麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第108回)

2008-02-24 18:10:17 | Weblog
2月24日

立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

先週予告した河合祥一郎訳のシェイクスピア作品について書きます。

シェイクスピア作品の翻訳は、新潮文庫の福田恒存訳(「ロミオとジュリエット」だけは、中野好夫訳)、白水社の小田島雄志訳、ちくま文庫の松岡和子訳、岩波文庫の野島秀勝(他)訳、光文社文庫の安西徹雄訳、角川文庫の河合祥一郎訳などが、現在入手しやすいものです。この中で、もっとも若い訳者は河合祥一郎さんで、なんと1960年生まれ。ほかの訳者たちの、孫か子どもといっていい年齢です。現在、河合さんの訳は、「ハムレット」「ヴェニスの商人」「ロミオとジュリエット」「リチャード三世」の4作品が出ていますが、どれも一読「すばらしい!」と感じる清新な訳文で、できれば、もっと間を空けずに出版されて、河合訳で主要作品を読み直したいと思わずにいられません。今日は、「ロミオとジュリエット」の一節を例に、河合訳がいかにすぐれているかを見てみたいと思います。

ほかの外国作家の作品でもそうですが、たとえば愛情のやりとりの場面や、怒り、悲しみ、憎しみを登場人物が独白する場面などでは、翻訳文でもそれほど「ここはよくわからないな」と思うことは少ない、と思います。おそらく、このような緊張状態になると、人間普遍の心理がはたらき、その内面を描いた言葉には国境も時代もないからだと思います(それがなにより古典となって残る理由でしょう)。しかし、逆に、「笑い」の場面はどうかというと、翻訳でこれを活かすのは至難でしょう。小説でも戯曲でも、「笑い」の場面ほど時代の制約や国の制約を受ける部分もないでしょう。ドストエフスキーがジョークとして書いているところをうまく訳せている訳者がどれくらいいることか。小説でさえ、「笑い」を訳すのはむずかしいのですから、戯曲ではなおさらでしょう。

しかし、特にシェイクスピア作品は、ジョークの部分がわかっているほうが、なお作品を深く感じられます(と、私は思います)。シェイクスピアのなによりすごいところは、下は「きんたま」の話からはじまって、最後は形而上的な苦悩に達したり、無上の純愛にまで達したりといった人間心理の振幅の大きさをそのまま描いていることにあります。どこかの国の純愛もの(?)のように登場人物が下品でかっこ悪いセリフはひと言もしゃべらず、「君と別れてからもずっと君の事を考えていたよ」などという嘘ばかりつく(あるいは自分の嘘に気づかない低能ばかりが登場する)、「しぼんだきんたま」みたいな作品たちとはまさに正反対です。

「ロミオとジュリエット」から。ロミオがパーティで、ジュリエットにひと目ぼれし、友だちをほったらかしてジュリエットのところへ向かう。ということがあったその翌朝、ほったらかしにされたマキューシオとベンヴォーリオと、ロミオ(神父のところからの帰り)が出会う場面です。河合訳を除いてもっとも新しい松岡和子訳は、こうです。[マ)はマキューシオ、ロ)はロミオ]

マ) 置いてけぼり、置いてけぼりだ、身に覚えがないのか?
ロ) ごめん、マキューシオ、大事な用があったんだ。そういう場合は礼儀を欠くこともある。
マ) そういう大事なご用があると、使いすぎた腰が曲らなくなるもんな。
ロ) お辞儀ができないってか。
マ) 見事に的を射抜いたな。
ロ) うがった解釈のご開陳、痛み入ります。
マ) 俺は礼節の鑑だからな。
ロ) 礼節の華か。
マ) 当たり。
ロ) 花なら俺の靴の透かし模様になってるぞ。
マ) 言ったな! その調子、お前の靴がすり減るまで、俺の洒落についてこい。靴底がすりへっても、洒落はへらずに立派に残る。
ロ) 底が薄けりゃ減りもするさ、減らず口の底なしの薄ら馬鹿だな!
マ) おい、ベンヴォーリオ、助け舟たのむ。俺の知恵は気絶しそうだ。

最初の何行かは、マキューシオがロミオをひやかしているのがわかります。しかし、「俺は礼節の鑑だからな」のあたりから、やりとりはどうもよくわからなくなってきます。なぜ「礼節の鑑」を「礼節の華」と言い換えるのか。「花なら……」のひと言が「言ったな!」というリアクションをとらせるのはなぜか。ロミオの「底が薄けりゃ……」のセリフは、どこがベンヴォーリオに助けを求めるほどのすごい洒落なのか。おそらく原文と比較して講義を聴けば「なるほど」と思えるのでしょうが、それでは読書、あるいは観劇とはいえないでしょう。でも、まあ、ほかの訳者のものを読んだときも、これまでは、「まあ、こういう部分はわからなくてしかたないんだよな。あきらめよう」と思って、ほとんど飛ばしていたのです。ところが、河合訳だと、ぜんぜん違う。

マ) 抜け駆けして俺たちに一杯食わせたろうが。
ロ) ゆるせ、マキューシオ、とても大事な用事があって、ああいった場合、礼儀を欠くのは仕方がないんだ。
マ) するとなにか、そういうご用事があると、使いすぎた腰が曲がらなくなるのか。
ロ) お辞儀ができないと?
マ) どんぴしゃ、命中、一発やったろ。
ロ) ごていねいな説明をありがとう。
マ) いや、俺は礼儀にかけちゃ、絶倫だからね。
ロ) 本腰を入れて尽くす礼儀か。
マ) ああ。
ロ) 退屈な洒落は苦痛だな。この靴みたいに窮屈だ。
マ) うまいね。一丁、洒落合戦といこう。おまえの靴底が擦り切れるまでやれば、底がなくなっても残った洒落は底なしとくらァ。
ロ) そこそこの洒落で底なしとは、底抜けに粗忽(そこつ)だね。
マ) 助けてくれよ、 ベンンヴォーリオ、俺の頭じゃ追いつかない。

わかる。わかるのです。大笑いとはいかなくても、ちゃんと日本語のやりとりになっていて笑える。「礼儀」が「絶倫」だということで、話の中心は「やった、やらない」のところからぶれていないのが、これでわかるし、ロミオの洒落もわかります。これは、ほんの一例ですが、既刊4作品のすべてにこういうわかりやすい訳文が見られ、すっとします。おそらく、ここまでこなれた文になるまでの苦労は並大抵ではないはず。それが、一冊500円の文庫だなんて。せめて、1回単行本にしてほしいのですが……。「いまさらシェイクスピアなんて」といわずに、河合訳を読んでみてください。(近ごろ評価が落ちている「ハムレット」も、もう一度生き返るのではないか、というような訳文です)
最後に、上の場面の続きを写しておきます。では、また来週。

(略)
マ) どうだ、恋にうめくより、こっちのほうがずっといいだろう。ようやくいつもの話せるロミオに戻ってくれたな。頭の冴えも機嫌のよさも、もとどおりのロミオ君だ。くだらねえ色恋沙汰なんざ、大馬鹿野郎がぶらさげたてめぇの竿(さお)をおったてて、穴につっこんで隠そうとするようなもんさ。
べ) そこでもうやめとけ。
マ) 竿を出したのに、陰毛直前でやめろというのか。本望じゃねえな。
べ) さもなきゃ話が落ちすぎる。
マ) わかってねえなァ。切り上げようってとこだったんだ。話も種切れ、赤玉が出て打ち止めだ。
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生活と意見 (第107回)

2008-02-17 14:17:18 | Weblog
2月17日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

ここでは、なるべく「読むことと書くこと」についてだけ書こうと思っているので、いきおい、本について書くことが多くなります。というのも、「書く」については、よほど気持ちが静まって、頭の中が世間とは無関係な感じにならないと書けないから。だから、本について書くことは、創作ができないので評論を書くといった行為に近いので、べつにたくさん本を読んでいることを自慢しようと思っているわけではありません(まあ、プルーストについては、あまりにも、よく「通読した人は少ない」と書いてあるので、少しだけ得意な気持ちもなくはないかもしれませんが、ほんの少しです)。

けれども、「読む」について書くことにも、それなり準備は必要です。こちらも、「書く」について書くほどではないにしても、まず頭が日常生活から切り離されるだけの時間か必要です。つぎに、取り上げる材料について考える時間が必要です。いちおう、それだけの準備はして、書き始めるのですが、それが「こいつは、たくさん本を読んでいると感心させたいのか」というふうにとられるとしたら悲しいことです。

第一、私は(わかってらっしゃる方も多いでしょうが)たいした読書家ではありません。いちおう「書きたい」と思う人間なら、これくらいは読むのが当然だろうというくらいしか勉強していません。普通の世界文学全集的な読書は、なにより基本中の基本だと思います(それでもスタンダールのように、どうしても読めない場合もあります)。

これらは、ギターでいえば、基本コードと、アルペジオ、スリーフィンガー、キーごとのスケール練習のようなものであり、演奏しようとする以上、誰も避けて通れないものだと思います。

それでも、まあ世の中には、基礎練習もしていないのに自分は天才だと思っているすごい人もときどき見受けられるからおそろしい。こういう人は、自分では人前で実際に演奏をしてみせないで、「あの曲のここのフレーズは、ベース音を同じままにしてどこまで違うメロディが作れるかの実験だね」などと、もっともらしい評論というか批評だけはする。で、いざ弾かせてみると、アルペジオもまともに弾けない、おまけにリズム感の欠如した、ギタリストの「ギ」の字にも値しない人だったりする(まあ、ともかく、なんのジャンルでも、そういう人になるのだけは避けたいことです)。

何の話だったか……。

ともかく、私は、ここで「読む」ことについて書くとき、基礎練習の話をしているのであって、それは自分のためでもあり、またここを読んでくださる方への、もっとも卑近な(自費出版)作家による読書案内だと思っていただければうれしいのですが。たらたらと努力もせずに、自分の自慢をするために書いているわけではありません。それだけは、わかっていただければ、と思います。

というわけで、今週は、現在進行中の河合祥一郎さんによるシェイクスピアの新訳について書こうと思いましたが、来週書きます。

では、また来週。
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生活と意見 (第106回)

2008-02-10 18:38:22 | Weblog
2月10日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

筑摩文庫から、ジョイス「ダブリンの人々」の新訳が出ました。
これで現行の訳は、新潮文庫、集英社の単行本(旧・福武文庫の改訳)、岩波文庫と、あわせて四つになりました。けっこう画期的なことだと思います。とりあえず最初の二つの短編を読みましたが、とてもいい訳です。まだ読んだことがない、という方は、この新訳で読むことをおすすめします。



このブログでは、書いたことに「少し説明が必要かも」と思いながら、そのままにしている場合がほとんどなのですが、先週書いたことについてちょっとだけ付け加えようかと思います。先週、「郵便配達~」のことを「モーセの十戒」のようだと書きました。なにか話が飛びすぎている、と思った方もいらっしゃるかもしれません。でも、適当に書いたわけではないのです。

まず、ご存知のように、「モーセの十戒」は、出エジプト記で、モーセが神から授けられた、ユダヤ人への戒めを刻んだ石板です。モーセは預言者であり、預言者とはその言葉通り「神の言葉を預かる者」です。旧約聖書に登場する預言者たちは、皆神の言葉を預かって、人々に告げ知らせます。それは、つまり詩人のことであり、文学の起源だといえます。

逆に言うと、神の息吹がかかったものにのみ、詩という言葉は適用され、文学と呼ばれるものになる。作者が自分の商売の宣伝のために書いたり、自分の頭の良さをみせびらかそうと巧みに作り上げたりするものは、知的娯楽用の玩具であり、文芸と呼ばれるものではあっても、文学ではありません。それが、私の考えです。

私は文芸には、まったく興味がありません。読む必要を感じません。ほんのわずかでも神の息吹を感じさせないもの、全ページにわたって「俺を見ろ。俺の頭の良さを見ろ。この洞察力の鋭さを見ろ」「俺を見ろ。俺の美しい、語いの豊富な、言い回し巧みな文章を見ろ」「私を見て。私は顔はブスだけど、こんなに頭はいいのよ」「見なさい。私はこんなにきれいだけど、頭もこんなによくて、才能もすごいの」、そんな声しか聞こえてこない作品など意味も何もない。それは、一般には古典として読まれているものにもたくさんありますが、結局書いているほうも、それを大事に読むほうも「知的に見られたい」「知的なものに触れていたい」と考えている、いつの時代にもいる「知的ええかっこしい」の人々であり、文学とは何の関係もありません。もちろん、これは広い意味で文学といっているので、映画にも音楽にもマンガにも文学はたくさんあるし、文芸に過ぎないものもたくさんあるでしょう。なんにしても、思い上がった不敬な心に預言は授けられはしません(といって、私はなんの宗教の信者でもありません)。

このような考えに基づいて、先週、あの一行を書きました。



きちんと寒いですね、今年は。日の当たらない部屋の中で遭難しそうです。

では、また来週。
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生活と意見 (第105回)

2008-02-03 15:03:52 | Weblog
2月3日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

昨夜、私にしてはめずらしいのですが、テレビドラマを見ました。
「ロスタイムライフ」というドラマで、人生のロスタイムを死ぬ前に清算できるという話。人生のどの部分が「ロスタイム」なのかはわからなかったのですが(番組内で説明があったのかもしれませんが、見逃したのでしょう)、主人公は約4時間のロスタイムを与えられました。そこで、誰しもするように、私もあと4時間の命だったらどうしよう。と考えました。

その結果、やはり、本を読むだろう、と思いました。
では、4時間で何を読むか。
これが1カ月なら、迷わずプルーストを再読すると思います。2週間なら、「罪と罰」「白痴」「悪霊」「未成年」「カラマーゾフの兄弟」をもう一度読みたい。
しかし、4時間となると、どうか。

でも、意外とすぐに答えは出ました。
まずは、「郵便配達は二度ベルを鳴らす」。それから、梶井基次郎の「檸檬」と、中島敦の「山月記」、内田百の「冥途」「件」「大宴会」「山東京伝」。それでまだ余裕があれば、聊斎志異から数編。こんな感じでしょうか。もちろん、「風景をまきとる人」のために最後の1時間はとっておくつもりです。

「郵便配達~」は、正直、奇跡のような作品だと感じます(映画は、別物です)。
ジェームズ・ケインは、ほかには「殺人保険」(昔の映画「深夜の告白」の原作)という作品を絶版になった新潮文庫の古本で読んだきりですが、すでに「殺人保険」では、設定が「郵便配達~」を踏襲しており、パターン化の影が見えていてちょっとがっかりします。もちろん、それでもただのミステリーではなく、人間の描き方がすごくリアルなのですが。

「郵便配達~」のリアルさ。それをなんといったらいいのか。おそらく、なにもいう必要はないのでしょう。この作品については「読んだことのない人は読んでみて」としかいう気が起きません。ここには、選ばれた作家がたった一度だけ手にできる、人間の真実のビジョンが書き込まれていると感じます。なにか、それは、大げさかもしれないけれど、モーセの十戒のようなものかもしれません。

すでに20回くらいは読んでいると思いますが、これまでずっと、新潮文庫だけを読んできました。「ひょっとしたら、この感じは、別の翻訳では得られないかも」と考えたからです。しかし、そんなことは下衆の杞憂にすぎませんでした。ひと月ほど前、講談社文庫で、田中小実昌訳の「郵便配達~」を初めて読みました。最初の1ページくらいは、違和感がありましたが、あとはただいつものようにリアリティの海にたたき落とされ、気がつくとまた、いてもたってもいられないような気持ちのまま最後の1行にたどり着いていました。

「郵便配達~」以外の作品は説明は不要ですよね。百については、私は、エッセイはどちらかというと苦手です。ユーモアだけになると、ユーモアではなくなってしまう、というか、「恐怖」「悲しみ」「さびしさ」が前提として漂っている世界の中でこそ、ユーモアには意味があると思うからです。だから、なんといっても、創作が読みたいのです。中でも、「山東京伝」は読むたび笑ってしまう、けれどすごく不気味な話で大好きです。

では、また来週。
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