麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第113回}

2008-03-29 13:55:28 | Weblog
3月29日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

きっと今日あたり、お花見に行かれた方も多いことでしょうね。
私は、近所に咲いている桜をちらと見ただけで、もう満腹です。



「失われた時を求めて」第一篇「スワン家のほうへ」の第一部「コンブレー」に、週末だけこの田舎町に滞在する技師のルグランダン(例によって年齢は書かれていませんがかなりの年寄り)が、ある日の夕方、少年時代の話者と橋のたもとで出会い、話しかける場面があります。彼は、ある哲学者の言葉を引用して言います。

「森はすでに黒く、空はまだ青い。

どうです、いまのこの時刻のすぐれた要約ではないでしょうか?」

と。続けてもう一度、

「森はすでに黒く、空はまだ青い…」

と、繰り返して、次のように続けます。

「空がいつまでもあなたにとって青くあってほしいですね、坊ちゃん、そうすれば、いま私にせまっているこの時間、森はすでに黒く、夜がすみやかに落ちてこようとするこの時間になっても、私がやっているように、あなたは空のほうをながめながら、心をなぐさめることでしょう。」(井上究一郎訳)

 改行して詩句を引用する箇所で、二度も同じ言葉を取り上げているのは、全七編を通して、ここしかありません。それだけこの言葉は、プルーストにとって、大事な、どうしても第一篇第一部の中に書いておきたかったものだったといえます。その、絵画的イメージは、いつまでも心に残り、全編の基調音のように静かに響き続ける。そうして、やがて、「見出された時」にたどりつき、話者に老いと死の影が近づいてきたときに、この言葉は、もう一度意味を深めて、つまり、同じメロディなのにコードを変えて屹立して聞こえてくるのです。

「森はすでに黒く、空はまだ青い」

体はすでに黒く死につつあり、また、これまで人生で犯した悪事や、とらわれた下劣な欲望、それをとりつくろうために塗り重ねた嘘、下劣な虚栄心、無意味なしっとや怒り、そうして、なによりも世界に対する深い幻滅。そんなものたちに犯された自分にも、一片の青空――少年時代の理想、想像力が作り上げた美しい世界の姿、神の存在を垣間見た不思議な景色の数々――は、まだ頭の中に残っている。それをつねに携えて眺めやることで、人間は自分をなぐさめることができる……。

もし、この青空を失ってしまったら、人は電車の前に身を投げるしかありません。「空がいつまでもあなたにとって青くあってほしいですね」。それは、作中人物の言葉であると同時に、プルーストの、読者へのストレートなメッセージでもあるのです。

今週は、ずっと、その言葉が心から離れませんでした。

では、また来週。
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生活と意見 (第112回)

2008-03-23 23:54:34 | Weblog
3月23日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

どうやら、光文社文庫から、「失われた時を求めて」の第六編「消え去ったアルベルチーヌ」(「逃げ去る女」)が新訳で出るようです。ブルトンの本の最後に告知がありました。その本を買わなかったので(なんだかむずかしい本だったから)、ざっと読んだだけなのですが、プルーストがかなり手を入れた原稿で(ちなみに、プルーストが生前校正を終えていたのは、第四篇「ソドムとゴモラ」までで、あとはすべて遺稿、つまり決定稿はありません)、全七篇の小説全体の構成が変わるかもしれないほどの異稿(つまり、現在の井上究一郎訳、鈴木道彦訳とは違うテキスト?)を訳したということのようです。

第六編は、そのタイトルどおり、第二編「花咲く乙女たちの陰に」の舞台・バルベック(カブールがモデルの海辺の町)で、話者が出合ったアルベルチーヌという女性との恋愛が、アルベルチーヌが話者の元から逃げ出して(彼女はゴモラの女、つまりレスビアンでもあるので)破局を迎えるというストーリーです。第五篇の「囚われの女」で、話者はしっと心と猜疑心の塊のような性格のために、アルベルチーヌを自分の手元にほとんど「軟禁」しているのですが、その手をすり抜けて彼女は逃げていってしまうわけです。

アルベルチーヌのモデルのひとりは、アゴスチネリ(男性)というプルーストの運転手だったといわれています。たしか、アゴスチネリは、プルーストの元をはなれて、飛行機事故か何かで死に、プルーストは母親の死以来の大きな精神的危機にみまわれたようです。母親の死については、小説の中では、話者の祖母の死の場面に状況が投影されているといわれています。それと同様に、アゴスチネリの死は、アルベルチーヌの死(たしか落馬による死だったと思います)にその影を残しています。まるで、深い悲しみから逃れるには、その悲しみを作品の中に閉じ込めて、風化しないよう処理するしかないと作者は考えているかのようです。

なにが言いたいのか……。

つまり、第六編は、シンプルな(しかし濃厚な)恋愛心理小説であり、そこだけ読んでもおもしろいので、出たら読んでみてはいかがでしょうか、ということを言いたいのです。



更新が遅くなって申し訳ありません。

あまり心の具合がよくないようで、つらい感じです。



ブックマークにある「The New World」に行ってみてください。「Great Escape」が生まれ変わりました。

では、また、来週。
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生活と意見 (第111回)

2008-03-17 00:24:04 | Weblog
3月17日

立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

まだ、風邪が抜けません。
年寄りはいやですね。

昨夜、10時過ぎに、遅い晩飯を食べるために近所の喫茶店に行きました。
トマト抜きのピザトーストをかじっていると、閉店時間が近づいたらしく、店内には「蛍の光」が。それも、パチンコ店に流れる、ブラスバンド部ふうのシンプルなアレンジのものではなく、なぜかフルオーケストラの重厚な演奏。顔を上げると、照明が少し暗くなっていて、客は私ひとり。奥まった席からは、店員さんの姿も見えません。
「これで、世界は終了とさせていただきます」
瞬間、そういうアナウンスが流れてもなんの不思議もないような雰囲気に包まれました。

もちろん、そうならそれで私にも異存はありません。
ドアを開けて「外」へ出るだけのこと。

そこは、おそらく子どものころ通学路の途中にあった、いつもそこに立つと自分が誰なのか忘れてしまいそうになる三つ角で、私は小学1年生の姿のままそこに立ち、国道二号線を走るトラックをながめているに違いありません。そうして、「変だな。いままで大人の人だったような気がするけど」と、ちょっと迷ったあと、回れ右をして家へ向かって歩き始めることでしょう。川の土手を。前にもこんな気持ちになったことがある、と思いながら。



更新が遅くなって、すみません。

また、来週。
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生活と意見 (第110回)

2008-03-09 22:33:12 | Weblog
3月9日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

ひさしぶりに風邪をひいて、今日は一日中横になっていました。
咳が止まりません。

いまも、薬のせいでぼんやりしています。

今日は、申し訳ありませんが、万葉集からひとつ、歌を抜書きさせてもらってまた横になろうと思います。「萬葉集 釈注 巻三」より。

我が園に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の流れ来るかも (大伴旅人)

この我らの園に梅の花がしきりに散る。遥かな天空から雪が流れてくるのであろうか、これは。


ふらふらした頭には、ちょうどいいような幻想的な歌です。


では、また来週。
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生活と意見 (第109回)

2008-03-02 19:26:11 | Weblog
3月2日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

カポーティの「ティファニーで朝食を」の、村上春樹訳が出ましたね。

私も、すでに読みました。
とても読みやすかった。
「ティファニー~」自体、読み返したのが、たぶん15年ぶりくらいのはず(もちろん15年前に読んだのは新潮文庫です)。1年ちょっと前の「ギャッツビー」の新訳に比べれば、全体の印象が先行訳とそれほど変わっているとも感じませんでしたが、会話が多いので、そこはやはり実作者であり、現在のところ現役最大の作家(ですよね、やはり)の訳だけに、こなれているし、わかりやすいし、とくにホリーのしゃべりの部分はいまの女性の言葉になっていて、とてもよかったです(昔の日本語訳に見られる、どんな男に対しても敬語を使ったり、やたらと「だわ」を使ったりの気持ちの悪い話し言葉では読む気がうせますよね)。おそらく、新潮文庫と比較しながら読めば、もっともっとよい点がたくさん出てくるにちがいありません。

カポーティについては、著作の一部と、いくつかの伝記的エピソード以外、ほとんど知りません。が、ちょっと「ビョーキ」(80年代のニュアンスで)な作家である、とイメージしています。今回、「ティファニー~」を再読して感じたのは、ホリーは、そのまま「ビョーキ」のカポーティ自身にちがいない、ということです。また、これは、現代(といっても半世紀前ですが)版「ボヴァリー夫人」だということもわかりました。会話の中にすべての筋を盛り込んでいるので中編小説になっていますが、三人称で、ホリーについて時系列に沿って描けば、長編小説「ボヴァリー~」に、より似てきたことでしょう。と、気づいてみると、「ボヴァリー~」が、風俗壊乱の容疑で裁判沙汰になったとき、作者フローベールが、「ボヴァリー夫人は私だ」といったことを思い出さずにいられません。もし「ティファニー~」が、同じように訴えられていたら、カポーティは法廷でいったにちがいありません、「ホリー・ゴライトリーは私だ」と。



ところで、私は、村上春樹作のオリジナル作品のうち、最後まで読んだのは「風の歌を聴け」だけです。ちょうどはたちのときです。その作品もよくわからなかったし、以後の作品も、どうしても最後まで読めません。といって、圧倒的多数の村上春樹ファンを敵に回す気はさらさらなく、ただ、私としては、この作者が描こうとするテーマが、自分にとってはぜんぜん切実ではないし、わからない、という感じがする、としかいえません。「いや、そんなことについて、俺はとくに知りたくない」と、読み進もうとする動機がすぐに消えてしまうのです。

「文章」についての記述もよくわかりません。「完璧な文章」という言葉が、「風の歌~」にも出てきたと思いますが(「ティファニー~」のあとがきにも、高校時代、カポーティのすごい文章に触れて衝撃を受けた、と書いてあります)、私はそんなこと、考えたこともないので。以前もここで書きましたが、あえてあげれば、私が衝撃を受けた文章は、パスカルの「パンセ」と、ファーブルの「昆虫記」だけです。それも、「完璧な文章」だと思ったからではなく(その概念すら私には理解できないので)、そこに真理が――誰もがいつも目の前にしながら、いままで誰もそれをはっきりと見て、取り出し表現したことのない真理が――そこに正確に書きとめられていたからです。

先日いったことからすれば、「完璧な文章」というようなものは、「文芸家」には意味のある概念なのかもしれませんが、文学とはなんの関係もないものだと私は感じます。意味があるのは、捕獲された真理であり、それを正確に書き表すための曇りのない観察力と、虚偽を排除しようとする態度だけでしょう。

けれど、翻訳者としての村上春樹さんは、心の底からすごいと思います。ひとつだけ、注文をつければ、寄り道はほどほどにして、早く「夜はやさし」を新訳してください、ということでしょうか。あれほど「『夜はやさし』はいい」といいながら、なぜそれに手をつけないのか。現在のところ90年ころに、角川リバイバルコレクションとして出た文庫しか翻訳がなく、それもすでに絶版になってひさしいというのに……。いや、精力的な作家のことだから、もしかしたらこういっているいまにもすでにゲラが出ていて、今月あたり、発売されるのかもしれませんね。楽しみです。

では、また来週。
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