麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第268回)

2011-03-27 15:21:53 | Weblog
3月27日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

角川文庫から新訳「ガリバー旅行記」が出ました(岩波書店でも数年前「ユートピア旅行叢書」に新訳が入りましたが高くて買えませんでした)。ほとんど本を読む時間がとれなかったのですが、「リリパット」だけ読みました。すばらしい訳です。ぜひ読んでみてください。またもや、気に入った一節を写してみます。ガリバーがリリパットの道徳や教育について報告する部分です。

親子間の義務については、われわれとは根底から考え方が異なっている。生物の雄と雌との交合は、種の保存と繁栄をめざす自然の偉大なる原理なのだから、人間の男女の結びつきも動物となんら変わるところのない、肉欲につき動かされた結果に過ぎないと、リリパット人は言う。生まれた子どもに対する優しさも、そんな自然原理に基づくものにすぎないのだから、種をまいた父親に対しても、産んでくれた母親に対しても、子どもは何の義理も感じる必要はないのだ。悲嘆に満ちた人間の一生を思えば、この世に生まれてくることには何のありがたみもないし、両親のほうとしても、そのときは色恋にうつつを抜かしていただけなのだ。(「リリパット渡航記」第六章)

誰でもすぐに思い出すのは芥川龍之介の「河童」の雰囲気でしょう。どちらが辛らつかはわかりませんが。

また、ジョイスがアイルランド文学者の先輩として、同じ性向を持つ文学者として、スターン同様スウィフトを尊敬していたのは直感的に理解できることです。

恋は発条(ヴァネ)サというものの、ステラれ姉妹がふたりでに情(ジョウ)ナサン男に憤ったのは、まだだった。(「フィネガンズ・ウェイク」第一章/柳瀬尚紀訳)

よく知られることですが、ジョナサン・スウィフトは、ヴァネッサ、ステラと死別したあとは廃人となって果てたとか。作品は何もマネできないけど、廃人として死ぬくらいならなんとかマネできそうだと若いころから思っています。私的には、スウィフトをラブレー同様好きでたまらないのは、2人とも「うんこ好き」なところです。糞尿譚好みは、たぶん、幼児性が抜け切らないことに起因するのでしょう。私が魚介類を食べないのも同じ性向だとわかっています。わかっていても治す気はさらさらありませんが。



では、また来週。

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生活と意見 (第267回)

2011-03-21 16:53:34 | Weblog
3月21日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

中公文庫新刊「ドナルド・キーン自伝」を読みました。
キーンは、学生時代(たぶん高校時代)、「日本の文学」(吉田健一訳)を読んだときから断続的に読んできました。最初は三島由紀夫との交流の話がおもしろくて読んだのですが、そのうち著者本人のファンになりました。最近「明治天皇」「日本文学史」と大作の文庫化が続いていて、エッセイでもついこのあいだ「私の大事な場所」が出て読んだばかり。やはり文化勲章を受章して注目度が上がったのでしょうか。

ずいぶん年をとってからですが、私は三島由紀夫がノーベル賞受賞にすごく執着していたのだろうと気づきました。今回の読書で、それが本当だったことを知りました。高校時代には、私は三島を偉いと思うあまり、そんな世俗の栄誉にこだわっていたはずはない、と思っていたのです。しかし、三島には、おそらく体力コンプレックスから、自分の知力の優秀さを誇示したいという欲望があったに違いなく、学校の成績はもちろん、その知力のすべてを注ぎ込んだ文学というジャンルでも一番になることが望みだったのでしょう。

書いてみるとバカバカしいけど、オリンピック選手が「何歳で日本選手権。何歳でオリンピック初出場銀メダル。四年後金メダル」というような目標を立てるのと同様、三島は「学習院首席卒業。東大法学部卒業。大蔵省に入った後、作家として独立」というような目標を立てていたのではないかと思います。そういう予定の立て方をするところが、スポーツ、文学関係なく、やはりエリートですよね。

唐突ですが、最近では、小池龍之介という人にそういうにおいを感じます。きっと彼は中学か高校時代に「東大を卒業して僧侶になる。話題になるぞ。そうして『坊主失格』という本を書く。フフ」と、自分の頭の良さに酔いながら計画を立てたのではないでしょうか。

私のような凡夫には、彼らのような人は、生まれ持った優秀さそのままに官僚とか、大企業のトップとかになればそれでよかったのにと感じられます。コリン・ウィルソン流にいうと、彼らはインサイダーの人たちです。インサイダーとしても立派にやっていける人が芸術や宗教を媒介にエリートの道をまい進しているわけです。

しかし、芸術や宗教は、内側(社会性)に向かうものではなく、明らかに逆のベクトルを持ったものではないでしょうか。芸術は、明日から生産活動をやめたくなるような世界観を開くものであり、宗教とは家族を捨てて町から出て行きたくなることを目的としたものではないのでしょうか。

少なくとも私にとっては、芸術は「行き当たりばったり」のものであり、「どうにもほかにしようがないから作るしかない」ものであり、作っている人は「それを作っているとき以外ほとんど社会に必要ないアウトサイダー」であるように感じられます。つまり、まあ「どうしようもない人間」ということでしょうか。

世の芸術家とか表現者と呼ばれる人たちも、多くは知的体操選手であって、インサイダーであり、一番になりたい人たちです。でも、それは私の定義では芸術家ではありません。

読んでいてそんなことを考えました。
しかし、そんなこととは関係なく、ひとりの文学者の生涯の思い出としてとてもおもしろく読めました。



アンブローズ・ビアスの作品集が新訳文庫から出ました。
私の知る限り、79年に「死の診断」(角川文庫)が出て以来、約30年ぶり(と、書きながら思いましたが、岩波文庫でその後一度出ていたような気が)。私が持っているのは、「死の診断」と講談社文庫の「ビアス怪談集」、ごく最近出た筒井康隆訳「悪魔の辞典」。表題「アウルクリーク橋の出来事」は学生時代高田馬場のアクトミニシアター(?)で映画を見たこともあります(いま調べたら61年のフランス映画だったようです)。若かったから、衝撃的でした。「月明かりの道」という幽霊譚が私の大好物です。



では、また来週。

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生活と意見 (第266回)

2011-03-13 12:06:38 | Weblog
3月13日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

またしても「スケッチ・ブック」で「スリーピー・ホローの伝説」と「リップ・ヴァン・ウィンクル」を読んでいました。何度読んでもどちらも最高です。「リップ」のほうから、なんとなく気に入ったところを写してみます。

口うるさい女房に、家できびしくしつけられている男たちは、えてして外では人の言いなりになって折りあいがよいものなのだ。(中略)寝室でひとこと小言をきかされると云うことは、世界中のあらゆる説教を聞いたも同然で、忍耐と辛抱の美徳を教えこまれるものだ。だから、ある見かたからすれば、口やかましい女房はかなりの恩恵だとも考えられる。もしそうなら、リップ・ヴァン・ウィンクルはこのうえもない果報者だったのである。(新潮文庫・吉田甲子太郎訳)

リップの性質の大きな欠点は、何ごとによらず金になる仕事をするのが、いやでいやでたまらなかったことだ。(同上)

こんなおっさん、われわれが子どものころはけっこう周りにいたように思います。誰もが競争心満々で24時間戦うのが好きなわけではない。なにかの間違いで生まれてきて、生産作業にはまったく不向きな人間がいても、その人のせいでしょうか。ほっとけよ。という感じですよね。同じ種族としては。


では、また来週。

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生活と意見 (第265回)

2011-03-05 15:00:03 | Weblog
3月5日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

先週書いたことについて考えてみると、「書くこと」を二番目にしてもいいと思ったときもあったと思います(正確には「二番目にしてもいいと思ったと思っているとき」ですが)。むしろ意識してそうしようと自分に誓う(この「誓う」というのがすでに若者言葉で、自分というものを知らない人間の空約束なのですが)、そんなときが。ところが実はそうではなかったことにやがて気づく。それは、誰かに対しての復讐という形で表れる。たとえば一緒に住んでいる女に対して。なぜかいつも腹が立つ。理由もないのにケンカをふっかける。実はそれは、私が、自分で自分に嘘をついて「書くこと」を二番目にしようと誓ったからで、心の中では「俺は書くことより収入を上げることをおまえのために選んでやったのだ。本当はそうしたくないのに。俺は犠牲者なんだ」と思っているからその復讐をねちねちするわけです。そうして、その復讐のいやらしさが自分でもわかり、その自分のチンケさを認めたくないために、ますますひどく苛立ってくる……。

いまは、すでにそんなムダな嘘を自分につく必要もひまもありません。
「普通の大人になる。書くことは二番目に考える」と、自分に誓ってしまったのも、自分の「書く力」をはっきり確かめたくないから逃げをうったのだとわかっているし、結局のところ、自分にとっていつも「書くこと」が一番大事なことだったのはわかっています。自分の力のなさにおろおろし、絶望しても、「俺はまだ本気出していないだけ」と思いながら自分の本当から目をそらすようなことはもはやないことでしょう。



では、また来週。

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