麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第831回)

2023-10-29 08:20:06 | Weblog
10月29日

学生時代に書いた「むなしい話」という短編を読んでもらおうと思います。書いたのは覚えていたのですが、原稿がどこにあるのか先日までわかりませんでした。24枚なのですが、一度に打ち込んでいる時間と体力がないので、およそ三分の一だけ。原作者の若者の考えを尊重するため、一字一句変えずに打ちました。続きはまた来週(楽しみにしていただけるような内容ではありませんが)。
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むなしい話1

2023-10-29 08:17:37 | Weblog
「ごはんよ」という母の声に起こされ、ぼおっとしたしたまま台所へ行った。夢の中で食べているような気分で食事をし、「ごちそうさま」と言って、そのまま居間で寝そべった。数分間、うつらうつらしていると、お腹がぐるぐると鳴ったのでトイレに行った。出すものを出してお腹がすっきりすると、頭もすっきりした。居間へ戻って、テレビをつけ、また横になった。今日は何曜日だろうと考えて、指を三つ折る動作を二回繰り返した。土曜日だ。今何時だろう。壁の時計を見ると、一時五分前。「お笑い花月劇場」を見ようと考えて、立ち上がり、チャンネルを変えた。それからまた元の場所に横になった。この地方だけで流れているローカル版のコマーシャルを見ながら、パジャマの上からお腹をボリボリ掻いた。洗濯物を乾しに行っていたらしい母が戻ってきた。赤いプラスチックのカゴを手に、居間を横切って風呂場の方へ行った。一時になり、「お笑い花月劇場」が始まった。この番組はもう十年以上続いている。僕は、子どものころから、この番組が大好きだった。東京では放送していないので、今は、休みに家に帰った時にしか見ることができない。――僕は東京の或る私立大学に通っている。大学が夏休みに入ったので、三日前、故郷に帰ってきた。――いつものように、トボけたテーマ音楽がかかり、「平家物語」という今日の劇の題字が画面に出た。へいけものがたり、ではなく、ひらやものがたり、と読むのだ。コマーシャルの後、一幕目が始まった。大阪の、ありふれた下町といった感じの舞台背景、タコ焼き屋の屋台、その主人らしい頭のハゲた男が一人、舞台中央で、長椅子に腰掛け、煙草を吸っている。舞台の右手から、若い男が現われた。タコ焼き屋の主人を見つけ、右手を上げ、微笑みながら近づいてゆく。「やぁ、ひさしぶりやなぁ」と若い男。「ほんまにまぁ、ひさしぶり」タコ焼き屋の主人。と、すかさず若い男が、「あんただれや?」「どつくでぇ」ハ、ハ、ハ、ハ、ハ、と僕は大声で笑った。関西特有の、こういう喜劇のやりとりが、ひさしぶりに見ると、新鮮で、おもしろかった。一時間、泣き笑いで、じゅうぶん楽しめるなと僕は思った。セリフを聞きもらすまいと、少し体をテレビの方へずらした時、母の声が聞こえた。
「ほんとうに。のん気じゃねぇ、おまえは」
 僕は、声のする方を見た。いつのまにか母は、となりの台所にいて、食器を洗っている。
「おもしろいよ、母さん。母さんも見たら?」
 僕は今の気分をくずしたくなかった。
「私には、そんなヒマはないよ」
 皮肉な口調だ。
「そりゃ、どうもすみませんでした」
 僕は言った。帰って三日目、そろそろ攻撃をしかけてくるころだとは思っていた。しかし、いまでなくてもいいではないか。
「ほんと、に。お前は、いったい何がしたいんだろうね」
 母は、自分の苛立ちを僕に知らせるために、わざとガチャガチャ音を立てて食器を洗っている。
「うーん」それはむずかしい問題ですね、と心の中で呟きながら、僕は、ため息をついた。
「ほんとうのほんとうにはね。僕は何もしたくない」
 そう答えてから、少し後悔する。もう少し、やる気があるような答えにすればよかったかな。
 画面にOという役者が出ている。僕は、この役者が好きだ。
「東京で、何しよるの?」
 いつもと同じことを、母は、また聞く。
 僕は、劇のストーリーを頭の中で追いながら、ぼんやり答える。
「朝起きて」
 これは、うそだ。僕は、毎日、午後三時頃起きるのだ。
「学校へ行く」
「うそばっかり」
 と、母が言う。へへへへへ、と白痴のような笑い声を立てる僕。僕は入学して四年目だが、まだ二年生である。学校に行ってないのは明白なのだ。
「ほんとに、この子は・・・・・・」
 そう言う母の声を聞くと、僕は不快になる。学校へ行かないことが気に入らないなら、もう仕送りを止めればいいのに、と親不孝を言いたい気持ちになる。
「新井くんね」
 また始まった。
「京大の大学院にうかったんと」
「ふーん」
 新井というのは、小学校から高校までの同級生だ。現役で京大に行ったことは浪人の時に人から聞いていたが、まさか大学院まで行くとは思わなかった。新井の顔が頭に浮かんだ。しかし、まぁ、どうでもいい野郎だ、と僕は心の中で言った。
「すごいね。エリートね」
 別に大学院へ進んだからといってエリートということもないだろうに。
「すごい、すごい」
 イライラしながら、僕は茶化す。
「すぐそんな言い方をする」
 母も不快そうだ。
「じゃあ、どう言えばいいの? すごいじゃない、アタマがいいんだろうねぇ」
「バカ」
「へいへい、わたしゃバカでござんすぅ」
 同級生の話だけは、やめてほしい。僕はどんなやつともくらべられるのはイヤだし、また、くらべられてもしょうのないような人間なのだから。
「みんなすごいね」
 母が言った。
「そりゃあね」
 僕は、少し主張してやろうかと思い、上体を起こした。頭を支えていた左腕が、しびれている。僕は右手で、テーブルの上のセブンスターを一本、箱から抜いた。すかさず母が、
「あんまり吸いんさんなよ」
 いつもこれだ。母の目の前で吸う煙草はまずい。モロに有害な味がする。
 僕は「ハーイ」と、いいかげんに答えて煙草に火をつけた。感覚のなくなった左腕をかばいながら、再び腹這いになる。
「そりゃあね・・・・・・なんかね」
 母の口調は、きびしい。
「そりゃあね、みんながガンバルのは、欲望があるからだろう? 車がほしいやつは、車を買えるようにガンバル。結婚したいやつは、結婚しようとガンバル。色々遊びたいやつは遊ぶためにガンバル。でも、僕は、ガンバルのがいやだから、何も欲しがらないようにしているだけで、別に非難されるおぼえはないね」
「へりくつばかりこねて」
「へりくつじゃないでしょー、みんなは『ちゃんとしなきゃ』とか、『金持ちにならなきゃ』とか思ってるわけでしょ。でも、それも大多数が、そうしているからってだけで、大多数なんてものを、小学生のころから気にしない僕にはカンケーないね」
 僕は、そう言ってから、勢いよく煙を吐いた。
 
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生活と意見 (第830回)

2023-10-22 08:55:21 | Weblog
10月22日

先週書いた川上弘美訳「伊勢物語」(河出文庫)を買いました。六十段を読みましたが、いちおう先週あげた小小説は、たしかにこれをもとにして書いたんだな、とわかりました。

あの課題を書いた二十歳のころ、輪廻転生はどうかわからないとしても、人間の意識は不死だと信じ切っていました。それは「不死だからいい」というのではなく、「人間は不死という刑罰を受けている」という意味で、です。今考えると不思議ですが、本当に信じ切っていました。「豊饒の海」や「火の鳥」の影響を指摘することもできますが、それだけではなく、自分の心と体の真ん中からそういう確信が湧き出ていた、と思います。

63歳の現在は、そんな確信も「体力」のせいだったかな、と感じます。エネルギーがありすぎて、こんな濃い自分がなくなるはずはない、と感じていたのだろうな、と。なぜならいまは、自分が薄まっている、と感じるからです。このまま薄まって、水を入れ過ぎた「ワタナベのジュースのもと」の味のように消えていくような、そんな気もします。

そんなことを考えながら、ひさしぶりにふと、大好きな、ボルヘスの「創造者」を開いたら、いきなり「私たちは不死についての議論に熱中して、夜になったというのに、灯をつけることさえ忘れていた。」という言葉が目に飛び込んできました。「熱っぽい口調よりも説得力のある淡々とした穏やかな声で、マセドニオ・フェルナンデスは、霊魂は不滅である、とくり返していた。彼の主張は、肉体の死はおよそ取るに足らぬことであり、死こそは人間の身に起こりうる最も無意味な出来事にちがいないということだった。」(「ある会話についての会話」より)。ときどきは今でもそんな気がする日もあります。また、「パイドン」を繰り返し読み、ソクラテスの描くハデスを信仰のように信じようとしている日もあります。

部屋を整理していると、自分でも忘れていた蔵書が出てくることもよくあります。ひと月前、新潮文庫の「青春・台風」(コンラッド、絶版)を見つけたときも、「こんな本、持っていたのか」と自分で驚きました。「青春」は、岩波文庫で読み、感動したという話は、ここでも書いたと思います。そのあと、この新潮文庫をどこかで見つけ、買っていたのですね。たぶん、まだ岩波文庫で読んでから時間がたってなくて、この本は読まなかったのだと思います。で、今回初めて読みました。もう、すばらしいの一言です。作者は、男というものを知り尽くしている、と感じます。私は「闇の奥」よりも、この二作(「青春」と「台風」)のほうが傑作だと思います。今回はとくに、初読の「台風」に感動しました。ハゲで、無口で、目の前のことしか考えておらず、船員からも、地上で暮らす女房や子供たちからも馬鹿にされている船長。その船長が、船が海上で台風に襲われ、恐怖に駆られて自分を見失う部下たちの中でただ一人、まったくいつもと同じようにそこに在る姿。それは男らしさの極致ともいえる姿です。そうして彼は、一等航海士にいつものように不器用に言うのです。大風と大波の中で。「船をいつも風上に向けておく。言うやつには言わしておけ。だが、最もひどい波は風といっしょにくるものさ。立ち向かう――常に立ち向かう――これが突破の唯一の道さ。船乗りとしてはきみはまだ若い。立ち向かうんだ。誰だってそれで結構やっていけるんだ。冷静な頭でな。」。涙がとまらなくなりました。

こんなときは、唯物論的に、人生は一回きりであり、だからこそ「立ち向かう」ことだけが大事なのだと思えてくる。死んだら終わり。それだけだと。

こういう気分の振幅を繰り返しつつ、安物のワタナベのジュースのもとである私は、たぶん水の中に消えていくのでしょう。ただ、「船をいつも風上に向けておく」ことだけは、できれば心がけたいと思っています。

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生活と意見 (第829回)

2023-10-15 08:58:41 | Weblog
10月15日

いま、部屋を出ていくためにずっと片付けを続けていて、押し入れの奥にしまい込んでいた、若いころ自分の書いた原稿などを読む時間が増えています。
今日はその中から、大学二年(というか二回目の一年生。1980年)のときに、「国語」の授業の課題で書いた短い小説をあげたいと思います。先生から出た課題は「伊勢物語の好きな段を選んで、それをもとに短編小説を書け」でした。六十段を選んだのですが、その段の内容は覚えていません。たまたまいま、川上弘美さん訳の文庫本が出ているのを見かけたので万が一気になる方がいらっしゃったら見てみてください。
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伊勢物語六十段をもとにする小小説

2023-10-15 08:44:30 | Weblog
   一

 むかし或る所に一組の十姉妹のつがいがいた。小鳥は互いに愛し合い、むつまじい日を過ごした。彼らの飼い主である夫婦は、アンリとシメジといった。アンリはたくましく優しい男であり、妻のシメジは美しく、また夫の感情の起伏をよく心得ていて、いつも彼を支えた。二人の信頼は何よりも深かった。
 小鳥達は竹かごの中から見える、アンリとシメジの愛し合う姿を美しいと思っていた。そして、自分達が今度生まれ変ったなら、人間の男女になり、アンリとシメジのように愛し合えたならどんなにいいだろう――と思うのだった。
 小鳥達は幸福の中(うち)に、ちょっとした病でともに死に、それから間もなく疫病が流行り、アンリとシメジも死んだ。

   二

 十姉妹のつがいの二つの魂は黄泉国で再び出会った。彼らは、その暗い洞窟の奥に、蝶のように舞う、ほの明るい神に祈った。
 ――私達が今度生まれる時には、どうか、人間として生まれさせて下さい。
 ほの明るい神は二人の愛情の純粋さを腹の中で嘲笑しながら――そんなことはお安いご用だ――と言い、それから彼らに約束をした――お前達は三日後に人間の姿で生まれ変るだろう――
 黄泉国の闇の中の三日は、我々の日常でいう数億年に相当する。三日と数億年――大した差ではない。
 ところで、時間は環である。宇宙は、ほの明るい光の中から、退屈し切った人間の叫び声のように突然に始まり、やがて再びすべての形が消え、ほの明るい光だけが漂うようになる。このプロセスが「歴史」という思い出である。
 二つの魂が降りて行ったのは、日本の、平安時代とよく似た、つまり、数千回目の平安時代であった。
 二つの魂が黄泉国から出ようとした時、女の魂は、なんだか、これから起こることがひどくつまらないことのように思えてきた。
 精神的な、無目的な愛が、女という、本来生産的動物である魂に疑いを起こさせたのである。
 こうして人間となった二人は、けれど一緒にいなかった。女は新しい男とめぐり会うように、都から離れた国で生まれ、男は都で官吏となるよう、その筋の家に生まれた。
 黄泉国から見れば針の目ほどの隔たりであるが、人間の男と女には、とおい、とおい距離だった。
 男は前世のことをパノラマのように思い浮かべては、女が傍にいないのを嘆き――自分の愛情が足らなかったのだ――と自を責め悲しみにくれた。
 女は、黄泉国から降りてくる途中に持った疑念のせいで、全てを忘れていた。美しく育った娘は××国の役人の妻となり、もう前世のような強い愛も知らず、平凡のうちに老いていった。
 二人が四十を越えた頃――この頃ではさすがに、男の前世の記憶もうすれ、ただ小鳥であった頃の女への愛が、溶け切らぬ氷のように胸に残っているだけだった――男はある夜、夢を見た。
 ――夢で、男は黄泉国にいた。
 ほの明るい神は、女の裏切りを心の底で笑いながら、けれど真剣そうな口ぶりで男に告げた。
 ――女は××国の役人の妻になっておる。
 男は狂喜した。会いたい、会いに行きたい、と目覚めてから泣いた。 その朝、彼に、宇佐へ行くように――との命が下った。コースには、女のいる国も含まれている。男は黄泉におわします神の計いに感謝し、旅立った。

   三

 女はいまだ美しかった。男はその顔を見ると、前世と今との間の数億年の時間が、夢の中の秋のように、感覚から、そげ落ちるのを感じた。
 女は初め、気づかなかった。けれど、やはり、なつかしい人だ、と思った。どうしてだろう? 初めて会った男を、なつかしいと感じるなんて・・・・・・
 男が感動のあまり落した涙によって、全ては了解された。女も泣いた。黄泉国から降りてくる途中の自分の裏切りをも思い出した。男は狂おしい程の喜びから、女は、自分の罪を恥じ入る気持から泣いた。
 男は、――きっと迎えに来よう――と言い残し、都へ帰って行った。 
 女は憎んだ。このような悲しい茶番劇を演じさせる全てのものを。どうして私は、私達は、「無いもの」ではなく「在るもの」なのだろう? どうして私達は消え去ることすらできないのだろう? 宇宙中にある物は何故「在ってしまっているもの」なのだろう何故宇宙には「外」がないのだろう? 何故私達の意識は、永遠に死ねないのだろうか?
 女は、男が去った次の日、夫の説得も聞かず、髪を下ろした。そうして、自分の意識が消滅するよう、一心に祈った。けれど彼女の、この悲しい願いも「エネルギー保存の法則」によって、むなしく絶たれた。
                          
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生活と意見 (第828回)

2023-10-07 08:09:39 | Weblog
10月7日

四コマ漫画は、結局20本ぐらい描いて、自分の編集している雑誌だけでなく、友だちのやっていた雑誌に載せてもらったりしました(一時無職だったときは、1本3000円ぐらいの原稿料も出ました)。編集長や友だちが本当におもしろいと思ってくれたのかはわかりません。このころ私が描きたかったのは、ほぼ「自意識過剰」からくる奇異な笑いであり、まだあまり他では見たことがなかったと思います(85~86年)。中で一番好きだったのは、自意識過剰とシュールを合わせたような漫画で、一コマ目で、ピラミッドを描き、二コマ目でその引きの砂漠に、ズーン、ズーンという音が響いている。三コマ目で、それが身長30メートルはあるブッダその人が歩いてくる音だとわかる(ブッダの仰角のアップ)。四コマ目で、ブッダがピラミッドに腰かけようとしてその先端に肛門を突かれ、「我痛」(実際は「痛我」と書いてレ点をつけている)と言う。そのインチキな漢文の訳として「やはり、痛いな。」という一行が入っている、というものです。ピラミッドに腰かけたら肛門が痛いだろうなと思いながら、それを確かめずにいられなくなったわけです。掲載時の本も、原稿もなくなってお見せできないのが残念ですが、それが自分としては傑作だと思っていました。その作品だけでなく、ほとんどはどこかにいってしまいました。今回上げたのは、まだ編集長に言われて書き始めて二作目か三作目だと思います。常におなかの具合が悪かった若いころ、こんな気持ちになったことが何度も何度もありました。隣の人が神父だか牧師だかになるのは、とくに意味はありませんが、「誰かこいつを救ってやれ」という祈りを入れたかったのかもしれません。かわいそうに。

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生活と意見 (第827回)

2023-10-01 08:30:07 | Weblog
10月1日

小さいころから怪異的なものが好きで、楳図かずお、ハーン、水木しげる、手塚治虫のどろろ・バンパイヤ、クリストファー・リー、ポー、世にも怪奇な物語、雨月物語、四谷怪談、初期の仮面ライダー、デビルマン、泉鏡花、内田百閒、聊斎志異、唐代伝奇、ボルヘス怪奇譚集、ビアス、サキ、レ・ファニュ、ゴーチェ、ホフマン、創元推理文庫の怪奇小説集などなど偏愛してきました。そういう自分が、あまり好きになれなかったのがラヴクラフトです。いまでは新潮文庫に三冊も翻訳書が入っていて大メジャー作家になりましたが、私が大学に入って東京に来たころは、まだ創元推理で二冊、傑作集(いまではそれが拡大されて文庫全集になっています)が出ていただけで、知る人ぞ知るという感じでした。なぜ最初手に取ったのかといえば、私はダンセイニがものすごく好きなのですが、ラヴクラフトもダンセイニの熱狂的なファンだということを知ったからです(ダンセイニがアメリカに講演にきたとき、ラヴクラフトは聞きに行ったそうです)。ところが読んでみると、およそダンセイニとは似ても似つかない作品で、なまざかなのにおいがプンプンしました(ご存知のように私は魚介類が嫌いで食べません)。その印象は消えがたく、いまだにちゃんと読めていません。この絵は「インスマウス」というタイトルを後付けしてみたのですが、なんとなく私の、ラヴクラフト作品に触れた感想という感じがしたからです。でも、そのうち、新潮文庫を読んでみたいと思います。

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