麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第181回)

2009-07-26 16:48:40 | Weblog
7月26日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

朝飯の買い物に出かけたときにすでに、髪が焦げ臭いように感じました。
フライパン上の食材のように扱われる時期がまたきましたね。



いつもの古本屋に「明治の文学」シリーズ(筑摩書房)が出ていたので、啄木の巻を買ってきました。
すべて散文の一冊。「ローマ字日記」にあたる「日記Ⅰ」をひさしぶりに読みました。まるでヘンリー・ミラーの「北回帰線」のような部分もあり、かのドナルド・キーン先生がこの日記を現代文学の傑作と呼んだのも無理ないことと再び思いました。

周りにとっては大変やっかいな人だと思いますが、それでも皆が彼の歌を認めて、好意を寄せたり反発したりせずにはいられなかった感じがよくわかります。

同時代の青年からすれば、啄木の歌は、まず、「これは、俺がいつでも感じていることじゃないか」と思えたはず。それは、一方では「よくぞ言ってくれた」という賞賛になる。が、またもう一方では「こんなもん、作ろうと思えば俺にもできるよ」という軽蔑感にもなる。とくにその歌が話題になればなるほど、しっと心からその否定的な気持ちは強くなり、「啄木の歌なんて、大家の作品にくらべたら、ほとんど歌とはいえない戯言だ。後世になど残るわけがない」と言い始める。もちろん、彼らは陰で、啄木と同様に作歌を試みている。だが、簡単なはずのその歌を彼らはひとつも作ることができない。なぜできないのかもわからない。それがさらに反発心をあおる。

自分の心の状態を一瞬にして表現する。それは、つねに自分を揶揄している人間にだけできること。それが啄木の天才であり、たぶん、もっとも悲しいところなのだと思います。日記がこれほど心に響くのも同じ理由だと思います。

プルーストが、新しい芸術が登場するときのことを「失われた~」のどこかに書いています。文脈では覚えていませんが、それは、以下のようなこと。
新しい芸術が登場したときには、それをまだ誰も見たこと(聴いたこと)がないので、私たちはそれを「とても風変わりだ」とか「個性的だ」としか呼ぶことができない(つまり、使い慣れた文法では批評ができない)。しかし、やがてそれが後世に残り、それ以前の作品と同じ距離を持ってながめられるようになったとき、私たちは気づく。あのころ、「風変わり」だと思われたものこそ新しい創造そのものだったのであり、古典的とは見えなかったところこそ実は古典たる条件だったのだと。



では、また来週。

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生活と意見 (第180回)

2009-07-19 11:57:52 | Weblog
7月19日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

すごく楽しみにしていたのに、岩波文庫の今月の新刊には「自由への道」(「分別ざかり」後編)は入っていませんでした。残念。

PHP文庫で、「草枕」が新版で出ていたので、読みました。
活字が大きく、注も豊富で、一気に読めました(ぜひ、見てみてください。いい本です)。
俳句的小説。なるほど一見そうですが、冒頭近くに提示されて全編にまとわりつくのはオフィーリアの入水シーンだし、最後に主人公の頭の中で絵が完成するというオチはファウスト的で、ほとんどわびさびは感じられません。
また、「地の文」と「主人公の頭に浮かぶこと」が同じ感じで書かれているからまったく別物に見えるけど、両者を分けて書けば、まるでスティーヴン・ディーダラスが熊本の温泉宿で自分の芸術について考える小説「若い芸術家の温泉旅行」、のようになるに違いありません。
いずれにしても、これを書いた作者の学識と才能、自由な心がただただうらやましいです。



ついでに、「うたかたの記」も、なんとなく、初めて読んでみました。
なにか、私が子どものころの「少女フレンド」に載っていた少女マンガを読んだような気持ちになりました。鷗外、乙女のようにロマンチックすぎ。ちょっと赤面してしまう。やっぱり「普請中」くらい悪びれた感じを出してもらったほうが「ああ、この人も人間なんだな」と、安心できますね。でも、心の底ではずっと乙女だったんでしょうね。死ぬまで。ああ、でもなぜか「少年」ではないですね。乙女ですね、鷗外は。たぶん、そこが読んではいても親しめないポイントかもしれません。ただの、ボンクラの感想ですが。



コンラッドの「青春」を、南雲堂の「対訳コンラッド」(古本)でひさしぶりに読んでいます。魚介類は食べないし、船酔いはするし、第一海のにおいがあまり好きではないのに、読んでいるとなんだか船員になりたいと思ったりします。もうすぐ50なのに、バカな話。
この小説はまさに「男だけの世界」の話。難破しそうな船の中、こわれかけたポンプでひたすら水をかき出しながら、「今どれだけ金をくれるといっても、この俺の立場を人に譲る気はない」と思う、不思議な幸福感。男なら誰しも理解できることでしょう。たぶん、創作三昧にはそれと似たものがあると思います。



では、また来週。
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生活と意見 (第179回)

2009-07-12 17:32:45 | Weblog
7月12日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

角川ビギナーズクラシックスの「紫式部日記」を読みました。
編者の巧みさで、約三時間で一気に読めて、紫式部の存在が鼻先ににおってきそうなほどのリアリティを感じました。本としてすばらしいと思います。

紫式部がいかに清少納言を意識していたか、また、自分とはまったく違うその才能を全否定しながら、どんなにその魅力を認めていたかを、彼女の感覚が憑依したように、直接感じ取ることができます。そうして、いまさらながら、すごい作家だなと思います。



「哲学としての仏教」という本がどこからか出ています。
このタイトルしか見ていませんが、見て思ったのは、私自身は仏教を哲学以外のものとして考えたことがないということです。

それとは反対に、「お経としての西洋哲学」もまた、ひとつの真実だと思います。
ハイデッガーの「有と時(存在と時間)」は、味読していくと、ほとんど物理的にといっていいくらい、時間がゆっくり流れ始め、やがて静止するような感覚にとらわれます。筒井康隆さんの「お助け」のような感じといえばいいでしょうか。

「純粋理性批判」もそのような効果がありますが、それ以上に催眠効果のほうが強い。なにしろいつも超越論的論理学(先験的論理学)の「概念の図式」のところで「よくわからん。苦しまぎれなのでは?」と不遜にも思ってしまい眠くなるので、そのまま眠ることにしているからです。



では、また来週。
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生活と意見 (第178回)

2009-07-05 22:39:46 | Weblog
7月5日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

河出文庫から「ボヴァリー夫人」(山田じゃく訳)が出ました。
これは、中公の「世界の文学」シリーズに入っていた翻訳なのですが、なぜ今文庫になったのでしょうか。わからないけど、買いました。フローベールが好きなので。できれば、「感情教育」も岩波版とは別の訳で読んでみたいところです。

「創造者」、おもしろいです。
「全と無」という、シェイクスピアの生涯をたった6ページで書いた作品がとりわけ気に入りました。

その本から、とてもすばらしいと感じた「あとがき」を引用します。
自分でもいつでも読めるように。

「一人の人間が世界を描くという仕事をもくろむ。長い歳月をかけて、地方、王国、山岳、内海、船、島、魚、部屋、器具、星、馬、人などのイメージで空間を埋める。しかし、死の直前に気付く。その忍耐づよい線の迷路は彼自身の顔をなぞっているのだと。」

では、また来週。
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