きのうは
朝一で「鍼」治療に往き、
帰りには、タイヤ交換と
オイル交換をしてきた。
工場長のはなしでは、
ムーヴはエンジンのバルブが
構造的に緩いらしく、
4ケ月に一度、
オイルが空になって
異音が発生するので
マメに補充しないと
エンジン焼き付きを起こしてしまう。
ある意味、欠陥車なのだが、
その事は、リコール対象には
ならないというのだから、
車行政もどうなってんだか…。
5年目の冬タイヤで、
だいぶ硬化してるので、
新品と換えようか迷ったが、
溝は深かったのと、
工場長から
「新品だから効く
というわけじゃないんですね」
と聞いて、もう一冬
これでいくことにした。
なにせ、去年は暖冬で、
一度も積雪がなく
スタッドレスも空振りだった。
T中にのみ
設置されている
箱庭療法のセットを
大いに活用している。
もともとユング派の
ドルフ女史が発展させた
セラピーなので、
解釈にも深層心理学的な
象徴性が重視される。
中でも、
「円」は多義的・重層的な
解釈が成り立つが、
「曼荼羅」「ウロボロス」という
一般には理解不能の
独特の読み方がある。
それは、
ユング自身が発見した
"こころの現象"でもある。
精神病や不安に陥ると
人は「円形」のものを
希求するようになる、
というのである。
円は球の断面であり、
宇宙空間で
星々はすべて球体であり、
宇宙船内で水を浮かせると
球状になって静止する。
宇宙において
「完全」を象徴する球や円は、
心理的不安定さを「補償」する、
とユングは考えた。
後に、東洋の「曼荼羅」や
世界に遍在する
"蛇が自らの尻尾をくわえている"
「ウロボロス」に着目し、
それらの意味する処をも
円の解釈に加えていった。
箱庭療法の
製作過程では、
一連のセラピーの終焉近くに
それが出現すると
心が整ってきて、
そろそろターミネーションの時が
来るということが判ったりする。
この場合の「時」は、
一般的な時間を意味する
「クロノス」と区別して、
臨床家は「カイロス」と呼ぶ。
「時熟」「時宜」なぞという
言葉が相応する。
最近は、
信仰心とは別に、
パワースポットとして
神社仏閣が注目を浴びることがあり、
若い婦女子などが
自撮りしているのを見ると、
なんだかなぁ…という
軽薄短小感を拭えない。
きっと、
こういう子たちは、
それを「自己実現」の一部のように
錯覚してるのだろうか…。
近頃の病んだJCには
「推し」が生き甲斐、
それがないと生きていけない…
という子が少なくない。
何にせよ「心の支え」が在るのは
わるいことではないが、
しかし、「儚きもの」にそれを
託すのは、心許ない気が
しないでもない。
もっとも、
こういう子たちは、
心変わりも早く、
ひとつのことに拘泥しない
という面も持ち合わせて居たりする。
同じ病んだ子でも、
「古典文学」や「古典音楽」
なぞの古典芸術に興味関心を
寄せる子は、予後がいいように
感じることがある。
なにせ、「古典」は
すでに淘汰され評価されてきた
「よきもの」「安定したもの」である。
英語の「クラシック」には、
"古い"よりも先に
"優れた"という意味がある。
「書」を始めてから、
事あるごとに、朝刊のチラシにまで、
いい字を見つけると
保存しては手本にして
模写・臨書をするようになった。
福島の「福」なぞも
難字のひとつだが、
バランスよい美文字に出逢うと
ついつい嬉しくなって、
何度もそれを書くことがある。
朝一で「鍼」治療に往き、
帰りには、タイヤ交換と
オイル交換をしてきた。
工場長のはなしでは、
ムーヴはエンジンのバルブが
構造的に緩いらしく、
4ケ月に一度、
オイルが空になって
異音が発生するので
マメに補充しないと
エンジン焼き付きを起こしてしまう。
ある意味、欠陥車なのだが、
その事は、リコール対象には
ならないというのだから、
車行政もどうなってんだか…。
5年目の冬タイヤで、
だいぶ硬化してるので、
新品と換えようか迷ったが、
溝は深かったのと、
工場長から
「新品だから効く
というわけじゃないんですね」
と聞いて、もう一冬
これでいくことにした。
なにせ、去年は暖冬で、
一度も積雪がなく
スタッドレスも空振りだった。
T中にのみ
設置されている
箱庭療法のセットを
大いに活用している。
もともとユング派の
ドルフ女史が発展させた
セラピーなので、
解釈にも深層心理学的な
象徴性が重視される。
中でも、
「円」は多義的・重層的な
解釈が成り立つが、
「曼荼羅」「ウロボロス」という
一般には理解不能の
独特の読み方がある。
それは、
ユング自身が発見した
"こころの現象"でもある。
精神病や不安に陥ると
人は「円形」のものを
希求するようになる、
というのである。
円は球の断面であり、
宇宙空間で
星々はすべて球体であり、
宇宙船内で水を浮かせると
球状になって静止する。
宇宙において
「完全」を象徴する球や円は、
心理的不安定さを「補償」する、
とユングは考えた。
後に、東洋の「曼荼羅」や
世界に遍在する
"蛇が自らの尻尾をくわえている"
「ウロボロス」に着目し、
それらの意味する処をも
円の解釈に加えていった。
箱庭療法の
製作過程では、
一連のセラピーの終焉近くに
それが出現すると
心が整ってきて、
そろそろターミネーションの時が
来るということが判ったりする。
この場合の「時」は、
一般的な時間を意味する
「クロノス」と区別して、
臨床家は「カイロス」と呼ぶ。
「時熟」「時宜」なぞという
言葉が相応する。
最近は、
信仰心とは別に、
パワースポットとして
神社仏閣が注目を浴びることがあり、
若い婦女子などが
自撮りしているのを見ると、
なんだかなぁ…という
軽薄短小感を拭えない。
きっと、
こういう子たちは、
それを「自己実現」の一部のように
錯覚してるのだろうか…。
近頃の病んだJCには
「推し」が生き甲斐、
それがないと生きていけない…
という子が少なくない。
何にせよ「心の支え」が在るのは
わるいことではないが、
しかし、「儚きもの」にそれを
託すのは、心許ない気が
しないでもない。
もっとも、
こういう子たちは、
心変わりも早く、
ひとつのことに拘泥しない
という面も持ち合わせて居たりする。
同じ病んだ子でも、
「古典文学」や「古典音楽」
なぞの古典芸術に興味関心を
寄せる子は、予後がいいように
感じることがある。
なにせ、「古典」は
すでに淘汰され評価されてきた
「よきもの」「安定したもの」である。
英語の「クラシック」には、
"古い"よりも先に
"優れた"という意味がある。
「書」を始めてから、
事あるごとに、朝刊のチラシにまで、
いい字を見つけると
保存しては手本にして
模写・臨書をするようになった。
福島の「福」なぞも
難字のひとつだが、
バランスよい美文字に出逢うと
ついつい嬉しくなって、
何度もそれを書くことがある。
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