7月26日
立ち寄ってくださって、ありがとうございます。
朝飯の買い物に出かけたときにすでに、髪が焦げ臭いように感じました。
フライパン上の食材のように扱われる時期がまたきましたね。
☆
いつもの古本屋に「明治の文学」シリーズ(筑摩書房)が出ていたので、啄木の巻を買ってきました。
すべて散文の一冊。「ローマ字日記」にあたる「日記Ⅰ」をひさしぶりに読みました。まるでヘンリー・ミラーの「北回帰線」のような部分もあり、かのドナルド・キーン先生がこの日記を現代文学の傑作と呼んだのも無理ないことと再び思いました。
周りにとっては大変やっかいな人だと思いますが、それでも皆が彼の歌を認めて、好意を寄せたり反発したりせずにはいられなかった感じがよくわかります。
同時代の青年からすれば、啄木の歌は、まず、「これは、俺がいつでも感じていることじゃないか」と思えたはず。それは、一方では「よくぞ言ってくれた」という賞賛になる。が、またもう一方では「こんなもん、作ろうと思えば俺にもできるよ」という軽蔑感にもなる。とくにその歌が話題になればなるほど、しっと心からその否定的な気持ちは強くなり、「啄木の歌なんて、大家の作品にくらべたら、ほとんど歌とはいえない戯言だ。後世になど残るわけがない」と言い始める。もちろん、彼らは陰で、啄木と同様に作歌を試みている。だが、簡単なはずのその歌を彼らはひとつも作ることができない。なぜできないのかもわからない。それがさらに反発心をあおる。
自分の心の状態を一瞬にして表現する。それは、つねに自分を揶揄している人間にだけできること。それが啄木の天才であり、たぶん、もっとも悲しいところなのだと思います。日記がこれほど心に響くのも同じ理由だと思います。
プルーストが、新しい芸術が登場するときのことを「失われた~」のどこかに書いています。文脈では覚えていませんが、それは、以下のようなこと。
新しい芸術が登場したときには、それをまだ誰も見たこと(聴いたこと)がないので、私たちはそれを「とても風変わりだ」とか「個性的だ」としか呼ぶことができない(つまり、使い慣れた文法では批評ができない)。しかし、やがてそれが後世に残り、それ以前の作品と同じ距離を持ってながめられるようになったとき、私たちは気づく。あのころ、「風変わり」だと思われたものこそ新しい創造そのものだったのであり、古典的とは見えなかったところこそ実は古典たる条件だったのだと。
☆
では、また来週。
立ち寄ってくださって、ありがとうございます。
朝飯の買い物に出かけたときにすでに、髪が焦げ臭いように感じました。
フライパン上の食材のように扱われる時期がまたきましたね。
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いつもの古本屋に「明治の文学」シリーズ(筑摩書房)が出ていたので、啄木の巻を買ってきました。
すべて散文の一冊。「ローマ字日記」にあたる「日記Ⅰ」をひさしぶりに読みました。まるでヘンリー・ミラーの「北回帰線」のような部分もあり、かのドナルド・キーン先生がこの日記を現代文学の傑作と呼んだのも無理ないことと再び思いました。
周りにとっては大変やっかいな人だと思いますが、それでも皆が彼の歌を認めて、好意を寄せたり反発したりせずにはいられなかった感じがよくわかります。
同時代の青年からすれば、啄木の歌は、まず、「これは、俺がいつでも感じていることじゃないか」と思えたはず。それは、一方では「よくぞ言ってくれた」という賞賛になる。が、またもう一方では「こんなもん、作ろうと思えば俺にもできるよ」という軽蔑感にもなる。とくにその歌が話題になればなるほど、しっと心からその否定的な気持ちは強くなり、「啄木の歌なんて、大家の作品にくらべたら、ほとんど歌とはいえない戯言だ。後世になど残るわけがない」と言い始める。もちろん、彼らは陰で、啄木と同様に作歌を試みている。だが、簡単なはずのその歌を彼らはひとつも作ることができない。なぜできないのかもわからない。それがさらに反発心をあおる。
自分の心の状態を一瞬にして表現する。それは、つねに自分を揶揄している人間にだけできること。それが啄木の天才であり、たぶん、もっとも悲しいところなのだと思います。日記がこれほど心に響くのも同じ理由だと思います。
プルーストが、新しい芸術が登場するときのことを「失われた~」のどこかに書いています。文脈では覚えていませんが、それは、以下のようなこと。
新しい芸術が登場したときには、それをまだ誰も見たこと(聴いたこと)がないので、私たちはそれを「とても風変わりだ」とか「個性的だ」としか呼ぶことができない(つまり、使い慣れた文法では批評ができない)。しかし、やがてそれが後世に残り、それ以前の作品と同じ距離を持ってながめられるようになったとき、私たちは気づく。あのころ、「風変わり」だと思われたものこそ新しい創造そのものだったのであり、古典的とは見えなかったところこそ実は古典たる条件だったのだと。
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では、また来週。