麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第546回)

2016-12-25 18:48:51 | Weblog
12月25日

創作 のようなもの の 続きを書くつもりでしたが、めしを食うことに関わる用事ができて、机に向かえません。待ってくれている方、すみません。たぶん、いないと思いますが。

9年前、短編集を50部だけそこで作った、岩波ブックセンターが倒産しました。突然、まったく知らない弁護士の方から宅配便がきて、かなりびっくりしましたが、中身は売れ残りの私の本と今回の倒産について書かれた手紙。その方の所属する事務所が今後債権者に対応するとのことです。もちろん、私には貸しているものなどないし、それどころかわりと安い料金で本を作っていただいて感謝しています。そんなことより、ただの客として、神保町に行くときは必ず立ち寄っていたあの角の店がもうやっていないと思うだけで、とてもさびしいです。またひとつ終わった、という感じです。

あと3日だけ働けば、とりあえず一週間ぐらいは仕事のことはなにも考えずにすむ。それだけ。それだけが救いです。
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生活と意見 (第545回)

2016-12-18 21:35:32 | Weblog
12月18日

ポケットマスターピース、「セルバンテス」出ました。新訳の、抄訳ドン・キホーテ、頭だけ読みましたが、いい感じです。すでにちょっと泣きそうです。あいかわらず気が狂っています。その本で、まずい情報を手に入れてしまいました。なんと来年、水声社からセルバンテス全集が出るとのこと。まずい。まずいですね。金もないのに。ものすごくまずい。

万葉集は八巻半ば。なんとなく古事記も読みたくなったので、いろいろ持っている中から、集英社文庫「わたしの古典」シリーズの田辺聖子訳を読みました。偉そうなところのまったくない、とてもわかりやすい名訳だと思います。とくに歌の部分はこれまで読んだ中で一番いい。また、ときどき訳者の学生時代(戦時中)に古事記がどう読まれていたかについて触れてあって、それも大変興味深かったです。



創作、のようなもの、来週続きを書きます。おそらく来年のいまごろまで、主人公はスマートボール場を出ない予定です。気長におつき合いください。

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生活と意見 (第544回)

2016-12-11 22:07:20 | Weblog
12月11日

スマートボールをやりながら彼は思い出す。――「お・か・ざ・き・さん」川島民江が二階のインターホンに思い切り口を近づけた結果のひび割れ声で彼を呼ぶ。そうだ。彼の名前は岡崎、岡崎公、いや、岡崎公次というのだ。いま、作者にもわかった。ようやく。「川島荘」の玄関はコの字の右下の角。下宿人の部屋に比べると、数段こぎれいな感じで、下駄箱の上には生け花と、大きな木の板が二枚立てかけてある。「なんとかかんとか茶道教授」「なんたらかたらいけばな教室」(両方とも達筆の筆書きなので彼には読めなかった)。そうだ。川島民江はお茶の先生であり、おはなの先生でもあり、先生というからには生徒もいて、その生徒たち(ほとんどが近所の主婦だろう)が毎日のように出入りしていた。彼女たちに、若いオスどもの生臭さを感じさせないよう、川島民江は玄関を聖域のように毎日掃き・磨き清めていたのだ。生徒たちは玄関をあがるとすぐ右にある階段で下宿とは別世界の上の部屋へ直行する。逃げるように。彼の部屋はその階段の真下にあった。正確には、階段の裏が彼の部屋の三角形の押し入れになっていた。もと入院患者の病室。つまり、ここで何人もが死んでいった細長い四畳床板張りの部屋(四畳半ではなく四畳)。そのほぼ同じつくりの部屋が、コの字の下の横棒を廊下とすると、両側に三部屋ずつあった。板張りの洋室なので彼の部屋以外に押し入れはない。みんなそなえつけのベッドで寝ていた。まるで独房だ。彼はベッドで寝たことがないので、はじめにそれをとっぱらってもらい、カーペットの上に布団を敷いて寝ていた。――冬はおそろしく寒かった。少なくともその季節には、彼が同級生の部屋を泊まり歩いたのも無理はない。家賃は二万円。それは当時でも最低の部屋代だった。同級生たちはおおかた三万円台のところにいて、少しは人間らしい生活を送っていたから。



突然、河出から柳瀬訳「ユリシーズ1-12」が出ました。高いし、現在は万葉集にかかりきりになっているので、いまの言葉でいえば一度はスルーしたのですが、やはり、ジョイスの新刊が出ているのに買わないなんておかしいと感じて今日買ってきました。そうして柳瀬さんが今年亡くなったことを知りました。自分の好きなことができて、フィネガンを完訳して、思い残すことはなかったでしょう。いまから25年前、フィネガンの最初の本が出たときは本当に興奮しました(柳瀬さんのインタビューが載っているアエラのページはいまもフィネガンにはさんでもっています)。そのことはここでも書きました。私は30歳を少し超えたところで、まだ燃える文学青年だったと、いまになれば思います。同じ年にプルーストがちくま文庫になり、すごい時代が始まったな、と感じていました。――結局満足できることはなにもできず、どうしようもない老人になり果てた今、つくづく才能のない人間の悲しみを感じます。――万葉集を読み終えたら、ユリシーズにかかり、若い自分の肖像のかけらでも思い出したいと思います。
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生活と意見 (第543回)

2016-12-04 00:56:50 | Weblog
村重久則の家の裏山


人間がすべて死滅したという報告を受けた朝、僕は立石町二丁目の自宅を出て、通学路を歩いた。両側に川が流れている。左の川の左に沿った国道には車は一台も通っていない。風景の全体が白っぽく、音は何も聞こえない。僕は砂山町の手前で右に曲がり、橋を渡ると細い道に入っていく。アスファルトが消えて砂利になり、むき出しの土になると上り坂だ。縁側の広い村重久則の家を途中右手に見ながら、僕は山へあがっていく。その周りでよくかくれんぼをした小さな祠を過ぎ、やがて頂上に着いた。見ると、こちらの頂上と向こうの山の頂上に真っ赤な橋がかけられている。僕は子どものころ、世界中の山と山の頂上に橋をかければいいのにと思っていた。「やっぱり一度下に下りてからまたのぼるよりはるかに便利だ」。そう思いながら僕は橋を渡り始めた。と、橋の真ん中あたりにきたところで疑念にとらわれた。「この橋は紙でできているのではないか」。とたんにぐにゃりと橋がよれて僕は空に放り出された。「もう死んだもう死んだもう死んだ」。早口言葉のように唱えながら僕は真っ逆さまに落ちていく。「もう死んだもう…」。そう言っていれば死んだ後で誰かに「ほらね。死んだろ」と自分の明察を自慢できるというように。……目を開いた。死んでない。僕は平らな地面の上に寝ころんでいた。体を起こしてみると、そこは地面ではなく、モノクロで印刷された地図の上だった。縮尺はわからないが、2キロは離れているはずの工場の記号が2~3メートル先に大きく見えた。地図だから山はただの等高線になり、おかげで僕は無事だったのだ。「死なないでよかった」。ほっとして立ち上がると、僕は工場の記号のほうへ歩き出した。
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