麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第69回)

2007-05-27 01:14:57 | Weblog
5月27日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。


「生活と意見」は、「トリストラムシャンディの生涯と意見」(またまた、現在、岩波文庫で復刊になっていますね)からいただいたものですが、その「トリストラムシャンディ」に倣って、ここを「創作」のスペースにしてみようか、と思います。ひとつには、私にはこういう形でしか、もう創作をする時間がないだろうと思うからですし、創作という形にすることで、自分も少しいままでとは違う気分になれると思うからです。

 創作と、思いつきの文のどこが違うのかも、いまのところあまり深く考えないようにしようと思っています。「私」は、とりあえず、「語り手」という登場人物です。
 また、創作である以上、この「語り手」という人物には、書く目的が必要ということになりますが、その目的とは、この語り手の「中学3年生の夏のキャンプの夜のおよそ一時間のことを語る」ということにしたいと思います。
 ここでこれから語られることの全てが、いつか語り始められるはずのその場面をより理解しやすくするための準備なのです。――しかし、もちろん、準備だけで終わってしまう可能性もあるでしょうし(たとえば、「私」を登場させている私が、やる気をなくしたり、死んだりして、です)、その場面が語り始められるまでに10年くらいかかるかもしれませんが、とにかく、この文の目的は、その場面を書くことにあるのです。

 なぜ、その場面を書きたいのか、というと、たぶん、その一時間が、私の人生のピークだったからだと思います。私は、高校に入ってから身長が数センチも伸びたような晩熟な人間ではありません。肉体・精神の発達はすべて十五歳で終わっています。以降、脳は曇っていくばかりで、いまやすべてが霧の中といってもいい状態です。その場面を書くことを目的とするのは、何かを書いて自分で読んでみて、霧の粒をひとつひとつ見極め、そうしているうちに、自覚するとなくなる恐怖みたいに、ときどきふっと霧が晴れて、自分をあの夜に連れて行ってくれるのでは、と考えているからだと思います。

 というようなことも、いま書いていて初めて自覚できました。
 書くというのは、ボケ防止にもってこい(「もってこい」なんて会話で使ったことはないですが)ですね。
 ひょっとすると、霧が晴れたときに、いきなり目的の場面のことを語り始めるかもしれません。しかし、話し方はきっと断続的になると思います。

 いや、そんな予想などどうでもいいですね。とにかく、そんなふうに、始めるつもりです。見かけはなにも変わりませんが。

 あらためて、よろしくお願いします。

 今日はじめっとしていますね。
 変な日に始めてしまったものだと思いますが、ベケット風にいえば、「始めてしまったからには、始まったのだ」という感じですね。
 雨が降っていますね。いや、雨が降っていませんね。

 では、また来週。
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生活と意見 (第68回)

2007-05-20 19:05:14 | Weblog
5月20日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。


中公文庫から、トマス・ハーディの「日陰者ジュード」(上・下巻)が出たので、一昨日読み始めました。現在、下巻の真ん中あたりです。

「日陰者」という言葉は、ひょっとするとすでに死語なのではないか、という気もします。原題では「obscure」で、「あいまいな」とか「無名の」とかいう意味のようです。どうも「日陰者」と聞くと、私には犯罪が絡んでくるような印象があって――たぶん、それは多くの言葉と同様、もともとは、幅広い意味を含んでいたのが、徐々に特定の意味とだけ結びついてしまった、ということなのでしょうが――ジュードは犯罪者の息子かなにかなのか、とか、ジャン・バルジャンのように自分で過去に罪を犯したのか、とか、最初にこの作品を知ったときには考えてしまいましたが、そうではないのです。

「日陰者」という言葉は、おそらく、この本の訳者の川本さんという人が、ハーディの著書を多く訳している大沢衛さんという昔の学者に敬意を払って使ったということなのでしょう(たぶん、この方が岩波文庫で「日陰者ジュード」を訳したとき、この言葉を使ったのが最初なんだと思います)。それは、ドストエフスキーの「白痴」を、誰かが新訳したときにも、原題に近い「うすらバカ」などと訳しなおしたりせずに、いまでも使っているのと同じでしょう。
岩波文庫の初版は1955年になっていて、当時としては、「日陰者」はそれでよかったのでしょう。しかし、いまなら、「ジュード。無名の人」とか、内容を盛り込むなら「不幸なジュード」とかのほうが、いいのでは、と思ったりします。

気になって、なんとなく読書を中断して岩波文庫の大沢さんの解説を読んでいると、「主人公は、誰からもあまりかえりみられない(ジュードは孤児です)埋もれ木のような存在である。幼いころからジュードにたえず取っ付いている感じは『自分はこの世に用のない人間なのだ』ということであり……」という一節があり、「なるほど」と思いました。それがおそらく、「obscure」が、英語を母国語とする人々の頭の中に注入する雰囲気なのだと思います(少なくとも出版された当時は)。
また、「埋もれ木」という言葉から私は、拙作「風景をまきとる人」でも引用した、

乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように
この人は主の前に育った

という「イザヤ書」の一節を思い出しました。これは、新約聖書の中で、「旧約で予言されていたことが、イエスによって実現された」ということを証明する、といった形で引用される部分ですが、まさに「日陰者」のイメージであると感じます。これは、「ヨブ記」のヨブにも通じるイメージであり、「ジュード」の中にも「ヨブ記」の引用が出てきますが、こうして見ると、「ジュード」は、ハーディの「福音書」であり、「ヨブ記」といってもいいかもしれません(「コヘレト」の叫びも聞こえます)。

 ハーディといえば、「テス」が有名ですが、私は「テス」は、半分くらいで挫折して、あとは映画で見ました(挫折の一因は、「方言」の翻訳にあります。しかし、そのテーマはまた今度)。たぶん、映画は原作と雰囲気が違うところもあると思いますが、女性の強さと、男のバカさかげんがリアルに描かれているとしか思いませんでした。
「ジュード」は、違います。私が感じるのは、この小説が、うまく加工を施された作者内面の自伝になっているということです。「テス」よりも、ハーディは自分をむき出しにしていて、それは潔く、圧倒的です。大きなテーマは、「幻滅」。つまり、ボードレールの、

ランプの光で見る世界のなんと大きいこと
思い出の目で見る世界のなんと小さいこと

という、男にとっては宿命ともいえる感覚です(正確な引用ではありません)。

 といっても、結末はどうなるのかいまはまだわかりません。
 おそらく、ハッピーエンドではないでしょうね。おそらくではなく、ほぼ。

活字も、訳文もとても読みやすいです。もし、興味を感じた方がいらっしゃったら、読んでみてはいかがでしょうか。

次回は、また短いものを写してみます。

では、また来週。
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生活と意見 (第67回)

2007-05-13 22:52:23 | Weblog
5月13日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

 更新が遅くなって申し訳ありません。

 先週、いつもの古本屋で、「失われた時を求めて」(集英社文庫)が、全13巻7000円で出ていたので買いました。一冊約1000円の定価なので、6000円くらいは安い計算になります。すぐに「コンブレー」を新たに70ページほど読みましたが、やはりおもしろいですね。井上訳とはニュアンスがだいぶ違うのですが、ひと言で言うと、「元気なプルースト」という感じでしょうか。それもまた真実なのだと思います。

 以前も書きましたが、いまの学生たちは、ほんとうにうらやましい。
 すでにプルーストの大作の訳が2種類も文庫で読め、ユリシーズも文庫でいつでも買えるなんて、私の学生時代からすれば文明開化とでも言いたくなるような進化です。ヘミングウェイの信頼できる訳もそうですが。

 光文社文庫から「地下室の手記」の新訳が出ました。いま20ページほど読みましたが、正直、あまりいいとは思えません。

第一に、この作品を訳すのに女性の翻訳者は向いていないと思います。シェイクスピアの翻訳の場合もそうなのですが、男が一人称で荒っぽい言葉でしゃべる、というシーンを訳すと、女の人は男らしい言い回しを使いすぎて、登場人物のリアリティが希薄になる場合があります。もちろん、男が女の語り口を訳す場合も同様の危険があることでしょう。

「地下室の手記」だけは、新潮文庫の江川訳がやはり決定訳のような気がします(今回のものを合わせるとほかに3種類の訳で読んでいます)。

 しかし、プルーストも集英社文庫でそろえたし、あとは、現在ハードカバーで刊行中の「ファーブル昆虫記」が完結して、同じ集英社文庫に収められるのを待つのが人生のかなり大きな楽しみのひとつです。これをそろえて読み終えるくらいまでは、なんとか生きていたいと思います。

 では、また来週。
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生活と意見 (第66回)

2007-05-06 20:25:51 | Weblog
5月6日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

連休は、メシを食う仕事で約半分つぶれて、残りの時間でできたことといえば、短編集の原稿を、校正できる状態までいちおうまとめてみたことくらいです。

その作業の途中で、また昔のノートを読んでいました。と、なかにはおもしろいと感じる文もあって、そういうのは、いちおうワードで打っておこうと思いました。
今日は、その第一弾ということで、大学5年生のころ書いたものを写してみます。「目覚め」というタイトルは、そのときすでにつけていたものです。

では、また来週。
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目覚め

2007-05-06 20:23:05 | 創作
 叫び声をあげて、その自分の声に驚いて目を覚ますのが、僕の最近の習慣だ。誰かと口論する夢ばかり見る。実際の生活では、一日中誰とも会話を交わさずにいることが多いので、おそらくその反動なのだろう。十月のある日の午後、僕はいつものように大声で叫び、目を覚ました。夢の中で、僕は叔母と口論していた。叔母は冷静に僕を批判した。僕は頭に血が上り、自分自身に敬語を使って叔母に反論した。それは、明らかに文法的に誤っていたので、僕は言ったあとでひどく気になった。案の定、叔母は僕の痛いところを突いてきた。「インテリを気取っているくせに、自分に敬語なんか使って」。叔母は僕にそう言った。僕はおろおろした。心の中で僕はつぶやいた。「あんたの知能程度に合わせようとして無理してむずかしい言葉を使わずに話している僕の苦労がわからないのか」。しかし、そんなことを察してくれる叔母ではないことを知っている僕は絶望的な気分になった。「そのうえ僕は、僕という人間が世界にとってまったく無用であるというあんた方の価値観を自分でも持っているからこそ、あんたのバカさかげんを直接的に非難することはやめようと思っているのに」。僕は心の中でまた言った。叔母は僕を軽蔑した表情で、腕を組んで立っている。その表情は美しい。僕は自分がひどく醜いことを思い出した。「僕は醜いのだ。結局は、醜い者は美しい者に勝てない」。僕は心の中で何度もそう繰り返した。が、同時に「違う、違う、違う」という声が頭の中で響いた。「違う、違う、僕はあんたのように子どもを生むために生まれてきたんじゃない。僕はもっと高いこと(と、夢の中の僕は言葉にした)をするために生まれてきたんだ!」。信じられないほど力のこもった、大きな声で僕は叫んだ。目覚めると心臓が機関銃のような速さで血を吐き出していた。次に耳鳴りが頭を貫いた。僕は一瞬、自分がいつもの部屋にいるのを忘れていた。自分が23歳であることも忘れていた。だが、「こんなところで僕はなにをしているんだろう」とつぶやいたときには、それは半分演技になっていた。僕はほこりっぽい汚れたかけ布団を両足で蹴り上げ、上半身を起こした。テレビのほうへ右手を伸ばし、スイッチを押した。昨日と同じような日常的な音が頭に流れ込んでくる。見慣れたタレントの顔が画面に映し出される。外へ出れば、どんな人間をも軽蔑し、世界中に嫌悪を感じるこの僕が、本当のところ、このタレントの顔を見てほっとしている。いまのはただの悪夢で、現実には今日もこの世界にいられるのだと考えて。けれど、それも一瞬のことだ。10秒後には、僕はもう評論家になっている。こいつももうだめだ。とか、下らない、とか。テレビを前にひとり言を言うのだ。そして結局毎日こんなことを繰り返すしかない自分自身を思うとき、僕は悲しくなる。けれども、悲しくなった自分をも僕は「なんてね」と、茶化してしまう。頭がつぶれるような感じがして、口からは動物の鳴き声みたいな笑いがもれる。「考えなければならないことはなにもない」「とくに考えなければならないことなどありはしない」と、自分で自分の気持ちを楽にしてやろうとする。実際何度もそうつぶやいていると、僕の気持ちは軽くなる。人間の心の構造はカンタンだ。少なくとも僕は単純なメカニズムしか持っていない。僕は「あーあ」と言いながら再び横になる。背骨の下のほうで、ボキっと音がする。左腕を壁に沿って伸ばし、手のひらを壁にくっつける。ひんやりした感触が体中に伝わっていく。冷えた手のひらを、閉じたまぶたの上にあてる。すると、尻のほうから震えが起こる。それをわざとがまんせずに受け入れる。歯がガチガチ鳴る。誰も見ていないのに「黄熱病にかかった患者」の芝居をやる。助けを求める表情をしてうなる。最後に目をむいて息絶える。ひとり芝居をした後は必ずひどく恥ずかしくなるから、自分への照れ隠しのために、僕は起き上がってタバコを吸い始める。煙を吐いていると、だんだん自分がいつもの皮肉屋に戻るのがわかる。僕は自分を世界一偉大な人間だと想像し始める。そうして、その想像上の人物(どこが偉大なのか、具体的にはなにもわからないのだが)の視点で「ふん!」と、何に対してではなく憤慨し、世界への軽蔑を表明する。冷笑。冷笑、冷笑、冷笑。と、つぶやく。それがいつの間にか、ショーレイ、ショーレイになり、小学生のころの朝礼の時間を思い出してお腹が痛くなった。
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