麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第471回)

2015-02-21 19:58:53 | Weblog
2月21日

中3の話は、ひと言でいえば、「終わりの感じ」を書きたいということ。まずは幸せな少年時代の終わり。しかし、それは「予感」としてそっと近づいてきているので、表面は逆にすべてがこれまでにないほど幸せに見えている。幸せのピークに。――なんとなく頭に浮かぶのは、小学校の夏休みの空に縦に長く伸びた入道雲です。それは子どものころの私にとって「現実(もっといえば実在という観念)」を象徴する自然の建造物であり、善悪の定義を刻んだモーセの石板であり、「世界には完全に意味がある」という証明書のようなものでした。この雲の下で、私の世界には濃密な「意味」があふれ、それは通学路の日陰のカミキリムシのにおいになったり、運動会の前の晩の教室の生き物のような闇の感じになったり、これまで何千回も(同じ時間に同じ角度から)頬を過ぎていった(のをおぼえているような気がする)台風の前の陸橋の上の風になったりしながら、すべてを笑っていいのだ、すべてを遊びととらえていいのだ、という「完全な肯定」の上で毎日を生きることを可能にしてくれていました。その雲も、中3の時にはすでに子供のころ感じた畏怖を思い出として身にまとう張りぼてのようになっていましたが、まだ私はそれを信じていると自分に嘘をつくことを続けていました。それはまったく自分ひとりの宗教であり、この宗教の「終わりの感じ」もテーマの一つです。――中3の話なのですが、最後に残るのは小学校の夏休みの入道雲のイメージになればいい。マダム・ボヴァリーが馬小屋の壁の黄色いカビの感じを書きたいという欲求から生まれたように、あの入道雲の感じを書きたいというのが実はなにより底にある動機です。――実務的には、中3は、小学以来9年間続いた同じメンバーによる同じ役割の芝居の終わり。当然、その芝居の「終わりの感じ」も大きなテーマでしょう。お互いの過去を知りすぎるほど知っていて、いつからか与えられた役をこなし続けてきた同級生。しかし、比較的晩熟だった人たちの心が変わり始め、役の変更登録をしていくこともめずらしくなくなっている。中3は、そういう時期でもあります。――これは創作メモですが、死ぬまでに本文が一行も書かれない可能性もあるのでここに書いておこうと思いました。もし、なにか感じるところがあったら、読んだ人は自分自身の中3――べつに中3に限らず――について自分の物語を心の中でも、どこにでも書いてください。どんな形でも、誰が書いても結局は同じことだと思うので。もちろん、私は自分のものを書く努力をするつもりですが……。ああ。
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生活と意見 (第470回)

2015-02-15 16:26:51 | Weblog
2月15日

会員証を更新した時にもらったサービス券で映画「ナチュラル」を借りてきて見ましたが、原作とはあまりに違う内容でがっかり。途中で見るのをやめました。まったくの別物です。原作の価値をこれで判断されたら作者はいやでしょうね。よくあることですが。そのせいではないけど、不調です。個人的な環境、心の状態だけでなく「東京の春の寒さ」が始まったような、空気の感じも影響していると思います。
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生活と意見 (第469回)

2015-02-08 20:44:41 | Weblog
2月8日

ひさしぶりに馬場の古本屋に行き、講談社文庫の「東海道中膝栗毛(上・下)」を500円で購入。昭和53年発行の初版。注釈の入れ方がうまくて(人によってはうるさいかもしれませんが)、これなら原文を読んでいるのと同じ感覚で読める。すごくいいつくりの本だと思います。また、今日は近所の古本屋で中勘助の「母の死」(角川文庫)を買いました。どちらもほかでは見かけたことのない本で、いい買い物をしたと思っています。馬場は、行くたびに古本屋が減っていてさびしいかぎり。あまり学校に行かなかった大学1~2年生ごろは、この古本屋街と喫茶店が私にとって学校だったようなものなので。とくに今回は文英堂のシャッターが閉まっていたのが気になりました。大学が休みだから休業なのだと思いますが、そうじゃなかったらどうしよう。また近々行って確かめたいと思います。
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生活と意見 (第468回)

2015-02-01 14:22:41 | Weblog
2月1日

マラマッドの「ナチュラル」読了。ちょうど一週間前に神保町の古本屋で見つけて500円で購入した角川文庫版。かなり前、三省堂古書館で同書を見かけたことはあったのですが、それは初版本か何かで、昔の角川文庫特有の老化――紙の黄ばみ(というか黒ずみ)がいき過ぎて字と地の区別がつかない。皮膚がかさかさになり加齢臭が漂う――がひどかったので買いませんでした。手に入れたのは84年の映画化に合わせて再版されたもので、主演のロバート・レッドフォードの写真がカバーになっています(帯付き)。紙もよくなってきたころで黄ばみもほとんどなし。――細かい内容については、いまは書きたくありません。まだ物語の雰囲気から抜け出せないこの感じを保っていたいので。とにかく、すばらしい。揺さぶられました。テーマはすごくシンプルだと思います。また、純粋な読者としてだけでなく、いちおうお話を作ることを人生の唯一の目的としている者としては、読書中、「風景をまきとる人」を書いていた時のことを思い出していました。「卑語俗語をぶちこみたい」「自分の低劣さ、下劣さを残らずさらしておきたい」「オリジナルのギャグをぶちこみたい」など、自分としては高い志を立ててはげんでいたあのころを。1万分の一しか才能のない私がいうのもおこがましいですが、後続の「魔法の樽」の内容を考えると、マラマッドもそんなことを考えながらこの作品を書いたのでは、となんとなく感じました。「“こういうこと”はこの一作ですべて済ましておこう」という感じ。もちろん、見当はずれかもしれません。でも、加島祥造さんが「マラマッド短編集」の解説で書いている「(「ナチュラル」では)まだ自分にとって中心的課題となるものが見いだせず」は、まったく間違いだと思います。なぜならこの作品も基本的には「天使レヴィン」と何も変わらないものだから。作者の書きたいことはすでに明らかです。迷いはありません。もうひとつ感じたのは、この暗い結末を選んだのは、現実では作者の人生に明るい希望があったからではないか、ということ。まったく別の結末も用意されていたはずですが、こちらをとったのはそうするだけの余裕があったからではないか。重ねて卑近で申し訳ありませんが、「風景~」の結末を明るいほうにしようと決めたのは(もちろん別のものも用意がありました)、私になんの希望もなく、この先もなにもないのがわかっていたからです。自分で自分を少し明るい気持ちにしないとつぶれそうだったので。――まあ「マッチ売りのおやじ」というところですね(気持ち悪いけど)。いまも毎日すっています。もはやマッチもなくなりそうですが。
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