麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第203回)

2009-12-27 02:52:38 | Weblog
12月27日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

ひさしぶりに、今日は少しだけ本を読む時間が取れました。

以前買っておいた、光文社新訳文庫の「黄金の壺」(ホフマン)を読みました。
訳者はエンデの「モモ」を訳した大島かおりさんです。
30年前、岩波文庫で初めて読んで以来、二度目の通読です。やはり、とてもおもしろかったです。有名な「砂男」は、岩波文庫や河出書房文庫などにいい訳があって、何回か読んできたのですが、「黄金の壺」は、意外にいい訳がなくて、若いころ読んだイメージが残っているだけでした。ゴーゴリ的でもあるし、ドストエフスキー的でもある。もちろん、二人がホフマンの影響を受けているからでしょうが。

どこが? をひとつひとつ説明するのはむずかしいのですが、私の20歳のころの生活は、かぎりなく主人公のアンゼルムスに近かったといえます。自分の幻想がいつも生活にまではみ出しているという点で。その幻想とは、たとえば「風景をまきとる人」で油尾が話す「にせものの女王」の物語のことです。アンゼルムスは最後にとうとう自分の理想郷である幻想の世界の住人となりますが、私は大学卒業後、むしろ進んで現実に、自分のこっけいさをより強く意識することのできる現実に自分を押し出しました。でも、結局それ以後も自分がずっとそのおとぎ話の世界で生き続けてきたことに30代半ばころはっきり気づいてしまって――ほとんど意味不明の独り言のようになってきたので、このあたりで。でも、これは自分にとって大切なメモになりそうです。

もうひとつ読んだのは角川ビギナーズクラシックスの新刊「堤中納言物語」です。
以前書いたとおり、私はこの短編集が大好きなのですが、今回のこの本も、とても気に入りました。編者のすばらしい仕事です。読んだことがないという方は、ぜひ読んでみてください。同時に出た同シリーズの「太平記」も買ってきました。これからもまだこのシリーズは続きそうです。本当に楽しみです。



では、また来週。
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生活と意見 (第202回)

2009-12-20 22:11:46 | Weblog
12月20日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

正直、本を読む余裕がありません。

今週読めたのは「ベートーヴェンの生涯」(平凡社新書)だけ。
しかも、ものすごいスピードでとばしながら読みました。
「エリーゼのために」は、長く「テレーゼのために」の読み間違いとされてきましたが、じつはやはり、エリーゼという女性がいたこと、また、ベートーヴェンはカントが好きでインド哲学にも通じていたことなど、初めて知りました(それだけ聞くとまるでショーペンハウアーと同一人物のような感じです)。

高校時代、廉価版のレコードでかなり長い時間、ベートーヴェンを聴いて過ごしました。(ブルーノ・ワルターの安いシリーズの「田園」、カラヤンの昔の録音の「運命」「第九」、サンソン・フランソワの三大ピアノソナタなど)。というと、クラシックファンのようですが、ロック、フォーク、ジャズ、古賀政男もさんざん聴きました。でも、やっぱりベートーヴェンもかなり聴きました。大学時代にも。

ポリーニとベームの「皇帝」が出たのは大学時代。でも、なんとなく20歳のころは、モーツァルトを聴きました。ピアノコンチェルト20、21番はとてもたくさん聴きました。大好きです。また、マリア・ジュリーニの「レクイエム」もよく聴きました。小林秀雄が好きな40番交響曲ももちろんいいと思いましたが、どちらかというと「泣かせるなー」という「やられた感」が強く、ものすごく好きではありません(八代亜紀の「舟歌」みたいな感じ)。

その後は難聴になったので、前ほど聴かなくなりました。30歳ころ、よくある話ですが、サティがとても好きになりました。自分でも4曲ほどピアノで弾けました(簡単なアレンジではなくオリジナルです。といってももちろん、誰でも1週間あれば弾くことはできると思います)。

ついでに書けば、一番好きなクラシック作曲家は、ショパンです。
自分で書いて笑ってしまいますが、しかしやっぱりそうです。つぎは、よく知らないけどバッハです。

クラシックギターの作家なら断然バリオス・マンゴレです。マンゴレは、20世紀最大のクラシックギタリストといわれるアンドレス・セゴビアに否定されて(そのせいだけではないのでしょうが)、ずっとマイナーな存在だったらしいのですが、今では復権を遂げています。その推進力のひとつは、セゴビアの弟子のジョン・ウィリアムスがバリオスを取り上げたこと、というのが、なかなか皮肉な感じでいいです。バリオスをひと言で言えば、ショパンのギター版です。と、私は思います。いちおう、一曲だけ、ただたどるというだけなら自分でも弾けます。Cmのプレリュードです。

というわけで、ベートーヴェンは、やはり、若いころに聴いたという感じです。私にとってその音楽は、今はニーチェの「ツァラトゥストラ」の中に閉じ込められているといってよく、ふたつは私にとって同じものです。「運命」を最初から最後まで聴く体力はもはやないのですが、ツァラトゥストラの言葉を読むたびに、それこそ「墓の歌」の墓から解き放たれて、その音楽を聴いていたころの自分のリズムが蘇ってくるのです。

まあ、とにかく、最近では昔の歌謡曲を聴いてじわーっとすることも多いじじいですが、たぶん、かつて聴きまくった音楽は、多くは本の中に形を変えて保存されていると思われます。それでもショパンやバッハのように、今も聴いて、簡単なアレンジ譜でギターで弾き続けているようなものもあります。

ベートーヴェンを聴くことは、もはやあまりないと思いますが、でも、ベートーヴェンのような人間がいたことを、その人に心底あこがれる若い自分がいたことを忘れることはないと思います。

「君の魂の中の英雄を投げ捨てるな。」(ツァラトゥストラ)

まさに、ニーチェさん、あんたのいうとおり。
絶対投げ捨てやしませんぜ。「アホ」いわれてもな。



では、また来週。
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生活と意見 (第201回)

2009-12-13 17:29:22 | Weblog
12月13日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

先週書いた「ブレイス・ブリッジ邸」は、「ブレイスブリッジ邸」の間違いです。
すみません。

「聊斎志異」第五巻が出たので買ってきました。
まだ、四巻の200ページあたりで止まっていて、五巻にとりかかるのにはもう少し時間がかかりそうです。



唐突ですが、「影響」ということについて、いつも考えていることを書いてみます。
私は、このブログで、プルーストやドストエフスキーなどについて何度も書いていますが、それを読まれた方の中には、「そんなに偉い人のものを読み込んだのなら、おまえの創作の文章に少しもその影響が見られないのはなぜだ? 才能がないのはわかっているが、もう少しどこかそういう才気の片鱗を感じさせるような文章を書くことはできないものか」と、思われる人もいることでしょう。

たしかに、世の中には、自分が好きになったものの影響がモロにうかがえて、作った人もそれを誇りとしている、というような創作があります。たとえば、村上春樹さんがデビューしたあと、小説では、物語に入る前のところで書き手が文章や人生についてひと言発言をする、という創作スタイルがずいぶん流行ったように思います。「僕は長い間、〇〇を××したのだけれど、それは結局△だと思うようになった。たとえば、ウスバカゲロウという生き物は~」とか、そういう感じの文章です。また、語り口のリズムが、一読太宰治を感じさせるとか、漱石的だとか、そういう創作も見かけます(ほとんどすべて立ち読みですが)。そういうとき、私は、その作者の方たちが、「俺には、元ネタになっている大作家を完全に消化吸収するだけのセンスと頭のよさがあるんだ。だから、彼を賞賛するのと同じように俺も賞賛しろ」と胸を張って言っているように感じられます。もちろん、彼らには書店に並ぶ本を書けるすごい才能があるのだからそう言う権利があるし、もともとすべては模倣から始まるわけだから、それはそれでいいのでしょう。ただ、私にわかるのは、自分はそういうことができないということです。

私はむしろ、自分が書いていて、尊敬する作家の文章に見かけだけ(もちろん見かけだけです)似てきた場合は、すぐに書くのをやめたいと思うような人間です。なぜかというと、そんなものは、生まれてくる必要のない創作だと思うからです。その模倣文のような世界が味わいたいのなら、直接本家の作品を読めばいいと思うからです。

私がプルーストやドストエフスキーを読んでいるとき聞こえてくるのは、「誰かの文体や創作上の人物を本歌取りし、文芸実験室でこねくりあげて、センスと頭のいいところを見てもらえ」というような声ではなく、「どこまでもおまえ自身になれ。おまえの問題だけを扱え。おまえの歌だけに集中しろ」という声です。パスカルを読んでも、ニーチェを読んでも、いつも聞こえてくるのはそれだけです。逆にその声が聞こえてこないものは自分にとって意味のないものです。「自分の言葉で、自分の問題を」。惨めな結果に終わろうとも、自分には他のやり方はありません。



では、また来週。
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生活と意見 (第200回)

2009-12-06 15:58:47 | Weblog
12月6日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

岩波文庫から、ワシントン・アーヴィングの「ブレイスブリッジ邸」(1822年作)が出ました。以前、ここで「スリーピー・ホロウの伝説」について書きましたが、同作がおさめられている「スケッチ・ブック」発表の2年後に出た本です。

イギリス旧家の結婚式に招待された語り手が、そこで出会った人々と古くから伝わる習慣についてたんたんと描く小説。今、半分くらいまで読みましたが、なんの事件も起こらず、なんの教訓も語られず、現代的な心理描写などまったくありません。しかし、ここには、人間のすべが書き込まれている。まるで樹木が育ち、花を咲かせ、枯れていくのを観察・描写するように、老婦人や、退役軍人や、老農夫の半生が語られます。それらは、ユーモラスで、しかし、悲しい。結婚する若い2人にもその悲しみがかげを落としています。

「スケッチ・ブック」以外のアーヴィングを読むのは初めてですが、その天才を再認識。詩的な言い回しも、難解な語句もまったくなく、散文もいいところの平板な散文なのに、全体は詩以外のなにものでもない。前にも書きましたが、人間が続く限り、永遠に残る完璧な作品だと思います。

できれば、「スケッチ・ブック」の新訳を出していただきたいところです。
ティム・バートンが「スリーピー・ホロウ」を撮ったときに吉田甲子太郎(きねたろう)訳の新潮文庫が改版になりましたが、少し訳文が古いし、岩波のものはもっと古いものが現在では絶版状態なので。待っています。



では、また来週。
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