麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第594回)

2017-12-24 21:26:12 | Weblog
12月24日

――クリスマスも聖母幼稚園児童としては一つの(高二までに崩壊するさまざまな世界観の中のひとつの)世界観をもたらした行事だった。年長のふじ組になるとキリスト生誕の劇をやらされるのだが、容姿のいい男女はヨセフとマリアを演じるスターで、聡明な男は三博士を演じる重要な脇役。白痴で不細工な私は当然、羊役(つまりいてもいなくてもいい役)だった。しかし、こんな無意味な児童にもビンセント・バルバ園長は平等にプレゼントをくれた。サンタの衣装で。私は、サンタクロースの実在性について悩んだことはない。なぜならサンタクロースはバルバ先生だったから。外人だし、どう見ても本物だったから。ながいあいだ疑問さえ浮かばなかったのだ。もちろん、ヨセフ役の篠田陽一や、すでに昆虫博士の異名を持っていた高見沢しんじなどはとっくに真実に目覚め、この虚弱児を笑っていたのだが。――大丈夫。もうすぐ終わるから。
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生活と意見 (第593回)

2017-12-17 09:59:15 | Weblog
12月17日

――まあ、それも本当かどうかはわからない。人間は意味に頼る動物だけに、ときどき自分の人生にある切り口を見つけて、それで自分のすべてが説明できるような気がして有頂天になることがある。たとえば、私の仕事の後輩で、仕事関係者の域を逸脱して親しい蓮本という男がいるが、彼は二十数年前のある日、私にこう言った。「僕は昨夜気がついたんですけど、僕のやってきたことはすべて『会津人』ということで説明がつくんですよ」。彼のいうことによれば、彼がボクシングをやっていたことも、パンクを好きなことも、青学の日文科でプロレタリア文学を研究対象に選び小林多喜二をテーマに卒論を書いたことも、頭をモヒカンにし、子供電話相談室で子供の悩みにこたえるバイトをやっていたことも、すべて会津人ということで説明がつくという。日頃自分の行動の整理がつけられず、その後始末に翻弄されることも多く、そのことでプライドを傷つけられることも多かった彼は、今日その切り口を見つけ、自分の聡明さにプライドが蘇るのを感じたに違いない。「うるさいな。おまえは、今日はたまたまその切り口で自分を解釈して気分がよくなっている。ただそれだけだよ。三日もすればその切り口に飽きて、今度は『僕の行動はすべて、つねに直通でうんこに行くことばかりを考えている男ということで説明がつくんですよ』と言い始めるに決まっている」。私はそう言っていさめたが、しかし、自分でもそういうことは何度も何度も経験してきたことだった。――そのように、世界観を喪失して生きることが難しくなった、というのも、ただそんな気がしただけかもしれない。本当は、そのころ自分の好きだった女がまったく自分を相手にしてくれなかったので絶望的になっていただけかもしれない。――しかし、それもまた嘘だろう。自分を卑下するのも、自分を過信するのと同じぐらい間違っている。当時、性欲はもちろん強かったが、誰かを好きだったという事実はない。いや、女も男も限らず人間のすべてを憎悪していたというほうがやはり真実に近いだろう。私のように、暴力が怖く、ひ弱な人間にしては、そのころが最も「荒れていた」時期といってもいいだろう。
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生活と意見 (第592回)

2017-12-10 00:21:52 | Weblog
12月10日


世界観。それがすべて。大きな、といっても人間ひとりの生の時間など大きいとはいえないが、それでもその生の時間の中では大きい時間単位でいえば、親や教師の世界観の影響をもろに受けざるをえないのが子供時代であり、そのまま一生をその世界観の中で生きる人間も少数はいるだろうが、少しでも考える能力のある人間なら中学になるころには、まるで思いつくままに増改築されたようなグロテスクな自分の世界観に疑問を感じ、それを片っ端から吟味し直さないではいられなくなるはずだ。世界観を作り上げている一つ一つの価値観の根拠を探り出し、それに意味があるのかを検証する。意味があるとは、それがゴキブリの「共食いをしようとも汚物にまみれようとも気にせず前向きに生き自分の子孫を残せば勝ち」という最底辺の生きる意味以上の意味がそこにあるかどうか、というところで判断される。簡単にいえば、私は、その吟味を高校二年の夏に終えた。そうして、すべての価値観に根拠はないという結論に達した。それを自分の言葉では「無意味化が終わった」と呼んでいた。つまり私は世界観を失ったのだ。性欲はゴキブリのように生を渇望し、認識はそれを無意味だと、瞬間ごとに自分に告げる。私はどうしたらいいのかわからなくなりとりあえず勉強は放棄することにし、考えることにした。意味のある世界観を新しく築かなければどうにも生きていけなくなったからだ。――私はそれを築けたろうか。結論から言えば築けたのだろう。だが、なんとか築けたのは、二十年も経ってからだった。アホらしい。大丈夫。子孫はいないから。
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