麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第152回)

2008-12-29 21:18:50 | Weblog
12月29日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

文庫版「少年探偵」シリーズ既刊全6冊読み終わりました(作戦完了という感じ)。
「大金塊」がもっともおもしろかったです。少年ものとして完璧だと思います。
「サーカスの怪人」は、おそらく、乱歩自身が書いたのではないと思います。再読するまで、いちばん印象が鮮明だったのは、ほかならぬこの作品だったのですが。たぶん、それを子どものころ、自分でマンガにしてみたことがあるからでしょう。また冒頭で出てくる団員の「ノロちゃん」という名前が、妙に今風(昭和40年代当時)で他の少年探偵団員とは違う印象があったからかもしれません。サーカスが好きだからというのもあるでしょうね(当然そういう趣味はフェデリコ・フェリーニ好きにつながっていくわけですが)。

地下道に迷い込んで出られなくなるというパターンは、トム・ソーヤーもそうだし、アンデルセンの「即興詩人」にも出てきます。子どもからすると(大人にしてもそうですが)もっともこわいパターンですよね。



二見書房から「100分聖書」という本が出ました(買いました)。旧約から新約まで通して100分で読めるダイジェストのダイジェスト聖書。でも、とてもいいです。まったく聖書を読んだことがないという方はちょっとのぞいて見てみてください。



よいお年を。

では、また来週。
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生活と意見 (第151回)

2008-12-21 20:32:48 | Weblog
12月21日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

自分の脳がちゃんと動いているかどうかは、ギターを弾いてみると、たちどころにわかります。何十年も前から弾いている曲でも間違えることがあって、そんなときは自覚がなくても、脳が不調なのだとわかります。原因は疲れですから、そういうときにはもう少し眠ることにしています。すると脳がよみがえって、同じ曲をいつものとおり弾くことができます。

脳の調子がよくないまま弾くと、マイナーコードの暗い曲はベタベタに暗く重くなって、弾くのがつらくなってしまいます。逆に脳の調子がいいときは、暗い曲のおもしろさを楽しみながら弾ける。

たぶん、それはすべてのことに当てはまる感覚で、私はよく、暗く悲しい自分を楽しんでいることがありますが、それは、脳の調子がよくて自分のことをながめ渡すことができ、自分の悲惨さを直視できる余裕があるからです。

本当に悲惨なのは、楽しそうなことを言ったり、強気をアピールしようとしたりするときの自分です。脳の調子が悪く、自分の悲惨さを見ていられずに、自分で自分をごまかそうとおしゃべりになり、よけいむなしさをつのらせる。そういうときは誰かといるほうが心地よいような錯覚にとらわれますが、こんなときこそ大事なのは一刻も早く一人になることであり、眠ることです。



では、また来週。
コメント (1)
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生活と意見 (第150回)

2008-12-14 20:27:23 | Weblog
12月14日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

約3週間ぶりに2日続きの休みが取れました。
先週先々週と、やはり、1日だけの休みではつらい。
対人許容量を超えると、つらい。
とにかくたまりません。



光文社文庫から「若者はみな悲しい」が出ました。
最初の3篇を読みました。いい訳だと思います。

ますますはっきりしてくるのは、フィッツジェラルドが、女性なしではいられなかった人なんだろうな、ということ。また、こういう人を女性は放っておかないだろうということ。しかも、ハンサムとなればなおさら。

たぶん、ヘミングウェイも女性なしではいられなかった人でしょうが、それはつまり、酒が目の前にあったら、とりあえず飲まずにはいられないからでしょう。フィッツジェラルドとは理由が違うはず。

「オス」としてなら、私にも、2人の天才と自分の場合を引き比べる権利もあるでしょう。

以前も書いたと思いますが、私は性欲から自分を解放したいとき以外、女性を必要としません。そうして、どんなにその女とやれるのを望んでいたとしても、最初の一回が終わると「なぜこの女はまだここにいるんだろう?」と思ってしまう。せっかく腰が軽くなったのだから、ひとりでどこかぶらぶらしたい。あるいは本を読んだり書いたりしたい。なにか生活の苛立ちのすべてが、それをがまんして、女につき合うことから始まるような、そんな気がする人間です。

もちろん、最初からそれに気づいていたわけではありません。ベタベタしたり、余韻を楽しんだりというようなことも若いときにはありました。でも、そのころでもやっぱり、一番いいのは一人でいることだったし、いろいろな間違いは、それを自分で押し殺すところから起こったと思います。

まあ、もう、それもどうでもいいことですが。



いつか、創作の形にしたかったけど……子どものころ、よく男同士で話をしているときに、ちょっとでも女がそばにやってくると、すぐにそっちに向き直し、今までの話はなかったかのように女と話し始めるやつがいました。そこに話の輪ができあがると、つられていく人間もいましたが、私はすぐにその場を立ち去りました。というのも、そういうとき真っ先に女を相手にし始めるのは、だいたいおもしろくない、なんの特技も特別の知識もないやつで、成績も80点平均くらいの、ただ自分からかってにこちらの話に加わっているだけのやつだったからです。彼の発言は、よくいえば一見都会的なのですが、それはテレビや雑誌からの受け売りであり、表面的な、なんの個性もない、着眼点に、取り上げる値打ちのない、つまり真に田舎くさいものばかりでした。彼が私たちと話をするのも、それはただ、私たちのグループに優れた人が多いので(私は怪しいとしても)、そこに近づくことで、彼は自分の最終目的(=女と仲良くなる)に役立てようと考えているだけだったのです。つまり、彼にとっては、私たちと話すことは「エサ」だったわけで、獲物が食いつけば、私たちとの話など、どうでもよかったわけです。もちろん、私は、彼を心の底から軽蔑していました。そうして、そんな見え透いた手段を使う男を、本当に見る目をもった女は見抜いて彼を軽蔑し、自分のような、おもしろい着眼点をたくさん提供できる男にこそ好意を持つものだと信じていました。しかし、現実は違いました。彼は女子にはつねに人気があり、何人かの女子と浮名を流しました。そうして、私はいつまでも、誰からも好意を抱かれることはなかったのです。



今のは、まあ、創作です。ただ、私は、自分の本当に優れた仲間に対して、ほんの少しでも彼のようにふるまったことは一度もありません。

たぶん、上の文が、「若者はみな悲しい」への、私の読書感想文だといえます。



では、また来週。
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生活と意見 (第149回)

2008-12-07 00:06:13 | Weblog
12月7日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

ブログを読み返してみると、やっぱり、嘘をついて、自分をそのときの自分より深く見せようとしていることが多々あるのに気づきます。それは、書く時点までに日常がうまく消えていかなかったからで、おそらくなにか仕事などで、軽く自尊心を傷つけられる場面があり、自分の中でバランスをとる必要が生じて、「俺にはもっと深い世界がある」というふりをしようとしているのでしょう。そういう状態のときには、書かないことが一番なのかもしれませんが、この場所で書くことをやめてしまったら、くたばらないでやっている意味はもうほとんどなくなるので、そういうわけにもいきません。まあ、言い訳するまでもなく、そういう状態なのは、読んでくださる方には明らかにわかることだと思うので、結果的には嘘にはなっていないのかもしれません。



うたた寝から目覚めて、すぐ、「俺の人生は失敗の見本だ」という言葉が浮かび、一日中そこから抜け出せませんでした。



では、また来週。
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