麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第429回)

2014-04-27 16:42:46 | Weblog
4月27日

鷗外の、「大発見」「魔睡」「鶏」「金貨」を読みました。「半日」を読んで、鷗外に対する印象が変わり、新たな興味を感じていることが原因ですが、どこまで読めるやら。岩波の鷗外近代小説集は生活のために売ってしまったので、以前から持っているちくま文庫の鷗外全集で読んでいます。
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生活と意見 (第428回)

2014-04-20 19:01:37 | Weblog
4月20日

風邪をひいて、ほとんどなにも読めませんでした。

「風景をまきとる人」の改訂版をコボに入れているのですが、ひさしぶりに読んで、頭の二十枚くらいまでは読みやすくていいな、と自分で思いました。この書き出しが出てきたとき、ようやく物語を進められそうな気がして、なんだか興奮したのを覚えています。テレビドラマのタイトルという、すぐに古びてしまう卑近な話題から入るのも、いかにも自分の作品にふさわしいと感じ、目標とする底辺的作家としての自負を感じました。若かったですね。…いま、この文章の続きを書いてみましたが、体力がなく、うまく書けないので終わります。
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生活と意見 (第427回)

2014-04-13 19:47:08 | Weblog
4月13日

ショーペンハウアーの「生活の知恵のためのアフォリズム」を読んでいると、いろいろな作家や哲学者のことを思い出します。まず、その全編の雰囲気から思い出されるのは、弟子といっていいニーチェ。一度は心酔したに違いない師のすべてを否定する方向で書かれたのが「ツァラトゥストラ」。その主人公・ツァラトゥストラからすれば、ショーペンハウアーの口調は、人々にどうやったらぐっすり眠れるかを説いている怠惰な教師に似ています。しかし、ニーチェが師匠以上のものになれたのかどうかは疑問です。

また、次の一節は、セリーヌの「なしくずしの死(クレジットされた死)」を思い出させます。「十九歳のとき、彼が三十歳になったらうまくやれることをやってのけたとする。そのときでも、とにかく時は前払いしてくれる。ところが彼の将来の年月の力の一部ばかりか、彼の生命の一部が利息にされているのだ。」

次の一節はサルトルの思想の要約のようにも読めます。「すべての事物は“見れば”すばらしいが、それが存在することはおそろしい。」

また、「失われた時~」の、ルグランダンのあの胸にしみるひと言とほとんど同じ言葉もありました。「危険な事物の結末がまだはっきりしていないかぎり、さらにその結末が幸福となる可能性が存在するかぎり、ためらい悩むことなく、ひたすら抵抗することを考えるべきだ。それは、ちょうど、空に青い場所が少しでも残っているかぎり、絶望してはならないのと同じ事情である。」

ここでまた、ルグランダンの言葉をあわせて読みたいと思います。

「森はすでに黒く、空はまだ青い…

空がいつまでもあなたにとって青くあってほしいですね、坊ちゃん、そうすれば、いま私にせまっているこの時間、森はすでに黒く、夜がすみやかに落ちてこようとするこの時間になっても、私がやっているように、あなたは空のほうをながめながら、心をなぐさめることでしょう。」(井上究一郎訳)
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生活と意見 (第426回)

2014-04-06 20:27:17 | Weblog
4月6日

なんとなく鷗外の「半日」を読みました。とてもおもしろかったです。また、通勤電車では一週間、ショーペンハウアーのエッセイを読んでいました。胸に染みました。
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