麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第704回)

2020-07-26 21:54:49 | Weblog
7月26日

「白痴」第一部読みました。これは11月27日の朝から夜中までの、一日の出来事です。戯曲的というか、戯曲そのもの。地の文はほとんどト書きです。ここまでは、木村訳も望月訳も亀山訳も印象はあまり変わらないですね。ここから、読み進められるかどうか。

「地獄の季節」でランボーは何をうたっているのか。ひと言でいえば、「見えすぎる者の悲惨」でしょう。世界と自分の、過去と未来を見通し、それが正しいことがわかっているのに、「現状」という怪物をどうにもすることができない嘆き。もしキリストが現れて、「よく見通したね。君には『見者』という貴族階級に並ぶ身分と、働かなくても生活できる年金をあげよう」と言ってくれたらかなり救われるだろうに。「かなり」というのは、こと「表現」について、私はランボーのような天才を持っていないので、それについてどんな絶望感を抱いているかは完全には理解できないからです。でも、私はこの散文詩を、私小説として読んでいます。だから、表現に関しては「俺」という主人公の一つの特性として、自分なりの深さで理解できればいいと思っています。これは、まさに、ランボーという作家による「若い芸術家の肖像」だと思います。そうして「肖像」と同様、何度でも読みたくなる傑作小説です。
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生活と意見 (第703回)

2020-07-19 21:06:03 | Weblog
7月19日

岩波文庫から「対訳ランボー詩集」が出ました。以前(生活と意見209回)ここに、「地獄の季節」について以下のようなことを書きました。

ひとつだけ解釈を書けば、「悪い血(血筋)」の章の「科学、新しい貴族だ!~」の節の中に「俺たちは『精神』へ向かう。」という文があります。この『精神』の原語は「エスプリ」ということですが(私はフランス語のフの字も知りませんが)、『精神』と訳されたものと、『精霊』と訳されたもののふたつがあります。私は、ここでは『精霊』は誤訳だと考えます。小林秀雄訳などは『精霊』になっていますが(今手元にないので記憶だけですが)、それはただ、文脈の悲嘆の調子につられてそうしているだけで、まったく意味を理解できていないと思います。次の節ではこの言葉は『精霊』という訳を与えられるのが当然です。そこでは「俺」はキリストを呼んでいるからです。しかし、この前の節では、「俺」をとらえているのは、おそらく生物の創造的進化のイメージであり、その進化の到達点が(もはや肉体をもたない)『精神』であるというビジョンが提示されているのだと思います。それが「異教徒の言葉でなければ説明できない」ことなのです。そうしてそんなビジョンが見えたにもかかわらず、次の節ではキリストに助けを求めずにいられないことで語り手の心の傷ついた様子がよりはっきりわかるのです。

今回、同部分は、「われわれは〈精神〉に向かう」となっていて、原語であるEsprit(エスプリ)についてこんな注が入っています。

Espritは、次節冒頭の〈精霊〉と同じ語であるが同義ではない。物質的探究も究極的には精神的、霊的なものを目指さずにはいられないという見定め。〈精神〉は未来に位置づけられている。

感動しました。生きているうちに、ここがこんなにはっきりと解説されている文を読めるとは思っていなかったので。私のいう創造的進化は極端だとしても(直観的にはなお私はその解釈を信じていますが)、とにかくここは、精霊というような宗教的概念とはまったく無関係に訳されなければいけない。小林秀雄のみならず(粟津則雄訳もそうだった気がします)、最新訳として発売中のものにも、ここを精霊と訳しているものがあります。いま、この新しい訳者の力を借りてもう一度書けば、「精霊」は誤訳です、だからそう訳した訳者はこの散文詩を理解できていません。その訳書は読むに値しません。

今回の訳が、「地獄の一季節」(と、篠沢秀夫訳と同様「一」が入っています)の決定訳ではないでしょうか。私はそう思います。

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生活と意見 (第702回)

2020-07-12 21:37:55 | Weblog
7月12日

ドストエフスキーの「分身(二重人格)」と「完訳 聊斎志異第2巻」(ともにキンドル版)を、それぞれ100円(発売記念価格)で買いました。「分身」は30歳の頃、小沼訳で一度読んだきりですが、強烈に印象に残っています。しかし、いまはその2冊は置いておいて亀山訳の「白痴」を読み始めました。ご存知のように、「罪と罰」執筆と「白痴」執筆の間には、速記者である二番目の奥さんとの結婚があり、後者以降、長編は口述筆記になるわけです。つまり、痔疾を抱えながら作家が座って書いたのは「罪と罰」が最後なんですよね。以前に増して文体が饒舌になっていくのも、大きな理由はそこにあると思います。いまはまだロゴージンとレーベジェフとの出会いから、エパンチン将軍家を訪ねる、最初の20~30ページぐらいのところですが、すでにちょっと涙が出ました。ということはいい訳なんだと思います。最後まで読んだらたぶん4回目ということになると思います。読めるかどうかはわかりませんが。
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生活と意見 (第701回)

2020-07-05 21:33:01 | Weblog
7月5日

ポケットマスターピース版「白夜」を読みました。小沼訳で二十歳のころ初めて読んでから何回読んだことか。前にも書きましたが、私が若いころの翻訳ものは、女が男に敬語で話しているものが多くてすごく嫌だったんですよね。女の登場人物がみんな昔の飲み屋の女みたいで気持ち悪いというか。いま、多くの海外古典の翻訳が新しくなっていてそれが解消されているのはとてもいいことだと思います(だからといって新訳のすべてがいいわけではないけど)。今回も新鮮な気持ちで読めました。

「風景をまきとる人」が、私なりの「白痴」であるように、「友だち」は、私の「白夜」です。まだそうとわかるところまで進んでいませんが。何度も書いてバカみたいですが、私は、世界で最も才能のないドストエフスキーの弟子なのです。
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