4月26日
今昔物語、読んでいます。本朝仏法部の三分の一(巻11~13)まで読みました。昨日、神保町の店頭本で東洋文庫(平凡社)の今昔を見つけ、本朝仏法部に相当する1~3巻を購入。東洋文庫は現代語訳(原文なし)なので読むスピードが上がるだろうと思ったのですが、意外に角川文庫の原文のほうがよくわかる部分が多いことが判明。原文を読みながら、東洋文庫は仏教用語の注として使用する、というパターンの読書となりました。
若いころから、世俗部が好きでしたが、いま初めて読んでいる仏法部もものすごくいい。なにより、筆者が本気で「日本の全仏教史を書いてやる」と考えているのが伝わってくるところがとてもいい。司馬遷の史記(司馬遷の知る世界史を書こうとしたもの)にも似た決意が文の奥に感じられます。また、主語を省略しない、漢文の書き下しみたいな文体は、「源氏」などと対照的で男らしい。それも司馬遷と同じですが、両者、ハードボイルドです。かっこいい。歴史を人物伝として、人間の歴史として描いていく、というスタイルを今昔の筆者は史記に学んだのかもしれないですね。いま書いていて思ったけど、天竺・震旦部、本朝仏法部が本紀で、世俗部が列伝に相当するのかも。
また、感じるのは、短い聖人伝の繰り返しの中に、登場人物の重複(再登場)があって、「人間喜劇」ではないですが、全体が途方もない長編小説のように読めるのもおもしろいですね。初めわからなかった用語も、何度も何度も出てくるうちにはなじみになり、その世界観が頭の中に組み立てられていく、というのも長編小説に近い。これこそ読書の醍醐味だと感じる私にはたまらないですね。
法華経。全編、法華経賛美。これには「法華経がそんなにいいか?」と、正直感じています。大乗仏典は、以前、それこそちょろっと読んだだけですが、万葉集の(嫌いな)柿本人麻呂が書いた天皇賛美の歌みたいで、文学としても「やりすぎ」のようにしか感じられませんでした。いちおう読み返してみよう、とは思っています。
若い時はとくに、真理という言葉を狭い意味で使っていたので、法華経を真理ではないと感じた私からすれば、それを神のように(実際「今昔」では経典という「モノ」を神扱いするのですが)扱っている人たちの行動、発言、考えのすべてが極端に言えばバカバカしく感じられて、仏法部になどとても入っていけなかったと思います。いまそれがおもしろく読めるのは、私が法華経に対する考えを変えたからではなく、真理というものも、結局のところある座標系にとっての真理にすぎないということをはっきり認識したからだと思います。うまく書けなかったのですが、以前ここでスッタニパータの二種の観察の章について書きました。心の形には観察の仕方によって何種類もの形があるというブッダの話について書いたのですが、それは言い換えると、もともと心が(脳が)いかにうつろなものかということの、ブッダによる証明でもありました。法華経を真理と感じた人には、その心の形が出来上がり、その形ですべてのことを解釈していく。だから、彼らが感じることも、夢に見たことも、彼らにとってはすべて真実なので、その座標系を受け入れればすべてはリアルになるわけです。――長く書いただけで、つまりは当たり前のことですね。
いちおう、天竺震旦部もどうにかして全部読もうと思っています。もう死期も近いことだし。自分の原稿を書くほどの時間がないので。その読書の時間を使って原稿を書けよ、と言われるかもしれませんが、読むのと書くのとでは1対1000ぐらいの作業量の差があり、しかも、書く、は、一度離れてしまうとそこに入っていくだけで膨大な時間がかかってしまう。まず、いまの状態では書くのは無理。死ぬまでに読みたい本を読むだけです。
今昔物語、読んでいます。本朝仏法部の三分の一(巻11~13)まで読みました。昨日、神保町の店頭本で東洋文庫(平凡社)の今昔を見つけ、本朝仏法部に相当する1~3巻を購入。東洋文庫は現代語訳(原文なし)なので読むスピードが上がるだろうと思ったのですが、意外に角川文庫の原文のほうがよくわかる部分が多いことが判明。原文を読みながら、東洋文庫は仏教用語の注として使用する、というパターンの読書となりました。
若いころから、世俗部が好きでしたが、いま初めて読んでいる仏法部もものすごくいい。なにより、筆者が本気で「日本の全仏教史を書いてやる」と考えているのが伝わってくるところがとてもいい。司馬遷の史記(司馬遷の知る世界史を書こうとしたもの)にも似た決意が文の奥に感じられます。また、主語を省略しない、漢文の書き下しみたいな文体は、「源氏」などと対照的で男らしい。それも司馬遷と同じですが、両者、ハードボイルドです。かっこいい。歴史を人物伝として、人間の歴史として描いていく、というスタイルを今昔の筆者は史記に学んだのかもしれないですね。いま書いていて思ったけど、天竺・震旦部、本朝仏法部が本紀で、世俗部が列伝に相当するのかも。
また、感じるのは、短い聖人伝の繰り返しの中に、登場人物の重複(再登場)があって、「人間喜劇」ではないですが、全体が途方もない長編小説のように読めるのもおもしろいですね。初めわからなかった用語も、何度も何度も出てくるうちにはなじみになり、その世界観が頭の中に組み立てられていく、というのも長編小説に近い。これこそ読書の醍醐味だと感じる私にはたまらないですね。
法華経。全編、法華経賛美。これには「法華経がそんなにいいか?」と、正直感じています。大乗仏典は、以前、それこそちょろっと読んだだけですが、万葉集の(嫌いな)柿本人麻呂が書いた天皇賛美の歌みたいで、文学としても「やりすぎ」のようにしか感じられませんでした。いちおう読み返してみよう、とは思っています。
若い時はとくに、真理という言葉を狭い意味で使っていたので、法華経を真理ではないと感じた私からすれば、それを神のように(実際「今昔」では経典という「モノ」を神扱いするのですが)扱っている人たちの行動、発言、考えのすべてが極端に言えばバカバカしく感じられて、仏法部になどとても入っていけなかったと思います。いまそれがおもしろく読めるのは、私が法華経に対する考えを変えたからではなく、真理というものも、結局のところある座標系にとっての真理にすぎないということをはっきり認識したからだと思います。うまく書けなかったのですが、以前ここでスッタニパータの二種の観察の章について書きました。心の形には観察の仕方によって何種類もの形があるというブッダの話について書いたのですが、それは言い換えると、もともと心が(脳が)いかにうつろなものかということの、ブッダによる証明でもありました。法華経を真理と感じた人には、その心の形が出来上がり、その形ですべてのことを解釈していく。だから、彼らが感じることも、夢に見たことも、彼らにとってはすべて真実なので、その座標系を受け入れればすべてはリアルになるわけです。――長く書いただけで、つまりは当たり前のことですね。
いちおう、天竺震旦部もどうにかして全部読もうと思っています。もう死期も近いことだし。自分の原稿を書くほどの時間がないので。その読書の時間を使って原稿を書けよ、と言われるかもしれませんが、読むのと書くのとでは1対1000ぐらいの作業量の差があり、しかも、書く、は、一度離れてしまうとそこに入っていくだけで膨大な時間がかかってしまう。まず、いまの状態では書くのは無理。死ぬまでに読みたい本を読むだけです。