『人生を遊ぶ』

毎日、「今・ここ」を味わいながら、「あぁ、面白かった~ッ!!」と言いながら、いつか死んでいきたい。

  

日々、是研究

2021-03-29 07:38:00 | 勉強
ナッちゃんが置いてった
自家製デスクを使って、
茶室を春休み限定の
臨時研究室にしている。

30代の頃、
母校の大学院に
社会人入学した時、
四月のオリエンテーションの
自己紹介で、
「勉強し直しに参りました…」
と謙遜したつもりで
挨拶したら、
いきなり副査のS先生に
「ここは、勉強する処じゃなく、
研究する処ですよ」
と窘められた。

まだ、学問的な事が
右も左も
よく分かってなかったので、
「は…?」
ってな感じだったが、
その後の厳しいトレーニングで
その真意が徐々に
骨身に滲みてきた。

殊に、年に2回の
修論の中間発表会では、
毎度のように先生方から
研究法やデータ解釈について
素人院生に対して
容赦なく「批判」の口先が
向けられた。

学部上がりの
女子院生は毎回、
全員がそれで
泣く始末である。

そのたびに、
先生方からは
「私たちは貴方の人格を
非難してるんじゃないですよ、
貴方の研究法の不備を
批判しているんです。
それに、応えられないんなら、
もうやめなさい」
という厳しいものだった。

修論が完成せずに
3人の女子院生が
やめていったが、
同期で最後まで残ったのは
たった一人だけである。





「勉強」とはインプットの事で、
「研究」とはアウトプットの事である、
と、心理のお弟子さん方にも
かねがね言ってる。

なので、研究の目的は、
まだ知られていない事、
自分が知りたいと思う事を
探って、分析し、
新しい知見を見出し、
それを公表することなのである。

そして、
学界論文などでも、
「公益性」ということが
問われる。

自己満足の趣味ではいけなくて、
「世と人のお役に立つ」
というのが前提条件なのである。

新しい事を探求するには、
先行研究というのを
探らねばならず、
そのための引用文献やら
書籍類がしだいに
PC周辺を取り巻くようになると
段々と研究室然としてくる。

茶室の簾(すだれ)を通して
庭に咲くレンギョウやボケの
彩りを眺めながら、
時折、手を休めては、
コーヒーブレイクにする。

隣室の「書室」にある
オーディオセットから
ルネッサンス音楽を
低めに流しながら、
ホッと憩っていると、
なんだか院生の頃を思い起こし、
研究も楽しいなぁ…と、
久々に至福感を味わっている。

『夢十夜の深層分析』
として、また、
『小説家になろう』サイトで
久々に公表して、
それから冊子化しようとも
考えている。

以前は、年間、二冊の本を創る
というハードな目標を課して
何年も続けていたが、
最近は、とんと隠居モードに入り、
怠業の日々を送っている。






臨時"研究室"用のPCは、
カミさんのものなので、
有線マウスがなくって
操作が不便なので、
2階のメインPCや
学校のものと全く同じ型のを
アマゾンに発注した。

人間工学に基づいて
デザインされたという
エレコムのマウスは、
おそらくは粘土でも握って
その手形を基に
形状化したのだろう。

なので、握り具合が
フィット感があり、
しかも、手元のボタンで
画面の「戻る」「進む」が
操作できるので
文章作業には都合がいい。








ナッちゃんが
やりかけて放棄した
ジグソーパズルのフレームを
使ってもいいというので、
その台紙上に
48分割のマス目を区切り、
これから47文字の「いろは歌」を
変態仮名で清書していこうと
思っている。

そのために、
これから、わざわざ、
土湯の里まで
湧き水を汲みにいき、
それで松煙墨と
油煙墨(菜種油製)を
磨ろうと考えている。






ロンバケになると、
我が家の「まんが図書館」が
役に立ってくれる。

といっても、
わずか二千ほどの
蔵書数だが、
近所には数万点も蔵してる
ゲオもツタヤもあるので、
ないものは銭ぃ出しゃ
借りられる。

もうすぐ200巻目に到達する
『ゴルゴ13』も全巻そろってるが、
トランプ・マジックの
カードを引くときみたいに、
エイッと適当な処を
引っ張り出して読み始めると
けっこう忘れてて(笑)
それなりに楽しめるものである。





ここの処、
喘息性気管支炎のせいで
気力が充実してないせいか、
数日間もピアノ離れしている。

なんだか、
弾く気がしない…
というのは、
あきらかに気力が
低下してる証拠で、
プチ病み期なのだろう。

病識がなくって、
無茶苦茶をするJC/JKには
常々、
「病院に行って、薬呑んでるのを
『病人』って言うんだよ…」
と窘めているが、
その考えを時折、
自分にも向けて
自粛・自制を促し
自宅安静療法をも
忘れないようにしている。

音楽は
CDやらでは
なんぼでも聴けるのだが、
演奏するとなると
そこに全人的な
コミットメントを要し、
やっぱり疲れっちまうんだな
これが・・・(笑)。

物事には、何でも、
アクティヴ・コミットメントと
パッシヴ・コミットメントの
両方があんだねぇ…(笑)。

…と、今更ながら、
馬鹿みたいに
再認識してしまった(笑)。








また、
プチ糖質制限食餌療法(笑)
を再開してみたが、
お昼の"ぼっちフレンチ"創作だけは
メンドく感じず、
夕飯支度の買い物ついでに
素材を買ってきては
飽きずにやってる。

もっとも、
喰う事に飽きちまったら、
もう、お陀仏なんかもしれない(笑)。

末期がんだった亡父が、
抗がん剤の副作用も
あったのだろうが、
一緒に食卓を囲んでいて、
ポソリと
「喰うのも飽きた。
生きるのも飽きた…」
と吐いたことがあった。

その数か月後に、
父はこの世を去った。

時折、あの時の姿と
あの言葉を思い起こしては、
自分はまだ
「喰いっ気」があるなぁ…。

こりゃ、
まだ生きる気だ…(笑)
と、自分を冷やかしている。

そーいや、
ロンバケで暇だと
嘆きながらも
「研究意欲」もあんじゃん(笑)。

まだまだ、
生きる気だな、オレ…(笑)。

エイエイオー! ٩( 'ω' )و

      ↑ シヌシヌサギジジイ





録画で
『東京家族』を観た。

これ、
『家族はつらいよ』という
題名もあったが、
山田監督作品なので、
当然、『男はつらいよ』を
もじったものだろう。

日本一の朗読家として
リスペクトしてる
橋爪 功が主人公なので
それに魅かれて観たが、
所々で朗読で聞かれる
橋爪節の口調が心地よかった。

老夫婦ふたりが
子どもたち三人が棲む
東京に遥々離島から趣き、
その旅先で老妻が急逝し、
遺骨となって故郷に帰る
という素朴な噺であった。

山田監督作品の常で、
いくらか鼻につく
臭い演出と演技感が
作品から漂ってきたのは
感心しなかった。

こないだの
寅さんスペシャルで
監督が
「出来るだけ役者さんには
演技を抑えてもらって、
その人の存在感を
際立たせたい」
と言ってはいたが、
橋爪 功以外の役者は
みなダイコンだったのか
演技感が感じられて嫌だった。

してみれば、
渥美 清はじめ
笠智 衆、志村 喬なぞは
やっぱり名優だったんだなぁ…
と、再認識した。









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