麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第39回)

2006-10-29 03:03:28 | Weblog
10月29日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。


まだ、風邪が残っているようで、人と話をするのが、のどにとって重労働です。

「友だち」の続きを書きたいのですが、心のチューニングがまったく作品の世界に合いません。でたらめに概念だけで書くことは可能でしょうが、あとで二度と読みたくないものになることは間違いないので、ここはチューニングできるようになるのを待つしかないという感じです。プロの偉い作家の人たちは、きっと、才能もあるし、またチューニングに必要な「何もしない時間」を持つことに不自由はしないでしょうが、才能のない、1週間の大半を労働時間に割り当てなければならないただの自称作家には、作品を書き続けるという意欲を持続するだけで、精一杯なのです。

来週は、古いものか新しいものかわかりませんが、なにか載せるつもりです。

立ち寄ってみてください。

では、また来週。
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生活と意見 (第38回)

2006-10-22 16:04:55 | Weblog
10月22日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

更新が遅くなってすみません。

風邪をひいて、昨日と今日寝込んでいます。

新しいものは、何も書けませんが、やはり22~23歳のころに書いた「世界がその本質を露呈する瞬間の物語集」というのがノートにあり、その中の2点は、一応最後まで書いているので、そのひとつ「酒宴」を書き写して読んでいただこうと思います。これは、前に読んでいただいた掌編「酒宴」と同じ材料を扱っているのですが、書き方が違う、つまり別バージョンといったところでしょうか。たぶん、掌編を先に書き、あまりに短いので、解説めいたことも加えてもう少し延ばそうとしたのだと思います。とともに、どこか「パリの憂鬱」の影響もあって、思索と物語を混ぜ合わせてみたいというようなことを考えていたんだと思います。

それともうひとつ、「マチ」という詩のようなものをノートから写しました。
これは、とてもはっきり憶えていますが、予備校時代に、広島の路上で、突然、陰毛がわさわさとアスファルトから生えて伸びていく幻を見たときに作ったものです。まるで世界が陰毛の原始林のように見えました。――というと狂人のようですが、子どものころから20代の前半くらいまでは、私はこんな幻を白昼見ることも多かったのです。

のどが痛いです。
皆さんも風邪に気をつけてください。

では、また来週。
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酒宴

2006-10-22 16:03:10 | 創作
 人間の悲惨さは、彼が自分の悲惨さを、子どもが風船につけられたヒモを握りしめるのと同じように、しっかりつかんで放さないことにある。人間は悲惨さを愛している。なぜなら悲惨さにこそリアリティがあるからである。悲惨さに身を投じることで、彼はリアリティを得ようとする。悲惨にがんじがらめにされることで、彼は「不自由」という快楽を手に入れるのだ。「自由」ほど彼らをおびえさせるものはない。なぜなら「自由」には、リアリティがないからである。リアリティのないものを彼は恐怖する。彼らの言葉で言えば、「自由」は現実ではないからである。しかし、宇宙の知る唯一の現実とは「自由」であり、宇宙にはリアリティなど存在しない。リアリティのないことが宇宙のリアリティであり、人間の言うリアリティは幻にすぎない。――私はそんなことを考えながら、夜中の2時に部屋を出て、街灯の中に紫色の霧が浮かぶ都市を歩き始めた。ゆるやかな坂道をのぼり、向こうに高層ビルの照明が見える交差点まで来た。私は月を見たいと思ったが、今夜は彼は非番であるらしかった。あるいは私自身が彼だったのかもしれない。というのも、その夜、私にはふだん聞きなれない、さまざまなものたちの話し声が聞こえたからである。闇は獣のように生き生きしていた。広い道路をはさんで、ビルがビルにささやきかけていた。「こんなマネをいつまで続けるのだろうか」と。私は彼らに「もういいよ」と言った。すると彼らは一瞬のうちに薄いベニヤ板に戻り、後ろへ倒れた。つぎに「夜」のひとり言が聞こえた。「昼は不潔だ」。彼はそう言ったようだった。「そのとおりだ」と私は言った。私たちの共感を祝して、彼は自分の体をうす紫色に透き通らせた。「よけいなことを言うのは誰か」と、ふいに大きな声が響いた。「いまは、酒盛りの最中だ。卑小な人間のくせに、風景を許すのは誰か。じゃまをするな」。私は悲しくなってこう言った。「どうして俺を仲間はずれにするのか。俺は人間の仲間ではないのに」。大きな声の主は笑った。「たしかにお前は人間の仲間ではない。が、われわれの仲間でもない。お前も酒のサカナにすぎない」。私は再び悲惨さのリアリティにとりかこまれた。「夜」は急に、不幸に陥った友人を無視するように、私を見捨てた。ビルは知らん顔をして建っていた。一分のスキもなくリアリティを取り戻した風景は、もう私とは無関係なものとなっていた。私は霧の中をつまずきながら、悲惨さのほうへ戻っていった。
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マチ

2006-10-22 16:01:36 | Weblog

男はコートで性器をかくしている

町には
にせものの陰毛が あふれている

なぜ にせものか?
昼間の マチだから

にせものの陰毛を
少しずつ むしりとっては
生活というものが 成り立っている

良い日だ
いつも
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生活と意見 (第37回)

2006-10-15 00:56:08 | Weblog
10月15日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

 みすず書房の「大人の本棚」シリーズで、ボードレールの「パリの憂鬱」の新訳が発売されたので、買って読みました。いまのところ、もっとも読みやすく、いい訳だと思います。そのことで、にわかに「悪の華」が読みたくなり、阿部良雄さんの訳文は私にはむずかしいので、安藤元雄訳を読もうと、古本屋の店頭のような私の部屋の本棚を探していたら、存在すら忘れていた「アラビアンナイト名詩選」という本が出てきました。

 アラビアンナイト、つまり千一夜物語は、マルドリュス版の佐藤正彰訳とバートン版の大場正史(名前が違うかも?)訳が有名ですよね。両方とも、現在はちくま文庫に入っています。大場訳は、読んだことがないのですが、佐藤正彰訳のマルドリュス版は読みました。(ご存知のように、別にふたつのものに大きな違いがあるわけではありません。マルドリュス版は、フランスのマルドリュスさんがアラビア語からフランス語に訳したのを、佐藤さんが重訳したもの、バートン版はイギリスのバートンさんが、アラビア語から英語に翻訳したのを大場さんが重訳したものです。大場さんのは、注釈が詳しいというので有名です)

 こういう長いものを読むきっかけとなったのは、やっぱりプルーストで、3年かかってプルーストを読み終えたとき、なにか「長編を読む勢い」のようなものがまだ残っていて、アラビアンナイトを読み始めました(結局その勢いは、旧約聖書を通読する、というところまで続きました)。全10巻のうち5巻くらいまではあっというまに読めましたが、そこからにわかに興味を失い、何年かほっといたあと、再びにわかに興味がわいて読み始め、読了しました(もっと若いとき、聊斎志異をそんな感じで読みました)。

 さてしかし、このとき、佐藤さんの訳文は、物語部分はとても簡潔で読みやすいのですが、けっこうたくさんある「詩」の部分は、どうもむずかしくて、あまりいいとは思えませんでした。「本当はもっと平明な詩なのではないか」という感じがしました。そう思った根拠が、このたび、ひさしぶりに目にとまった「アラビアンナイト名詩選」です。この本は、学生時代に高田馬場の古本屋で、50円で買ったもの。全13巻の最後の巻で、12巻中に出てきた詩の中からいいものを集めた、いわば付録のような本です(なんと、12巻までの本文の翻訳者は、大宅壮一さんです)。当時、アラビアンナイトを通読しようなどとは夢にも思っていなかった私がなぜ、この本を買ったかというと、それは、もう、収録してある詩そのものがおもしろかったからです。とくに、私が好きなのは「男色」の詩で、今回はそれを書き写したくて、この前フリを書いたといってもいいでしょう。



男のいちもつなめらかで
丸く作られ、ぴったりと
お尻の穴に合っている。
いちじくのため作られてたら
手おののかたちであったろう



おれはぞっこんおまえに参る
おれがおまえを選りぬいたのも
月のものなどありゃせぬし、
卵の巣などもないからさ。
もしも女とまじわるならば
がきをこしらえ、そいつのために
広い世界も狭くなり
おいらはやりきれないからさ



見どころのない
男だが
月の障(さわ)りも
妊娠の
うれいもないのが
何よりさ。


 すばらしい。平明で、リズムを持っています。これがアラビアンナイト本来の詩の姿のはず。それにしては佐藤さんの訳は、重すぎる、と思いました。それからは、いつか詩も本文も両方気に入るものをもう一度通読したい、と思うようになりました。
 それは意外とすぐに見つかりました。平凡社の東洋文庫の前嶋信次訳アラビアンナイトです。全17巻(?)、しかし前嶋さんが亡くなったので、たしか15巻あたりからは、別の人が訳しています。とにかくすごいのは、これはアラビア語からの直訳であることです。また、もうひとつすごいのは、やはり、その訳文の平明さです。ところが、この本には大きな欠点があって、それは、1冊が2500円かもっとすることです。全巻そろえてから読もうと思っているのですが、古本屋で少しずつ買いそろえて、いまようやく9巻というありさまです。
 読み終わるのはいったいいつになることやら。

 もし、まだアラビアンナイトを読まれていない方には、さまざまな点(定価とかも)で佐藤訳が一番いいと思います。秋の夜長、一巻でもいいから読んでみてはいかがでしょうか。


 では、また来週。
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生活と意見 (第36回)

2006-10-09 01:21:12 | Weblog
10月9日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

更新が遅くなって申し訳ありません。

なんとか、「友だち」の続きを書こうとやってみたのですが、どうしてもできませんでした。

すみません。


昔のノートを見ていたら、22歳ころの、詩というか歌詞というかが出てきました。
あまりいいとも思えませんが、書こうとしていることは、いまの自分にとってもとても大事なことなので、書き写してみようと思います。

タイトルは「ぼくは三角形になりたい」です。


では、また来週。
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ぼくは三角形になりたい

2006-10-09 01:17:39 | Weblog

気がかりなことたちは
ドアの外へ押しやり
訪ねてくることのない者たちへ
「不在(いない)」と言ってやり
なつかしい空気を吸うのはやめて
「今」に宙吊りになる

記憶に残らなかった
なんの事件もなかった時間を
ぼくは思い出す

だらしなくのびきった空

ガラスのエレベーターで
夢の中へ落ちて
ぼくは三角形にこわれたい

落ちることの
満ち足りた快感に
ついてこれない男は
「もう穴に帰ります」
と言って 墜落をやめ
男をやめた

にせものの男は
孤独から逃れようとして
孤独もやめてしまう

やめてしまうのは
かんたんなことだ
「もうやめた」
と 他人に言えばいい
女はいつでも待っている
おじけづいた男たちを

おじけづいた男たちは
少しばかりスリルがほしくなって
少しばかり幸せがほしくなって
もっともすばらしいスリルと
もっともすばらしい幸せを手に入れることを
あきらめた

うしろへ戻ってゆく男たちは
サルに似て
やさしくない

日曜日 ぼくはひとりでいて
月曜日 ぼくは道に出る

空はだらしなくのびきって……

ぼくは見えないエレベーターに乗る

いやな「自然」を放り出して
ぼくは三角形になりたい
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生活と意見 (第35回)

2006-10-01 18:52:50 | Weblog
10月1日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

12月11日(月曜日)からの、展覧会のタイトルは、「世界のしくみ」に決まりました。
私がいくつか考えて、宮島氏がセレクト、最終的に、これでいこうと2人で合意しました。

世界のしくみ

いったいどういう意味で、どういう内容なのか。それは、現場でのおたのしみ、です。

また、ギャラリーバー「26日の月」での宮島氏の写真展は、「架空のグラデーション」という氏の命名によるタイトルで11月16日から2週間行われます。こちらもよろしくお願いします。



昨日も、「世界のしくみ」の打ち合わせで動いていて、「友だち」の続きに手がつきませんでした。すみません。

天候のせいか、今日は気分が落ち込んでいます。

癒し、などというけれど、なぜ癒しが必要かというと、ふだんの生活が、癒しの気分とは対極の雰囲気の中で営まれているからですよね。ならば、わざわざ癒しなど必要としないですむ職場や社会に、現実に変えていけばいいですよね。でも、そうならないのは、いやな奴がいるから、ですよね。しかし、癒されたいと思っている人も、他人に対して「世の中は甘くないんだよ」とばかり、ふだんは意地悪もするわけですよね。つまり、みんながいやな奴なわけですよね。そんなことはやめて、みんなで「甘い世の中」を作ればいいんじゃないですかね。と、私は思うのですが。

まあ、それも、結局自分に「おまえは生きていてもいいよ。意味があるよ」とおとぎ話を聞かせるためには、まず「自分」をはっきりさせる必要があり、そのためには、誰かを見て「私はあいつ(ほどバカ、ほど最低)ではない」「私たちはあいつらではない」と、否定形で確認するほうが、「私は○○である」と肯定文で自分を確認するよりはるかに楽ですからね。
だから区別があったほうが楽なんでしょうね。敵と味方という感じで。ところが、実際はみんながいやな奴なので、心の底からは信じきれないでまた癒しが必要になる……。

馬鹿馬鹿しいですね。心の底から。ほんとうにこんな世界に子どもを残さなくてよかったなあ、とつくづく思います。

では、また来週。
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