麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第159回)

2009-02-21 21:46:11 | Weblog
2月21日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

PHPから「夜間飛行」の新訳が出ました。
いま、すごくゆっくり読んでいます。



岩波文庫で改版が進んでいて、読みやすい字の大きさで生まれ変わったものがたくさん出ています。ルソーの「エミール」、プラトンの「国家」、モリエールの諸作品など。もっとあるのですが、忘れました。
モリエールの作品集は全部で9冊。美装ケース入りだったので買ってきました。「孤客」(ミザントロオプ)は、「人間嫌い」のタイトルで新潮文庫に入っているものが有名ですよね。学生時代は好きでよく読んだのですが、30歳を過ぎてからはあまり読んだ記憶がありません。とりあえず、「スカパンの悪だくみ」を読みました。なにか吉本新喜劇を見ているようで、おもしろかったです。

ふと思い出しましたが、高校1年のころ、「人間嫌い」を読もうと新潮文庫を買ったとき、「すごく暗い、ヘビーな本なんだろうな」と題名だけで勝手に想像しました。ところが、読んでみると喜劇で、「これはなに?」と完全に予想を裏切られました。



心に余裕がなく、書きたいことをうまく書けません。



では、また来週。


●小説「風景をまきとる人」は、まだまだ在庫があります。
書名で検索していただければ、いろいろな取扱店さんが表示されます。
購読してもらえると、とてもうれしいです。
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生活と意見 (第158回)

2009-02-15 22:47:28 | Weblog
2月15日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

近所の古本屋で、90年代半ばに出た「少年少女古典文学館」シリーズを一冊350円で売っていたのでいくつか買ってきました。このシリーズの「平家物語」は、以前ここでも書いたとおり、講談社文庫から「吉村昭の平家物語」として出ています。

「堤中納言物語」とあわせて一冊になっている「うつほ物語」をまず読みました。作家の津島佑子さんが、長大な原作を読みよい長さと語り口でまとめた訳で、とてもおもしろかったです。メインテーマは「琴の技の伝承」のようですが、ファンタジーでもあるし、恋愛小説でもあり、宮中行事の解説書のようでもある。

私は「堤中納言物語」が好きで、三種くらい訳を持っています。「ほどほどの懸想」というタイトルからして笑えるし、また「虫愛ずる姫君」もいい。
30歳を過ぎてから、(たぶん学術文庫で古典が充実してきたからだと思いますが)「とりかえばや」にも夢中になったし、「堤中納言」も見つけました。今回の「うつほ」もあわせて、「メジャーではないけれども、すばらしい古典」がこんなにあるのだとあらためて思いました。
「日本人は、わびさびと情念」。もちろんその王道もすごいけど、「それだけでもないよ」と、これらの作者は言っているように感じられます。
「うつほ」は、角川文庫でビギナーズクラシックスも出ています。こちらは、私は読みきれませんでした。



書き忘れていましたが、「ベンジャミン・バトン」の文庫を出てすぐに買って読みました。これもとてもおもしろかった。ありえない話がたんたんと書かれていて、なぜか読んでいるとそれが現実と感じられてくる。やっぱり、そこが天才の筆力というものなのでしょうね。映画はたぶん見ないと思うけど、映画化のおかげでまたひとつフィッツジェラルド作品が読めてよかったです。



では、また来週。
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生活と意見 (第157回)

2009-02-08 01:02:19 | Weblog
2月8日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

この年齢になってみれば、人間ひとり生まれてくることなんて、大したことでもないと思います。誰にでもできるアホみたいな行為(そのときの自分の姿を思い出せば、とても『知的生活』などという単語は口に出せない気がする行為)の結果として、10カ月過ぎれば、植物の実がなるようにただ生まれてくる。以前にも引用した深沢七郎の言葉で言えば、屁と同じ作用で母親から排泄されるといってもいいでしょう。

ただ、これは、唯物論的な気分のときにそういうふうに感じるということで、いつもではありません。
逆に、幻想的な気分になっているときは、この世界は、まるで誰か(ダンセイニによれば、マアナ=ユウド=スゥシャイ)の夢のように、どこまでも深い奥行きがあり、生まれてきたことは神秘的なことのような気がする。
また、同じ唯物論でも、史的唯物論的気分のときには、先祖から続いて自分がいるというだけでなんとなく自分が意味のあるもののように感じられる。
キリストが強く意識される日には、自分の悲惨さが身にしみて憂うつになり、生まれたときに原罪を負っているのは本当だという気がする。
今は少なくなったけど、この世界が、人間がやがて超人になっていくための修業の場だと感じ、自分は超人へと進化するために生まれてきたと感じることもある。
スッタニパータや中論に説かれるように、「生まれた」とか、「生きている」と考えていることが、ただの先入観だという唯心論的な気分になる日もある。

その日の気分で、唯物論者にも、観念論者にも、唯心論者にも、キリスト者にも、その入門すれすれのところまで近づき、入門できない。
といって、手近な宗教、つまりいつも正しいことしか言わない女という実用物に帰依する気分には、もうとてもなれない。やりたいさかりのころなら、まあそれでもよかったのですが。
今はもう、正しさなどうんざりです。ヘドが出る。子どものころ、母親にうんざりしたのと同じように。

私にはっきりわかるのは、自分が口ごもらずになにかを言えたときには(それが心の中であっても)、信じてもいないなにかの主義者の気分になっていて、その主義を足場にして言っている、つまり演技をしているということだけです。
「あやしいぞ、あやしいぞ。そんなに話の筋が通っているなんて、この自分はあやしいぞ」。そう感じながら自分を見ているのが、本当の自分だと思います。そうして、その自分だけを私は信じています。心の中で発言するときでさえ、いつもしどろもどろの自分を。



では、また来週。
コメント (4)
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