくわかりませんでした。
これはいずれ、創作「友だち」の中にも出てくると思いますが、当時の私は、「運命の女」の存在を信じており、その女にとっては、自分もまた運命なのだと硬く信じて疑いませんでした(口ではもっと否定的なことをほざいていましたが)。
だから、読み始めてすぐに「これは、ギャツビーが、誤った運命の波にさらわれた自分の女を取り戻す話だな」と勝手に決めてしまい、最後に来るに違いないハッピーエンドに向かってわくわくしながら進んでいきました(どういった方法でかはわからないけど、俗物トムはひどい目にあって死んでしまうに違いない、と思いました)。
ところが……ご存知のように、この話はまったく逆の結末を迎えます。「おいおいひどいじゃないか」というのが正直な感想で、それ以降、フィッツジェラルドの作品は20年近く、まったく読もうと思いませんでした。
30代の終わりになって読み返そうと思ったのがなぜなのか、はっきりとはわかりません。でも、今度は、味読できました。デイジーがトムと同じ側の人間であること、そうなるのが当然なのだということ、「グレート」というタイトルには、ドン・キホーテの響きがあること、語り手は最初読んだときに感じたより、はるかにギャツビーに近い人間であること。それらさまざまなことがわかって、感動しました。もちろん、自分の貧しい恋愛体験も理解を助けてくれました(初めて読んだときは、童貞でしたから)。
今度の翻訳でも、受け取る作品のトーンや解釈にとくに変わりはありませんでした。
が、さすがに自身が実作者であり、この作品を至上の1冊だと言い切る訳者だけに、会話のリズムや言葉の選び方は、野崎訳よりやはり断然いいと感じます。
なかでも、つぎのシーン、語り手のニックが、生前のギャツビーに最後の言葉をかける部分です。

「あいつらはくだらんやつらですよ」芝生ごしにぼくは叫んだ「あんたには、あいつらをみんないっしょにしただけの値打ちがある」(野崎訳)

これが、今度の訳では、

「誰も彼も、かすみたいなやつらだ」と僕は芝生の庭越しに叫んだ。「みんな合わせても、君一人の値打ちもないね」

となっていて、より語り手の、ギャツビーへの親近感があらわになっています。私が考えるには、このシーンこそが、この作品のクライマックスであり、それには、今度のような強い言いかたがふさわしいと思います。
 ほかの場面でも、野崎訳では、ニックの沈着冷静さにブレが生じていること、ニックが、その語り口よりははるかに戸惑いやすい、ギャツビー的(つまりドン・キホーテ的)人間であることが、少しわかりにくいのです。

 おそらく、多くの方がすでに読まれたこととは思いますが(私の買った本は、発売2週間でもう再版になっています)、万が一まだの方がいらっしゃったら、読んでみてはいかがでしょうか。

 ちなみに、卑語の飛び交う拙作「風景をまきとる人」も、私にとってはある意味「グレート・ギャツビー」そのものなのです。

「どこが?」ですよね。ははは。

では、また、来週。
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