麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第43回)

2006-11-26 02:26:31 | Weblog
11月26日

立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

更新が遅くなって申し訳ありません。

今週は、誕生日がやってくるのでちょっと憂うつです。
47歳。おそろしい。なにもしていないのにあと3年で50だとは。

本当に、これまで自分がしたことといえば、本を一冊書いただけです。
あまり多くの読者を持つことはできませんでしたが。

でもまあ、去年入院したときに、自分にとって何が大切なのかはよくわかったので、それさえ見失わずにいれば、もうあせらなくてもいいや、という気もします。

「友だち」の続きを下書きしました。しかし、今日ちゃんと書き直して読んでいただくのはむずかしい感じです。今日は、来月の宮島氏とのコラボ展のはがきを持って、書店をまわって店に置いてもらえるように頼んでみようと思っています。だから、とても原稿を書く時間はないでしょう。

宮島径氏の写真展「架空のグラデーション」は、30日までやっています。よろしくお願いします。

http://www2.ttcn.ne.jp/~moon26/

今週は、「風景をまきとる人」の第43回を、前・後編に分けて掲載しています。長いですが、前・後編続けてお読みください。

では、また来週。
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生活と意見 (第42回)

2006-11-19 01:02:26 | Weblog
11月19日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

16日に、宮島径写真展「架空のグラデーション」に行ってきました。
いまさらながら、いい写真だなと感じると同時に、いつも思うのですが、氏の純粋なところが写真全面に現れていて、なにか嫉妬を感じました。

皆さんも、よかったら高田馬場のギャラリーバー「26日の月」に足を運んでみてください。

http://www2.ttcn.ne.jp/~moon26/

店の入り口のほうに、「PLACE M」での、宮島氏と私のコラボ展の案内はがきが置いてありますので、そちらもよろしくお願いします。

http://www.placem.com/j/schedule.html

今週は、なによりも“「架空のグラデーション」開催中”のお知らせが大事だと思うので、ほかのことは書かないことにします。

「風景をまきとる人」はだんだん最後に近づいてきました。
続けて読んでくださっている方はもう少しおつき合い願います。

では、また来週。
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生活と意見 (第41回)

2006-11-12 23:12:24 | Weblog
11月12日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。


更新が遅くなって申し訳ありません。


自分が「読みたいな」と思っていると、その本が目の前に現れる。ということは、わりとあることですよね。たまたま入った古本屋や新刊本屋でその本が売れ残っていたとか、たまたま新訳や、改版が出たりとか。
「大いなる遺産」を読んでディケンズを尊敬してしまったので、やはり「デイヴィッド・コパフィールド」を読むしかないと思い、しかし、新潮文庫の4冊本は字が小さいままだったので、「大きくならないかなあ」と、思っていたら、思い始めて1週間後くらいに大きくなりました。とてもうれしくて一気に読んでしまいました。感想は、やはり、この人はものすごい天才だな、のひと言です。
「大いなる遺産」に比べれば、深い感動というわけにはいきにくいところもありますが(それは、おもに不自然な設定のせいです。あまりに人の死に方が都合よすぎたりとか、いくらなんでもこんな偶然はないだろうというような再会とか)、でも、そんなことはどうでもいいでしょう。とにかく、こういう人こそ作家になるのが運命なのだと一読実感できる傑作ですね(私が言うまでもなく)。なによりもその観察の鋭さ。人物描写のディテールのリアリティ。また、それらの人物をディケンズが苦心して考え出したというよりも、「俺のことを書いてくれ」とキャラクターのほうがディケンズにせまっているかのような、その描写の迫力。「主人公の性格のツメがあまい」など、批評は誰にでもできますが、そんなものまったく関係なく、きっと人間が続く限り読みつがれていくことでしょう。

そうして、思ったのは、この作品が、「失われた時を求めて」とどこか似ているということです。初めのうちはなにをするのか、なぜ彼が主人公なのかわからないような語り手の設定。ペゴティという家政婦とフランソワーズという家政婦の設定と位置。語り手が別の時期に知り合ったふたりの人物が、恋愛関係になること(エミリーとスティアフォース、ジルベルトとサン・ルー)、作者が当時気になっていた社会的事件へのこだわり(債務監獄、ドレフィス事件)など、もちろん長編小説として、それらがよくある要素であるといえばそうなのですが、作者ふたりが一見まったく別の印象を与える人間であるだけに、この類似にはなにか不思議な感じがします。
ディケンズは、この作品をまだ認識の途上で書き上げ、プルーストは完全に認識を終えたあと書き始めているので、その点も考えるべきでしょうが、「デイヴィッド~」は、時代と国と階級を異にした「失われた時~」のような気もします。
もし、ディケンズが、「大いなる遺産」を書き始めるころまで、この本の執筆をのばしていたとしたら、おそらく、もっと似てきたことでしょう。「大いなる遺産」には、そういえば、「見出された時」のような自己発見と、わびしさのようなものが漂っているようにも思えます。

「ライ麦~」では「『デイヴィッド~』式のくだんない話」と書かれ(もちろん、それもサリンジャー流のディケンズ賛美なわけですが)、旧文学の代表のように扱われている「デイヴッド~」ですが、とんでもない。こんなものを書ける人間がそうそう生まれるものでないことは、明らかです。ディケンズは、伝統など無視した、オリジナリティあふれる、いつまでも斬新な作家として生き続けるでしょう。プルーストふうにいえば、その、伝統にのっとっていないところが、逆に古典として残る価値を証明しているわけです。

さて、いよいよ今週木曜日(16日)から、高田馬場のギャラリーバー「26日の月」で、宮島径写真展「架空のグラデーション」が始まります。月末までゆるりと2週間やっていますので、ぶらりと寄ってみてください。

http://www2.ttcn.ne.jp/~moon26/

では、また来週。
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生活と意見 (第40回)

2006-11-05 00:13:39 | Weblog
11月5日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

言葉が死ぬと、その言葉が表していた気分や価値観や感情が死ぬ。
死語とは、なくなった気分や価値観や感情のこと。

疲れハイだったのだと思いますが、おととい、夜中にふと、「まっぴらごめん」という言葉と「すたこらさっさ」という言葉が頭に浮かんできました。
どちらもいまでは使われなくなった言葉で、でも、私が子どものころには普通に使われていた言葉です。なんだか、あまりに脈絡もなく浮かんできたので、自分で自分に「なんじゃそら?」とツッコミを入れたくらいです。
 でも、ちょっと考えると、急にとてもおかしくなって、私はにんまりしました。というのは、私の人生は、要約するとこのふたつの言葉で表せる、と思ったからです。
 
まっぴらごめん。
すたこらさっさ。
 
「ちゃんと学校行けよ」まっぴらごめん。
「勉強しろよ」まっぴらごめん。
「国立大学に入れよ」まっぴらごめん。
「ちゃんと仕事につけよ」まっぴらごめん。
「仕事、やめるなよ」まっぴらごめん。
「人に迷惑をかけるなよ」まっぴらごめん。
「大人になれ」まっぴらごめん。
「貯金しろ」まっぴらごめん。
「子どもを持って立派な社会人になれ」まっぴらごめん。
「こうなったこと、責任とってよ」まっぴらごめん。

すたこらさっさ。

子どものころは、近所にもこんなおっさんが何人もいたような気がします。彼らは、「バカでどうしようもない人」といわれながら、しかし、まだ「人」でした。
ところが、いまは、そういうのは人と呼ばれないらしい。どうやら、競争社会からはみ出しているのは現実逃避のクズで、愛する家庭を守れないようなのはクズのクズ、大人になれないのも病気で、生きている資格がないらしい。いったいどこの誰がそう決めているのかは知りませんが、世の中には立派にそういう判定を下せる能力を持った方がたくさんいらっしゃるようです。

 まっぴらごめん。

「君を守るため、そのために生まれてきた」なんて、そんな奴いるのか。
あのときは、やりたくなってがまんできずに射精してしまって子どもが生まれたけど、もういまは、後悔している部分もある、と、いってはいけませんか。あのときは、愛しているといえばやれそうだったからそういったけど、考えてみるとそれほど好きではない。といってはいけませんか。
 私は自分以外の誰かを自分以上に愛したことは一度もないし、「愛する」という概念がいまだにわかりません。世界がなんのためにあるのかもわからないし、だからなにがいいことで悪いことなのかもぜんぜんわからない。ただ、気が重くなるようなことはすべて嫌いだし、できれば一生そういうものから逃げ回っていたいと思っています。
 まあ、こんなふうに考えている私は、たぶん人間ではないので、そのうち線路の上に横たわり、電車を停めたことで多くの優秀な人々の怒りをちょっとだけかりたてたあと、ゴミとして処理されるくらいがオチでしょう。


まっぴらごめん。
すたこらさっさ。

 そんなセリフを吐く男もまだ人と呼んでもらえた時代に生まれたかったですね。少なくとも。どうしても生まれなければいけなかったのなら。
 立派な人が多すぎて、とてもじゃないが口も利けない。

 まっぴらごめん。

 ごめんなさい。

 では、また、来週。

 すたこらさっさ。
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