麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第130回)

2008-07-27 21:26:25 | Weblog
7月27日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

ビッグバンの余熱が引き起こした化学変化で生まれた宇宙、島宇宙、銀河系、太陽系、地球、その上を這いまわる生物。
「生きていない物」から「生き物」になったのは、
「暑い!」とひと声吠えてみたかったからではないのか、と思うくらいすごい日が続きますね。



かろうじて星新一訳の「竹取物語」(角川文庫・新版)を読みました。おもしろいけど、やっぱりクセがあるかも。ビギナーズクラシックスで読むほうがいいと感じました。



芥川龍之介の「河童」が入った角川文庫も字が大きくなって出ました。
本屋の店頭でぱっと開くと、「僕は生まれたくありません」と、母親の腹の中から河童の胎児が言う場面。最初読んだ高校生のころは、ただ笑っていましたが、いまではそう書くしかなくなった作者の心を身近に感じます。また、この場面は、すぐに、ボードレールの「この世の外ならどこへでも」と、ニーチェ「ツァラトゥストラ」の「墓の歌」を思い出させます。ニヒリズムの極致的心情であると同時に、「粘液的なぐちゃぐちゃしたもの」に対する反逆ののろしであり、「すっきりしたもの」になるための仏典の詩句のようなもの。なにやら高校生のように意味不明な書き方ですが、要するに、女性的なものへの恐怖と憎悪、彼女たちの道具ではない「なにか」になりたいという男性共通の願いが表現されているといっていいでしょう。といって、その行き着く先は、空を見上げて「雲は天才である」とつぶやくことだけなのかもしれないのですが(この啄木の言葉も、ボードレールの「異邦人」の「あの雲が好きなんだ」という言葉と呼応しています)。



では、また来週。
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生活と意見 (第129回)

2008-07-22 00:48:06 | Weblog
7月22日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

この3日のうち、3時間だけ、創作に没頭できました。
とても楽しかったけど、とても疲れました。
しかし、やっぱり創作にはプラモデルを組み立てるような愉楽があります。

先は長い感じですが、少しはおもしろいものができる、かもしれません。

また、しばらく前から、「風景をまきとる人」の改訂のようなこともやっています。
現在の二倍の長さに書き直そうか、と思ったりもして。カットした材料を使って。
退屈になるのはわかっているのですが、書きつくしてみたい、という気持ちもあるんですよね。まあ、止める人がいるわけでもないし、こちらも少しずつやってみようと思います。

「俺たち、なんのために生きているんだっけ? ああ?」
と、お互いの顔に疑問を投げかけるような表情で人々が行き交う真夏日でしたね。

では、また来週。
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生活と意見 (第128回)

2008-07-13 22:05:34 | Weblog
7月13日


トルストイの「アンナ・カレーニナ」の新訳が、光文社文庫から出ましたね。私は10年ほど前にはじめて、ようやく、新潮文庫で読みました。おもしろい小説でした。

この小説の柱は、アンナの不倫ではない、と私は思います。アンナの不倫は、キャッチに過ぎず、作者が本当に書きたいのは、リョーヴィンとキチイのカップルであり、突き詰めれば、リョーヴィンひとりなのだと思います。読んでいるときも、最後まで、アンナがこの不倫に走った動機はよくわからなかったし、もっと言えば、アンナはただの人形のようにしか感じられませんでした。伝わってくるのは、リョーヴィン(トルストイ自身がモデルといわれています)が、いかに頭がよく、価値のある人間かということだけ。
すごく整った書き方で、ドストエフスキーの混とんとした書き方とはまったく違います。

たぶん、もう一度読むことはないと思います。



新しいカフカコレクションがちくま文庫で出始めました。全3巻のようです。とりあえず、白水社のUブックスで池内紀訳の小説全集は出ていますが、また違う方針でまとめられたもののようで、翻訳者には柴田翔なども名を連ねています。

カフカは、若いときほど好きではなくなりました。(これはカミュに対する気持ちとぜんぜん逆で、カミュは、若いころよりいまのほうがなお好きかもしれません。とくに「手帖」は汲めども尽きない魅力にあふれています。もちろん「異邦人」もです)。「変身」は、最高。「城」も「アメリカ(失踪者)」も好きですが、「審判」は最後まで読んだことがありません。退屈です。
「中年の独り者ブルーム・フェルト」などの、ちょっと変わった短編がいいですね。まだ買ってないけど、読んでみようと思います。



暑いですね。

今日は、ひさしぶりにカメラマンの宮島径氏から電話をいただきました。
ひと言交わしただけで、「やっぱりかけるんじゃなかった」と後悔している宮島さん独特のニュアンスが聞き取れて、よかったです。「武蔵野」をテーマにした写真、なによりも楽しみにしています。

では、また来週。
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生活と意見 (第127回)

2008-07-06 23:02:42 | Weblog
7月6日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

短編集「画用紙の夜・絵本」の委託販売の期間が、そろそろ終わりということらしいです。
もし、万が一、買いそびれたという方は、いまのうちに岩波ブックセンターのホームページか、店頭かでお求めください。いちおう、それが終わると入手できなくなります。



古本屋に行くのは、私の場合習慣といってよく、神保町や高田馬場は、町全体が「30年行きつけの店」といってもいいような存在です。

こんなふうに通っていると、店頭に置かれる本の移り変わりにも自然、目がとまります。
そんな移り変わりの中で、ときどき出会う光景に、誰か特定の作家の作品が、単行本といわず、全集といわず、文庫といわず、ある日一度に棚やワゴンを占拠する、というのがあります。

おわかりかと思いますが、これは、おおかた、その本の持ち主が亡くなったことを語っていると思われます。もちろん、亡くなってすぐかどうかはわかりません。持ち主だった人は、その作家が好きで、彼の新刊が出るたびに購入し、文庫になるとまたそれを買い、全集もそろえた。本にはそれぞれ何年何月にどこで買ったかが、昔のステイタスであったはずの万年筆で、達筆で記してあります。彼にとっては、このコレクションは、「永久保存版」であり、大切なものだったに違いありません。

しかし、その持ち主がいなくなってみれば、もとからそんなものに思い入れのない遺族の目には、それらはただの黄ばんだ紙くずの山に映るに違いありません。そうして、しばらくは故人の思い出としてそのままにしておくかもしれませんが、死にまつわる行事があらかた終わると、故人がそれを読んでいたというイメージも完全に消え、本はただのゴミになってしまうことでしょう。「これ、どうしようか」「捨てるのも金がかかりそうだし、古本屋に売ろうか」「持って行くのが大変じゃない?」「電話すれば、向こうから取りに来てくれるって」「それはいい」……そのようなやりとりの結果、古本屋の店頭は、図らずとも「〇〇の本、大売出し」といった様相を呈するわけです。

自分だけの「永久保存版」。その持ち主が、永久どころか余命いくばくもない存在だというのに、なにが永久保存版なのか。……できればくたばる前に、蔵書は少しずつ古本屋に還元して、手元にはなにも残らないようにしたい、とそんな光景を見るたびに思います。もちろん、蔵書以外のすべての仮の持ち物も。

では、また来週。
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