麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第612回)

2018-06-17 16:02:36 | Weblog
6月17日

「こういう私からすれば、人食い鬼の話は、私にとっての真実の意味を解き明かしてくれるカギのひとつに感じられた――だから「真実」という言葉がついて出た、というわけです。」――と、前回書きましたが、ではなぜ人食い鬼の話が真実の意味を解き明かしてくれると自分は感じるのか、についてはなにも説明できていないですね。ここにはやはり飛躍があり、説明不能なところがあると感じます。いえるのは、私の心の中に、「真実は、人間が作った法律のようにゴテゴテしたものではなく、ごくシンプルな言葉で書かれたイメージの中にある」という期待、というか、極端にいえば信仰があるということでしょう。やはりいきつくところは信仰か。

たぶん、かなり疲れています。
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生活と意見 (第611回)

2018-06-03 20:58:59 | Weblog
6月3日

先週、人食い鬼の話を読んで衝撃を受けたと書きました。まったく本当のことで、これには説明の必要を感じません。しかし、そのあと、この物語を読んで「真実」を云々、と私は書いています。自分にとって、これもまったく本当のことですが、少し説明を。人食い鬼の話を読んで、多くの人が感じるのは、これが、桃太郎の鬼退治のような奇異な童話であり、本のタイトルが示している「怪奇」の領域に含まれるフィクション、ということでしょう。どう考えてもこの物語と「真実」が結びつくとは思えないはず。ところが、私の場合、この二つはダイレクトにつながってしまう。そうして、そこに私のすべてがある、といってもいいでしょう。子供のころから、大人たちがいう「現実」、「真実」という言葉ほど、私にむなしさを感じさせるものはありませんでした。私には、普段の生活も、夢と同じ材料でできているように感じられたし、デジャヴも、ほとんど毎日のように経験していました。初めはその感覚に正直にしたがって、幼稚園や小学校を抜け出しては(自分としてはどこかから抜け出した、という気もしていないのです)さまよっていたのですが、あまりしかられるものだから、やがて私は大人たちのいう現実を認めたような「ふり」をすることを覚えたのです。それは、算数で、リンゴ5つとみかん3つを足すといくつになるか、という問題を「リンゴとみかんは別のものなので足せない」と考えてできなかったのに、「リンゴ5つを5とすることにする」と決めてからは、もうその問題の意味を深く考えなくても、先生の言う正解をいくらでも作り出せるようになったのと同じことでした(前にも書きましたが、こんな「~とすると」の上に構築される数学は、私には一番簡単な勉強のように思えて仕方ありません)。でも、それはただ、そういう「仮定」の上に成り立たせている自分の生活であって、その「仮定」をとっぱらってしまえば、私にとっての真実は子供のころからなにも変わっていない、なにかあいまいな、夢みたいな、とりとめのないもののままでした。そうして、私がずっと知りたかったのは、その、私にとっての本当の真実の「意味」だったのです。それこそ私の本音の本音であり、いつも、どんなときも、私の興味の中心はそこにあったことは間違いありません。――こういう私からすれば、人食い鬼の話は、私にとっての真実の意味を解き明かしてくれるカギのひとつに感じられた――だから「真実」という言葉がついて出た、というわけです。なにかが説明できたのかどうかわかりませんが、この話はいまはここでやめます。

中公文庫、ツァラトゥストラが改版になりました。世界の名著として本書が最初に出たとき(ほかに「悲劇の誕生」収録)、月報に入っていたという、訳者・手塚富雄と三島由紀夫の対談が収録されています。初めて読みました。三島由紀夫は、「ツァラトゥストラを今初めて読むような気がする」といっていて、それはたぶん、賛辞であると同時に批評にもなっていると思いました。それ(世界の名著版初版発行)よりあとに改版されている角川文庫「ツァラトゥストラはかく語りき」の訳者・佐藤通次などのあとがきを読むと、やさしく訳すことがツァラトゥストラという本にとっていいのかどうか、という疑問が提示してあって、手塚訳に対して賛否両論あったのだろうな、という気がします。また、死の4年前のこの対談で三島は「唯識」の話を唐突に出していて、「豊饒の海(たぶん、とくに「暁の寺」)」にうちこんでいたということがこんなところからも見えて読者としては興味を感じます。

なまけ続けていた万葉集、十一巻を読み終わりました。言霊の力、すごい。これも、私にとっての真実の意味を見出すカギのひとつだと感じます。
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