3月29日
立ち寄ってくださって、ありがとうございます。
きっと今日あたり、お花見に行かれた方も多いことでしょうね。
私は、近所に咲いている桜をちらと見ただけで、もう満腹です。
☆
「失われた時を求めて」第一篇「スワン家のほうへ」の第一部「コンブレー」に、週末だけこの田舎町に滞在する技師のルグランダン(例によって年齢は書かれていませんがかなりの年寄り)が、ある日の夕方、少年時代の話者と橋のたもとで出会い、話しかける場面があります。彼は、ある哲学者の言葉を引用して言います。
「森はすでに黒く、空はまだ青い。
どうです、いまのこの時刻のすぐれた要約ではないでしょうか?」
と。続けてもう一度、
「森はすでに黒く、空はまだ青い…」
と、繰り返して、次のように続けます。
「空がいつまでもあなたにとって青くあってほしいですね、坊ちゃん、そうすれば、いま私にせまっているこの時間、森はすでに黒く、夜がすみやかに落ちてこようとするこの時間になっても、私がやっているように、あなたは空のほうをながめながら、心をなぐさめることでしょう。」(井上究一郎訳)
改行して詩句を引用する箇所で、二度も同じ言葉を取り上げているのは、全七編を通して、ここしかありません。それだけこの言葉は、プルーストにとって、大事な、どうしても第一篇第一部の中に書いておきたかったものだったといえます。その、絵画的イメージは、いつまでも心に残り、全編の基調音のように静かに響き続ける。そうして、やがて、「見出された時」にたどりつき、話者に老いと死の影が近づいてきたときに、この言葉は、もう一度意味を深めて、つまり、同じメロディなのにコードを変えて屹立して聞こえてくるのです。
「森はすでに黒く、空はまだ青い」
体はすでに黒く死につつあり、また、これまで人生で犯した悪事や、とらわれた下劣な欲望、それをとりつくろうために塗り重ねた嘘、下劣な虚栄心、無意味なしっとや怒り、そうして、なによりも世界に対する深い幻滅。そんなものたちに犯された自分にも、一片の青空――少年時代の理想、想像力が作り上げた美しい世界の姿、神の存在を垣間見た不思議な景色の数々――は、まだ頭の中に残っている。それをつねに携えて眺めやることで、人間は自分をなぐさめることができる……。
もし、この青空を失ってしまったら、人は電車の前に身を投げるしかありません。「空がいつまでもあなたにとって青くあってほしいですね」。それは、作中人物の言葉であると同時に、プルーストの、読者へのストレートなメッセージでもあるのです。
今週は、ずっと、その言葉が心から離れませんでした。
では、また来週。
立ち寄ってくださって、ありがとうございます。
きっと今日あたり、お花見に行かれた方も多いことでしょうね。
私は、近所に咲いている桜をちらと見ただけで、もう満腹です。
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「失われた時を求めて」第一篇「スワン家のほうへ」の第一部「コンブレー」に、週末だけこの田舎町に滞在する技師のルグランダン(例によって年齢は書かれていませんがかなりの年寄り)が、ある日の夕方、少年時代の話者と橋のたもとで出会い、話しかける場面があります。彼は、ある哲学者の言葉を引用して言います。
「森はすでに黒く、空はまだ青い。
どうです、いまのこの時刻のすぐれた要約ではないでしょうか?」
と。続けてもう一度、
「森はすでに黒く、空はまだ青い…」
と、繰り返して、次のように続けます。
「空がいつまでもあなたにとって青くあってほしいですね、坊ちゃん、そうすれば、いま私にせまっているこの時間、森はすでに黒く、夜がすみやかに落ちてこようとするこの時間になっても、私がやっているように、あなたは空のほうをながめながら、心をなぐさめることでしょう。」(井上究一郎訳)
改行して詩句を引用する箇所で、二度も同じ言葉を取り上げているのは、全七編を通して、ここしかありません。それだけこの言葉は、プルーストにとって、大事な、どうしても第一篇第一部の中に書いておきたかったものだったといえます。その、絵画的イメージは、いつまでも心に残り、全編の基調音のように静かに響き続ける。そうして、やがて、「見出された時」にたどりつき、話者に老いと死の影が近づいてきたときに、この言葉は、もう一度意味を深めて、つまり、同じメロディなのにコードを変えて屹立して聞こえてくるのです。
「森はすでに黒く、空はまだ青い」
体はすでに黒く死につつあり、また、これまで人生で犯した悪事や、とらわれた下劣な欲望、それをとりつくろうために塗り重ねた嘘、下劣な虚栄心、無意味なしっとや怒り、そうして、なによりも世界に対する深い幻滅。そんなものたちに犯された自分にも、一片の青空――少年時代の理想、想像力が作り上げた美しい世界の姿、神の存在を垣間見た不思議な景色の数々――は、まだ頭の中に残っている。それをつねに携えて眺めやることで、人間は自分をなぐさめることができる……。
もし、この青空を失ってしまったら、人は電車の前に身を投げるしかありません。「空がいつまでもあなたにとって青くあってほしいですね」。それは、作中人物の言葉であると同時に、プルーストの、読者へのストレートなメッセージでもあるのです。
今週は、ずっと、その言葉が心から離れませんでした。
では、また来週。