麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第95回)

2007-11-26 00:19:02 | Weblog
11月26日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

来週には、またひとつ年をとってしまいます。

いったいどうしたらいいのか。

わからないので、とりあえず、卒業論文を打ってみることにしました。
まったく論文の基礎も学ばずに書いたし、主査の先生の助言も一度も受けないで書きました。(だって研究者になれるわけでもなく、論文を書くなんて、どうせそのとき一度きりのことなのだから好きなように書きたかったのです。)

普通、テーマは絞り込んで、たとえば「ハイデッガーの『世界-内-存在』という構造に見るキリスト教的側面について」(でたらめです)などというふうにしますよね。しかし、私の書いたのは「現代における人間的意味」というタイトルで、要するにこれは、「人生の意味とはなにか」というテーマです。(もっといえば、宗教のない国に金以外の価値観はあるのか、というものです)

気持ちがいいほど、若くてばかばかしいですよね。でも、それは当時の私にとって一番身近で重要な問題だったのです。いま、論文の途中から打ち始めたので、打ち終わったら、頭から少しずつここにあげてみようかと思います。私の「地の文」はどうでもいいとして、引用してあるサルトルやカミュの戯曲などは、あらすじつきで読めるので、それなりおもしろいかもしれません。(いまでは新潮の「世界文学」シリーズ以外では簡単に読めなくなっているものです。)

私がいかに論理的思考に弱く、感情に流されやすく、バカな人間なのかが露呈していますが、まあなにもかくすものはないので、よければ読んでみてください。

いま、思い出しましたが、論文に取りかかる前、私も、一時的には、テーマを絞り込んで書くのがいいのでは、と思ったことは思ったのです。でも、きっと長くなるその作業の途中で飽きてしまうのではないか、ということがすぐに頭に浮かびました。私の最大の敵は、飽きっぽさです。なにかを続けるには、しばらく放っておいてもまた書きたくなるくらいのテーマでなければダメだと思いました。だから、結局「生きる意味」について書こうと思ったのです。

「風景をまきとる人」のときも、なにかずっと書き続けられるようなテーマにしようと思いました。「うまく仕上げる」ことを目標にしてしまったら、私は絶対に作品を仕上げられないと思ったからです。工芸品のようなものを作るのは私にとって興味のないことなので。

しかし、それはまた、私の限界でもあるのでしょう。「一作一作、腕を上げていって、最後に書きたいことを書け」というふうにできたらいいでしょうが、きっとせっかちなんですね。



ちくま文庫の日本文学全集が、新装で出ています。またもや、芥川龍之介を買ってきました。このセレクトは、「人生を考える」というテーマに沿ったのではないか、と思われる短編集です。なんせ、巻頭が「トロッコ」ですからね。これを中学1年で光村図書の教科書で習ったとき、欄外の注に「塵労=生きるための苦労」とあるのを見て、自分の将来への暗いイメージにとらわれたのをはっきりおぼえています。

では、また来週。
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生活と意見 (第94回)

2007-11-18 23:24:19 | Weblog
11月18日

立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

年をとったから憂うつなのか、と考えてみると、
そうでもないような気がします。

20歳のころは、もっと憂うつが濃密でした。
どうしようと思いました。毎日、ただ憂うつで、その憂うつの濃密さを維持する体力があるものだから、余計憂うつが晴れない。

それにくらべたら、老いぼれの憂うつなど、なんでもないのかもしれません。
せいぜい、食った後、骨に残っている肉のような、そんな憂うつ。

実存は本質に先立つ。

つまり、
「今の私は本当の私ではない」
などという言い訳はできない、ということ。

「今の私」という現象の集積以外、「本当の私」など存在しないのだから。

つまり、
飯を食う仕事をうんざりしながら続ける自分もまた、本当の自分であるということ。

救いがないけど
だから真実なのだと思います。

では、また来週。
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生活と意見 (第93回)

2007-11-11 22:09:21 | Weblog
11月11日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

先週は、なんだか論理的にうまくつながらないようなことを書いてしまい、どうもすみません。

ダイヤモンドゲームのコマの話は、それはそれでいい。
でも、「ベストセラー」とか「九州の男」とかは、飛躍のしすぎですね。

本当は、コマの話をもっと発酵させて、たとえば学校や家でどんなことがあった日に、青をいいと感じるかというようなことを突き詰めていけば、それだけで、なにか短編ができるはずです。それなのに、あせって飛び出してなんとか決着をつけようとするなんて、まるで飯を食う仕事の処理のようになってしまいました。



驚いたことに、サルトルの「存在と無」が文庫になりました。
ちくま学芸文庫です。
何を隠そう、私はこの本の訳者である松浪先生の最後のゼミ生です(先生はそのゼミの6年後に亡くなりました)。もちろん、テキストは「存在と無」でした。

ちゃんと理解できたとはいえませんでしたが、それでも哲学書の中では、この本が、私の若い時期のバイブルだったことは間違いありません。今読むと、サルトル自身の若さが感じられて、たたみかけるような概念のパンチにボロ布のように殴られるままの自分を感じます。ただ、あのころと大きく違うのは、いまの私は、30歳代の終盤にハイデッガーの「有と時(存在と時間)」を読んだという経験を持っていることでしょう。いろいろ理由があって、そのころ私は一時的に気力が充実していて、その本を読むことに集中できたのです。
いまの私から見ると、「存在と無」は、「有と時」をサルトルがどう読んで、何が足りないと感じたのかの膨大な読書感想文のようにも感じられます。

「存在と無」は、窓の近くには強烈な日が差している初秋の街の喫茶店の、ひんやりした席を感じさせます。もちろん、「嘔吐」のマブリーなどの店の描写も手伝って。

「有と時」は、なぜか雪に閉ざされた、山の中にある町の暖かい部屋を感じさせます。カフカの「城」のような町で、でも緊張感を取り去った平和な町です。

その部屋に座り、作者は、小説を書き始める。
しかし、最初に「私は」と書いたところで、手が止まる。

「私は」の「私」とはなにか。

それがわからなければ、小説は進められない。

では、まず、ある書き手がその問題を解いていく小説を書こう。

そうして彼らは、集中した、濃密な時間を過ごし、その時間の世界の雰囲気は、書物の中に閉じ込められたのです。アラジンの魔法のランプに閉じ込められたジンのように。


松浪先生の仕事は、パスカルのパンセの翻訳やキルケゴールの翻訳など、多々ありますが、現在は絶版になっているものも多い。今度の文庫化で、また20年は、その仕事が世に行われると思うと、うれしいです。

では、また来週。
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生活と意見 (第92回)

2007-11-04 19:23:13 | Weblog
11月4日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

最近、年をとったせいか、子どものころのふとした場面とか、場面を伴わない感覚とかがよみがえってくることが多くなりました。

先日、ふいに浮かんできたのは、こどものころ、ダイヤモンドゲームをやっていたときに、青、緑、赤、黄のコマのどれを選ぶのかについて感じていたことです。

基本的には、緑が好きなので、トータルでは8割がたは緑を選んでいたと思いますが、不思議なのは、あるときは青を「絶対いい」と感じたり、赤をそう感じたり、黄色をそう感じたりすることがあったということ。

普通、緑をいいと思っている自分には、青は単純すぎて、なんとなく背の高いバカといった感じがしています。赤は青とコンビの、目が大きいだけでけばけばしい女という感じ。黄色は存在感が希薄で、どうでもいいような感じ。

ところが、青を「絶対いい」と感じる日には、青こそ世界を統べるストレートで美しい色と思えて、それに比べると、緑はにごっていて、カビの色のように感じられます。赤も、この日には青とペアであることをやめて、くすんだ血の色のように感じられます。逆に黄色は、いまでいえば蛍光色のようで、青の存在を引き立たせる同じ貴族という感じ。

赤を「絶対いい」と感じるときは、赤だけが真実で、ほかの色はにせものという感じがする。コマの移動中でも、いつもはっきりと赤が自分を主張しているのがわかります。

黄色を「絶対いい」と感じる日は、ほかの色はすべてくすんでいるように感じられます。黄色だけが、光を反射しててかてかと明るく、ほかの色は、重く暗く感じられます。

ここで大事なのは、毎回毎回、私が心の底からそう感じていたということ。

これは、なにをおとぎ話の中心と感じるかで世界の見え方はそのつど変わってくるということの感覚的な例でしょう。
青をいいと思っている私は、緑をいいと思っているときの私ではありません。そうしておそらく、青をいいと思っている日には、どこまでいっても「青は素晴らしい」という結論にたどりつく方向にしか私の話は進まないはずです。しかも、そのよりどころ(青は素晴らしい)を持っているために、私は自信を持って、その話を進めるのです。

感覚的なレベルと、知性的なレベルという違いはありますが、多くの人が、ベストセラーなるものを読んで「わかった」という気になるのは、ただ「青は最高だ」という切り口を提供してくれたその本を自分のよりどころとして、その切り口で世界を眺めることで、いっとき世界がわかったような気がして不安を忘れられるからでしょう。

しかし、すべては一時的なこと。明日にはもう「緑が最高だ」「黄色が最高だ」「群青色が最高だ」とめまぐるしく変化する自分の心に翻弄され、世界はまたたくまに元の不可解な場所へと変わっていくのです。

ベストセラーを読まなくても、人の心には、そのつどよりかかりたくなる切り口が浮かびますよね。30代半ばになると、なんとなく自分のルーツに意味があるような気がして、たとえば「俺は九州の男だから」と思ったりする。自分の全てが「九州の男」で説明できるような気がして、「ああこれだ」と感じる。自分はこれに気づくために生きてきた、とまで思う。ところが、それはもちろん、錯覚で、彼は「九州の男」であると同時に「無能の男」であり「ただの卑怯者」であり、「人間のくず」であり、「おならばかりする男」であり「あまったれ」であり「銭ゲバ」であり「すたこらさっさの男」であるということに、またすぐに気づくようになります。そうして、自分も世界もたちまち不可解なものとして背中にのしかかってくるのです。

おそらく、これに対処する方法は、私の場合はひとつ。創作することです。
青、緑、赤、黄色を登場人物にして、それぞれが素晴らしいという気分にひたっている人々を、それも一時の気の迷いとしてながめること。自分がもはやどれにも「私も賛成」といわないために。

そんなことをしてなんになるのか、それはわかりません。

しかし、そんなことをしなくてなんになるのか、私には余計わかりません。


では、また来週。
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