4月13日
ショーペンハウアーの「生活の知恵のためのアフォリズム」を読んでいると、いろいろな作家や哲学者のことを思い出します。まず、その全編の雰囲気から思い出されるのは、弟子といっていいニーチェ。一度は心酔したに違いない師のすべてを否定する方向で書かれたのが「ツァラトゥストラ」。その主人公・ツァラトゥストラからすれば、ショーペンハウアーの口調は、人々にどうやったらぐっすり眠れるかを説いている怠惰な教師に似ています。しかし、ニーチェが師匠以上のものになれたのかどうかは疑問です。
また、次の一節は、セリーヌの「なしくずしの死(クレジットされた死)」を思い出させます。「十九歳のとき、彼が三十歳になったらうまくやれることをやってのけたとする。そのときでも、とにかく時は前払いしてくれる。ところが彼の将来の年月の力の一部ばかりか、彼の生命の一部が利息にされているのだ。」
次の一節はサルトルの思想の要約のようにも読めます。「すべての事物は“見れば”すばらしいが、それが存在することはおそろしい。」
また、「失われた時~」の、ルグランダンのあの胸にしみるひと言とほとんど同じ言葉もありました。「危険な事物の結末がまだはっきりしていないかぎり、さらにその結末が幸福となる可能性が存在するかぎり、ためらい悩むことなく、ひたすら抵抗することを考えるべきだ。それは、ちょうど、空に青い場所が少しでも残っているかぎり、絶望してはならないのと同じ事情である。」
ここでまた、ルグランダンの言葉をあわせて読みたいと思います。
「森はすでに黒く、空はまだ青い…
空がいつまでもあなたにとって青くあってほしいですね、坊ちゃん、そうすれば、いま私にせまっているこの時間、森はすでに黒く、夜がすみやかに落ちてこようとするこの時間になっても、私がやっているように、あなたは空のほうをながめながら、心をなぐさめることでしょう。」(井上究一郎訳)