麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第220回)

2010-04-25 17:27:58 | Weblog
4月25日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

予想通り、先週は読書の時間が持てませんでした。

昨日は、夕方に仕事が終わったので、神保町まで行き、古本屋で、なんとなく「ドイツロマン派全集」のノヴァーリスの巻を買ってきました(2000円)。今は、ちくま文庫から「ノヴァーリス作品集」が出ていてそれも持っています。ただ、「青い花」の訳者が薗田宗人さんという方で、私としては、「この人はそんな仕事もされているのか」と、ちょっと驚きがあったのです。

この方の翻訳は、これまで二つしか知りませんでした。ひとつは、白水社の「ニーチェ全集」収録の「ツァラトゥストラ」で、もうひとつは、やはり白水社の、最近3冊本で復刊になった、「ニーチェⅠ~Ⅲ」(ハイデッガー著)です。「ツァラトゥストラ」は、いろいろな訳で読むのですが、リズムとしてはちくま文庫に収められた吉沢訳がやはり一番好きで、感動にも「!」マークがつきやすい。でも、ゆっくり読むときには、薗田訳がもっとも正確な気がして精読できます。復刊になったハイデッガーの「ニーチェ」も、ずっと買おうかどうしようか考えている気になる本。というような感じで、この方は哲学畑の方だと思っていたのに、「なんとノヴァーリスも訳されている」と、思ったからです。

しかし、実を言うと、私はまだ「青い花」を読み切ったことがありません。途中まで読んだ感じだと、ゲーテの「ヴィルヘルム・マイスターの徒弟時代」(これは若い時に読みました)に雰囲気が似ているというくらいの印象しかなく、いつかちゃんと読みたいと思ってきました。もし、この本で読めたら、なにか感想を書こうと思います。



福知山線の脱線事故から5年とのこと。ちょうど事故のあったとき、心臓が弱って入院していました。病院のテレビの前にはたくさんの入院患者が集まり、ニュースに見入っていました。一瞬で100人以上亡くなったのを知り、患者みんなの顔には、いつしか「俺たち、入院している場合じゃないのでは」というような、おかしな表情が浮かんでいたのを覚えています。そういえば、おとといなんとなくKさんのことを思い出しました。あの事故の日のふた月あとには、ニュースを見ていたKさんはこの世にいなかった。なにか不思議な感じ。でも、まあすぐ自分の順番もきます。予防注射の告知のように。「六組、行ってください」と。それまでなんとか生活して、自分の仕事を少し進められれば。今はそれだけです。



では、また来週。
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生活と意見 (第219回)

2010-04-19 00:44:20 | Weblog
4月19日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

とても4月下旬に入るとは思えない寒さ。
直接は見なかったのですが、雪も降ったようですね。
東京で暮らすようになってから、「春の雪」には驚かなくなりましたが、さすがにこの時期はちょっとめずらしいですね。



「プレクサス」読了。
20年ぶりくらい2回目の読了です。
一日休読日を作ろうかと思いましたが、今週はこのあと本を読む時間があまり取れそうにないので読み切りました。

今回は、まず、「ヘンリー・ミラーの小説は大人の『ハックルベリ・フィン』だ」と感じました。そういう意味で、アメリカ文学の王道だと思いました。

また、完成度云々ということは、ミラーにはやはり通用しないというか、問題にならない尺度だとあらためて思いました。たとえば、「北回帰線」だけがミラーの完成した作品と解釈して、残りのすべての作品を「ヘンリー・ミラー草稿集」だと解釈しても、その文学の価値はまったく変わらないわけです。ミラーは、そういう確信犯的な書き方で書いていて、完成度を高めるために無駄な時間をかけようなどとはしていません。とくに「プレクサス」は、いくつか独立した作品を自伝的時間軸の中に組み込んで貼り合わせているという感じが強い。それでも言葉はリズムをもって流れ、まるで音楽を聴いているように読書の悦楽を感じることができます。

モーナについては、前に読んだときとは少し違う印象を受けました。いい加減で高等娼婦的であったとしても、彼女は「ぼく」をある時期まで本気で好きだったのは間違いないと感じられます。そうでなければ、「南部行き」までがまんするとはとても思えない。逆に、今回は、「ぼく」のモーナへの愛情はかなり適当なものなのでは、という気がしました。なにか、「プレクサス」の時期に「ぼく」の「書きたい気分」が盛り上がったのは、前の気づまりな結婚と職場から解放されたことがおもな理由で、モーナとの恋愛はその事態を呼び込むための爆弾だったのではないか、と感じました。「セクサス」の最後で、「ぼく」は数年後にモーナに捨てられることを先回りして書いていますが、今回は、「これでは捨てられても仕方ないな」と思いました。ただ、実際のヘンリー・ミラーがモーナのモデルとなった2番目の奥さんのことをどれくらい好きだったのかは、作中の「ぼく」の言動、行動だけではわからないと思いますが。

「セクサス」「プレクサス」ともに、トビラのあたりに登場人物表を手書きしていきました。総勢約130人。それだけ知り合いがいるというだけでも「ぼく」の人生は、私とはまるで別物という感じです。

とにかく2週間、楽しませてもらいました。また、今少しずつ書いている(死ぬまでにできればと思っている)長い話を書くのに、参考になったと思います。



では、また来週。
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生活と意見 (第218回)

2010-04-10 23:05:34 | Weblog
4月10日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

天気のおかげでなんとか風邪は治ったようですが。
長かったですね、今回は。まだ、のどがちょっと変です。



「セクサス」読了。
「プレクサス」突入。



雑誌「考える人」の「はじめて読む聖書」特集を立ち読みしたら、田川さんという「文学界」かなにかの編集長だった方が、まったく宗教色のない、新約の新訳を刊行中ということを知り、「マルコ、マタイ」の巻を買ってきました。訳文の本文が120ページで、訳注が700ページ。これこそ読んでみたかった新約です。とくに「マルコ」はとても好きなので。「プレクサス」を読み終えたら(たぶん「ネクサス」が出るまで「待ち」になると思うので)、読んでみようと思います。



ちくま学芸文庫から「徒然草」の新訳・注が出ました。放っておくとすぐに絶版になるので、1冊買ってきました。誰でも知っている古典なのに、どうも決定訳が見当たらない気がする「つれづれ」。これがそうなるでしょうか。読んでみるつもりです。



では、また来週。
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生活と意見 (第217回)

2010-04-04 11:20:07 | Weblog
4月4日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

風邪がまだ治りません。
こういうところに、本当に年齢を感じますね。



林望訳「源氏物語」が出ました。もちろん、買ってきました。
「桐壺」だけ読みました。漢字が読めないところがあって、熟読できません。
大塚訳「桐壺」を読み直しました。やっぱりわかりやすい。それと、訳者と同世代なので、言葉に対する感覚がぴったり同じですっとする。
やはり、大塚訳と与謝野訳がいちばんしっくりきますね。ただ、目標としては、大塚訳で細部まで理解したら、また谷崎訳に戻って読み直したいという感じ。そうする時間が残されているかどうか。



実は「セクサス」新訳を通勤電車内ですでに半分読みました。
爽快感は昔以上。ただ、ミラーの観念的記述はさっぱりわかりません。今回はそれを強く感じています。大久保訳とも読み比べてみたけど、同じこと。案外それほど深みはないのかもしれません。やはり「北回帰線」が一番すぐれているように思います。でも、破格に楽しいです。ベースになるコードがまったく違いますが、セリーヌの「なしくずしの死」もやはり同じような爽快感があります(読了してすでに20年くらい経っていますが)。セリーヌはミラーを罵倒し、ミラーはセリーヌを尊敬している。しかし、2人とも熱狂的なプルースト崇拝者であることは共通しています。室内派の学者にも、せわしない作家にも、ホモにも実存主義者にもシュールリアリストにも、ボンクラにも等しく尊敬されるプルースト。一度も職業に就かず、最後は10年以上部屋にこもりきりだった男のどこが、まったく違うタイプの人々の心をひきつけるのか。おかしな言い方ですが、それは彼が本当に「サムライ」だったからであり、ベッドの上で自分の戦いを戦い抜いて死んだ世にもめずらしい男らしい男だからだと思います。男らしいとは、いかつい容姿を持つことや、虚勢を張ることや、雄たけびをあげることではなく、ひとり黙って自分の戦いに就くことだということを実践してみせた稀有な人間。その行為がまた、すでに手遅れの母への贖罪にすぎず、結局は無であるということを「すでに暗い森」のように感じながら「空はまだ青い」と信じ、少年の心のまま生ききること。「失われた時~」に触れた人々は、そんな、普通不可能な生と、それを可能にした驚異の脳とその明晰な言葉にただ脱帽するしかないのだと思います。セリーヌの作品もミラーの作品も、一見「どこがプルーストと関係があるの?」と思わせる外観をしています。でも、それこそ、彼らがプルーストの発したメッセージを正確に聞き取っている証拠。「どこまでも自分自身になれ」。たぶん、彼らが聞いたのはそういう声だと思います。



では、また来週。
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