麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第60回)

2007-03-25 22:21:56 | Weblog
3月25日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

前にここでも書いたことのある近所の古本屋で、プルーストの「ジャン・サントゥイユ」の3巻目(プルースト全集)が、なんと800円で出ていたので、買って来ました。
新刊本だと4000円以上するので、長いこと、買おうかどうしようか迷っていました。
かなりうれしい買い物です。これで、書簡以外のプルーストの著作は、手元にあることになりました。(母親との書簡選はいちおう持っていますが)

そういえば、以前中途半端にプルーストのことを書いた時、「むずかしいことを書くのはよくない」というような前置きをしながら、自分も額縁小説の話などを始めて、わけのわからないところへ進んで失敗しました。
 
 今日、自分で「ジャン・サントゥイユ」を買ったことと、先日、集英社文庫で、「失われた時を求めて」全13巻が完結したことにひっかけて、少しだけ、プルーストを読んでみることを薦める文章を書きたいと思います。

 プルーストは、どこかでこんなことを言っています。
「読者は、作品の中にいつもただ自分自身を読み取るのだ」
と。
「失われた時を求めて」は、100年近く前の、おもにフランスの、ブルジョアや貴族階級の生活を描いたもので、現代の日本の、私のような「下流」には、なんの接点もないような世界を舞台にした物語です。
 私はこの物語を読んで、その生活様式や社会背景を完全に理解したとはとてもいえません。しかし、だからといって、私はこの本を「理解できなかった」わけではありません。この本を読むことが、忘れていた自分の(とくに少年時代の)考えや感情、世界の雰囲気をいくつもいくつも思い出させてくれました。プルーストの言葉を借りれば、私は、この本の中に、過去の、たくさんの経験=私自身を読み取り、読書を通じてもう一度私自身を生きたのです。

 ――なぜ、こんなことが可能なのでしょうか。
うまく表現できるかどうかわかりませんが、それは、書かれているエピソードの背景が違っても、そこで起きたある事件が、どういう角度でそのときそれを経験した人物の胸をえぐったかという、その「角度」が、おそらく国や時代や階級に関係なく人に伝わっていく人間共通の言語だからだと思います。
 その角度が、正確に描かれていれば、私は私の心の中で同じ角度で胸をえぐられた出来事を想起し、そのエピソードを理解すると同時に、その角度について、まるでいま新しくつけられた傷口のように、新鮮な目線を向けることができるのです。
 本当の芸術家は、肉親の死を描いて感受性の摩滅した人間を「カンドー」させる人や、生きる勇気が初めから満々の人に「生きる勇気をもらいました」と言わせる人ではなく、読者が忘れてしまっている、胸のえぐられ方の角度を、印象として保存し、観察したあとで、正確な言葉で角度を再現して見せ、「失われた時」を現在によみがえらせることのできる人です(もちろん、それはプルーストに限りません)。――

それは、また、私がなぜいまの私になったのか、その原因となった無数の出来事にもう一度出会うことでもありました。そうして、私は、少なくとも、男には、「人生をリセットする」ことなど不可能である(女にはそれが可能ですが)という事実を再確認しました。男は、汚物のように自分を引きずりながら生きるしかないと。

「読者は、作品の中にいつもただ自分自身を読み取るのだ」
私は、読書に、それ以上の意味があるとは思いません。
また、この文の「作品」を「世界」に変えれば、
「人は、世界の中にただ自分自身を読み取るのだ」
となります。
 私は世界にも、それ以上の意味があるとは思いません。

 では、また来週。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

生活と意見 (第59回)

2007-03-18 18:50:01 | Weblog
3月18日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

先週、吉行淳之介のことを書いて、何日かあと、吉行訳「好色五人女」が、河出文庫で出たのを知りました。すでに中公文庫になっているものも持っているし、ハードカバーのものも持っていますが、たぶん、今回も買ってしまうと思います。

河出文庫の古典の現代語訳は、以前、「国民の文学」シリーズで出たものと、「古典文庫」シリーズで出たものの(いや、ほぼ「古典文庫」のほうですね、たぶん)文庫化で、活字が大きいのが特徴です。

私は、3年前、「風景をまきとる人」を書き終わってハイになっているころ、ふだんあまり読まない方向の読書を集中的にしたことがあります。たぶん、本能的に自分をクールダウンできるような本を選んでいたと思います。まず、シャーロックホームズをすべて読み直し(そういえば、何回か前に触れた阿部知二さんは、創元文庫のホームズシリーズの訳者としていちばん知られているはずですよね)、続いて、河出文庫の「南総里見八犬伝」の現代語訳を読みました(こちらは初めて読みました)。真夏に、食うための仕事をまったくしていなかったので、クーラーもつけず、一日中読み続けていました。

勧善懲悪。簡単に言えば、それだけのテーマなのですが、とても痛快でおもしろく、3~4日で読み終えました。
明らかに、水滸伝や三国志演義の影響を受けていて、また誰でも気づくように、スケールとしては、それらに比べ小さいのですが、私は、八犬伝のほうが、やはり日本人なので、よいと思いました。
水滸伝は、逐語訳のものを約半分まで読んで挫折、三国志演義は抄訳でしか読んでいません。両方とも何種類かの翻訳で挑戦してみたのですが、途中でいやになったのは、水滸伝も、三国志演義も、読んでいると、いったいだれが義者なのか、裏切り者なのかがわからなくなってくるからなのです。結局のところ、「勝てば官軍」という、ご都合主義がこの両書には見られ、けっこうひどい裏切り者同士がくっついて、つぎに出てくるときは平気で民衆の怒りの代表みたいな顔をしているのです。
それが、逆にいえば、大陸的スケールを生み出しているのだとも言えるでしょう。しかし、私は日本人なので、こういう読み物を読むときには「いい者」と「悪い者」をはっきりさせておいてもらい、いい者は死んでも義を貫いて、悪い者は一度繁栄しても、やがては地獄に落ちる、というふうにしてもらわないと、興味を持続させることができないのです。
おそらく、作者の創作意図の第一も、「英雄伝だが、一本義の通った物語を書く」というところにあったのではないでしょうか。まあ、極端に言えば、修正版水滸伝を書いてやる、みたいな。
ご存知のように、この物語の作者、滝沢馬琴は、芥川龍之介の「戯作三昧」の主人公であり、「八犬伝」を読んでいるあいだも、戯作三昧のシーンがちらちら頭に浮かんできました。銭湯でのシーン、孫に観音様のメッセージを告げられるシーン、そうして、戯作三昧の最後で、馬琴がだんだんノってきて、八犬伝の世界に没入しているころ、妻と母親が、「たいしてお金にならないのにねえ」と別室でなげいているわびしい情景……。

 そういう意味では、八犬伝も、ドン・キホーテ的な書物ということになるのかもしれません。しかし、作者は自分の主人公を突き放して見てはおらず、ユーモアがあまり感じられないのは、この本が「読み物」で終わっている理由だと思います。

 でも、おもしろいです。もし、まだの方がいらっしゃったら、読んでみてはいかがでしょうか。

 では、また来週。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

生活と意見 (第58回)

2007-03-11 19:04:18 | Weblog
3月11日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

更新がおそくなりました。
申し訳ありません。

「サライ」が、吉行淳之介特集を組んでいたので30分くらい立ち読みをしていました。

作品全般を好きというわけではありませんが、私が学生のころ角川文庫で出た「子どもの領分」と「菓子祭」は、すごく好きでした。つい先日、「街の底で」を読んだら、これもおもしろかったです。

ただ、これは仕方ないのでしょうが、バーとかでの会話のシーンなどは、なにか、こう、私が子どものころにテレビドラマや昔の映画で垣間見たような大人の世界の「その当時はそれがかっこよかったのかもしれないが……」という言い回しが多くて、なかなか入っていけないこともあります。とくに、女性が男性に敬語を使うのが普通で、男のほうも、それを当たり前と受け止めている、といった当時の雰囲気が、私には単純に「あほらしい」ように感じられてたまりません。もちろん、いまも、金持ちの階級では、そういうことが当たり前なのでしょうが、少なくとも私の所属する階級では、死に絶えてひさしい情景のように思います。
女という強者の味方をする気はさらさらありませんが、そういう部分では、上野なんとかさんや富岡多恵子さんに「男流文学」とののしられても仕方ないかな、という気もします。

しかし、吉行淳之介はハンサムですね。

ハンサムで、頭がいいんだろうな、と思います。

そうして、そういう人はおおかたそうですが、そのことをとてもよく自分で知っている、もっといえば、その特長の生かした方をよく心得ている、と思います。
吉行淳之介は、「世の中(人生だったかな?)が、仕立てた背広みたいに自分にぴったり合っている人に文学は必要ない」というようなことを言っています。
それは、もちろん、そうでしょう。

そうして、彼の作品の登場人物は、世の中にぴったり合わない人たちが描かれることになるのですが、しかし、私には、その人物たちが、それほど大きく世の中からはみ出している人とは思えないのです。つまり、昭和30年代に東京大学のクラスの中で、「あいつはちょっと変わってる」といわれる程度のはみ出し方。しかも、そのはみ出した主人公は、どうやらハンサムであるらしく、女には自然にモテるし、だから受け入れられずに苦悩したりすることもないのです。
 吉行文学では、極端に言えば、ブサイクだし東京大学出身でもない人間は、切り捨てられています。マルメラードフのような人間が描かれることはまったくないのです。彼らは、ブサイクで東京大学ではない以上、その悩みも単純で動物的なものであるにちがいなく、繊細さのかけらもないのだから、わざわざ文学という高等芸術に描くまでもないということなのでしょう。
 
 彼のような人は、実業で成功する代わりに、その資質から別の道で成功者になったというだけのきわめて優秀な人間であり、背広を裏返しに着るという一見ふざけた着方をしているが、実は、その背広はぴったりと体にフィットしており、自分でもそのことをよく知っている、という人物なのではないでしょうか。

 それは、とても巧妙な知恵者の人生だと思います。そうして、現代作家には、このような巧みな人が多いような感じがしてなりません。そうして読者のほうも、批評眼を持った、ハンサムか美人で東京大学の人(これは比ゆです)ばかりのような気がします。
 (「東京大学」が比ゆである証拠をあげると、たとえば、私にとっては、色川武大は、現実には東京大学を出ていないが、東京大学の作家であり、庄司薫は、現実には東京大学の出身者ですが、東京大学の作家ではない、ということになります)

 もちろん、私が描きたいのは、マルメラードフであり、スヴィドリガイロフであり、読んでもらいたいのは、自分が生まれてきたことにあまり意味を感じられない高校中退者(これは比ゆです)の人たちです。

では、また来週。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

生活と意見 (第57回)

2007-03-03 23:02:21 | Weblog
3月3日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

風邪のぶり返しがきて、熱が出ております。

自分の頭でいまなにかを考えるのは無理なので、ノートから拾おうと思ってみていたら、仏典からの引用をしているのが目に付きました。
たぶん、自分を戒めようと、書いたのでしょう。

いままた、ここに書き写し、自分で繰り返し読んでみたいと思います。



〇寒すぎる、暑すぎる、あるいは遅すぎると、このように言って、青年がなすべき務めを放棄したとき、機会は過ぎ去ってしまった。

〇人は、独りおれば梵天のように、二人おれば神々のように、三人おれば村のように(身を処す)。それ以上ならば喧騒があるだけである。

〇ああ、厭うべきものだ。不浄物で満ち、悪臭を放ち、魔王の所有物であり、汚水が漏出する(そなたの体は)。そなたの身体には九つの穴があり、そこから汁がつねに流れ出る。

〇いまだかつて死人を出したことのない家から芥子のつぶをもらってきなさい……

〇なんとしても私は行きます。何故かというと、大空を行く月に仲間はいないではありませんか。


き、きびしいですね。やっぱり。
でも、心の中に、いつもこれらの言葉が響いているのもたしかなこと。
そのままは実践できなくても、なるべくそこに近づけるよう、残りの時間をやってみたい、と思います。

では、また来週。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする