麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第480回)

2015-04-26 13:37:28 | Weblog
4月26日

今昔物語、読んでいます。本朝仏法部の三分の一(巻11~13)まで読みました。昨日、神保町の店頭本で東洋文庫(平凡社)の今昔を見つけ、本朝仏法部に相当する1~3巻を購入。東洋文庫は現代語訳(原文なし)なので読むスピードが上がるだろうと思ったのですが、意外に角川文庫の原文のほうがよくわかる部分が多いことが判明。原文を読みながら、東洋文庫は仏教用語の注として使用する、というパターンの読書となりました。

若いころから、世俗部が好きでしたが、いま初めて読んでいる仏法部もものすごくいい。なにより、筆者が本気で「日本の全仏教史を書いてやる」と考えているのが伝わってくるところがとてもいい。司馬遷の史記(司馬遷の知る世界史を書こうとしたもの)にも似た決意が文の奥に感じられます。また、主語を省略しない、漢文の書き下しみたいな文体は、「源氏」などと対照的で男らしい。それも司馬遷と同じですが、両者、ハードボイルドです。かっこいい。歴史を人物伝として、人間の歴史として描いていく、というスタイルを今昔の筆者は史記に学んだのかもしれないですね。いま書いていて思ったけど、天竺・震旦部、本朝仏法部が本紀で、世俗部が列伝に相当するのかも。

また、感じるのは、短い聖人伝の繰り返しの中に、登場人物の重複(再登場)があって、「人間喜劇」ではないですが、全体が途方もない長編小説のように読めるのもおもしろいですね。初めわからなかった用語も、何度も何度も出てくるうちにはなじみになり、その世界観が頭の中に組み立てられていく、というのも長編小説に近い。これこそ読書の醍醐味だと感じる私にはたまらないですね。

法華経。全編、法華経賛美。これには「法華経がそんなにいいか?」と、正直感じています。大乗仏典は、以前、それこそちょろっと読んだだけですが、万葉集の(嫌いな)柿本人麻呂が書いた天皇賛美の歌みたいで、文学としても「やりすぎ」のようにしか感じられませんでした。いちおう読み返してみよう、とは思っています。

若い時はとくに、真理という言葉を狭い意味で使っていたので、法華経を真理ではないと感じた私からすれば、それを神のように(実際「今昔」では経典という「モノ」を神扱いするのですが)扱っている人たちの行動、発言、考えのすべてが極端に言えばバカバカしく感じられて、仏法部になどとても入っていけなかったと思います。いまそれがおもしろく読めるのは、私が法華経に対する考えを変えたからではなく、真理というものも、結局のところある座標系にとっての真理にすぎないということをはっきり認識したからだと思います。うまく書けなかったのですが、以前ここでスッタニパータの二種の観察の章について書きました。心の形には観察の仕方によって何種類もの形があるというブッダの話について書いたのですが、それは言い換えると、もともと心が(脳が)いかにうつろなものかということの、ブッダによる証明でもありました。法華経を真理と感じた人には、その心の形が出来上がり、その形ですべてのことを解釈していく。だから、彼らが感じることも、夢に見たことも、彼らにとってはすべて真実なので、その座標系を受け入れればすべてはリアルになるわけです。――長く書いただけで、つまりは当たり前のことですね。

いちおう、天竺震旦部もどうにかして全部読もうと思っています。もう死期も近いことだし。自分の原稿を書くほどの時間がないので。その読書の時間を使って原稿を書けよ、と言われるかもしれませんが、読むのと書くのとでは1対1000ぐらいの作業量の差があり、しかも、書く、は、一度離れてしまうとそこに入っていくだけで膨大な時間がかかってしまう。まず、いまの状態では書くのは無理。死ぬまでに読みたい本を読むだけです。
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生活と意見 (第479回)

2015-04-19 10:54:55 | Weblog
4月19日

今昔物語集本朝世俗後半、15年ぶりくらいに読了。最高。と、近所の古本屋に行ったら本朝仏法部(角川文庫/昭和59年刊上・下)を一冊200円で売っていたので買ってきて読み始めました。現代語訳なしの校注本で、あまり速くは読めませんが、十分理解できます。いま上巻100ページあたり。聖徳太子、空海、最澄、行基など有名な聖人の伝記、というかほとんどSFといっていいくらいの仰天エピソード集です。このデフォルメは、いまなら漫画の領域でしょうね。手塚治虫は、ブッダにしても火の鳥にしても史実から大きく逸脱した(といっても史実がどれなのかもわからないわけですが)設定、表現を自由に使っていましたが、それは今昔物語などの古典にのっとった、伝統的、正統的な手法だったのだということがよくわかります。しかし、仏像や聖人の額からこれでもかと「光が出た」と書いてあるのは、世代的にはやはり、ウ〇トラシリーズを連想してしまうのでちょっとやめてほしい、などと不遜なことを感じつつ読んでいます。まあ、仏像もガンプラも根本的には同じものだと思うのでなにも不遜ではないといえばそうですが。もっといえば、ブッダ発言集(スッタニパータ他)を哲学としては好きでも、仏教に帰依しているわけでも何でもない自分にはそもそも不遜も何もないわけですが。――ちょっと感じたのは、(日本史で習った通り)物部氏が仏教に反対して天皇・蘇我と対立してついには処刑されるエピソードが何度か繰り返し出てくる(なんと馬鹿なことよ、というニュアンスで)のですが、「外国から入ってきた神をちやほやせずに日本の神を大事にしろ」という主張は、ちゃんと考えるとまったく正しいように思えますよね。きらびやかな仏像や舶来の経典のめずらしさに夢中になっている人たちは、「アメリカ大好き。アメリカこそ正義、金髪最高、ヘイヘイ」とか言っていた団塊の世代の人たちみたいでなにか軽薄なにおいもします。どうもそういう感じに反感をいだいてきた私ら「なにもない世代」からしてみると、物部氏に同情を感じてしまいますね。また、「今昔」が書かれて900年経つうちに、インドや中国の古典も、よく研究されたものが手軽に読める時代になり、それらに(ほんの一部でも)触れた人間から見ると、今昔の仏教解釈は偏っていて、およそブッダの説いたものとは違うと感じます(もちろん「大乗」だからといえばそうなのですが)。少なくとも私の感じるブッダは額から光を出すような怪人ではありません。仏法部の奇跡エピソードを読んでいると思い出されるのは、イエスの「彼らが望んでいるのは真理ではない。奇跡だ」という言葉。そうしてみると、「仏法部」も結局は「世俗部」ではないか、と思ってしまいます。
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生活と意見 (第478回)

2015-04-12 08:32:02 | Weblog
4月12日

今昔物語集、本朝世俗、後半(旺文社文庫3~4巻)を四分の三読み終わりました。芥川龍之介の「鼻」「藪の中」のもとになった話などが含まれているあたり。また、“鬼”がたくさん出てくるあたりです。怪異な出来事を鬼のせいにしている話がたくさんあるのですが、冷静に考えればそれらは殺人事件で、犯人は「鬼のせいだ」という話をした第一発見者の場合が多いのでは、と感じました。やはり、鬼も正体は人間に違いありません。――生活のことで悩み、読み書きに没頭できません。
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生活と意見 (第477回)

2015-04-05 21:32:53 | Weblog
4月5日

「西鶴置土産」(暉峻訳)を読みました。また、一代男をもう一度全編吉行訳で読み直し中です。すでに前回の読書でいろいろ注を読んだので、物語に集中できていい感じ。また、巻六の矛盾についても吉行流の対処の仕方が書いてあったので今回はそれに従って読むつもり。そういえば、なにか、いま出始めている新しい日本文学全集で、一代男を島田雅彦氏が現代語訳するらしいです。楽しみですね。

「諸国ばなし」を読んで、また不思議な話が読みたくなり、旺文社文庫の対訳今昔物語(本朝世俗・全四巻)も読み返しています。

某所で、いままで一度も見たこともないし、検索でもお目にかかったことのない八犬伝の「(ほぼ)全訳・全八巻」を見つけました。買うかどうか約1時間悩みましたが、いまの自分にはぜいたくと思ってあきらめました。平成枯れすすきです。

古い物ばかり読みたくなっているのは、日常がいやなんでしょうね。たぶん、「アシスタント」の毒を洗い流す、という意味もあると思いますが。どうも、あれはいい読書ではなかったですね。マラマッドは好きだし尊敬していますが、「アシスタント」はよくない。それにくらべて日本の古典はおおらかであることだなあ。岩波文庫の万葉集もとてもいいなあ。そうだなあ。……ああ。
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