昨日は
朝方9℃、日中31.5℃、
という寒暖差が
22℃にもなる
ジェットコースターのような
一日だった。
東京研修の
疲れを癒すべく
「回復休暇」としたが、
案の定、昼食後に
ベッドでマンガを読んでいたら
寝オチして2時間も爆睡してしまった。
気がついたら
汗グッショリという
様だった。
熱中症になると大変なので
すぐさまエアコンを入れて
25℃まで室温を下げた。
CKD(慢性腎臓病)の
中等度なので
熱中症体質で
毎夏ごとに
何度か具合が悪くなるので
用心している。
在京中に
撮り溜めた写真を見て、
ハードながらも
充実した四日間の
研修期間を思い返している。
参加費、滞在費、旅費
などを合わせると、
大枚十万ほどになったが、
神様に財のお繰り合わせを願い
なんとか工面できた。
リサイタル直前で
何かと経費削減に勤しみ
コンサート費用の蓄財中だが、
『楽壇ひとり』とは別活動の
本業の修行費なので、
この春の二大イヴェントとして
自己投資した。
「復興支援コンサート」も
「心理師研修会」も
どちらも世と人のお役に立つための
散財なので、神様がきっと
その埋め合わせをして頂ける
と身を任せている。
リサイタルの
アンコールでの挨拶が、
毎年・・・
「明日から、塩なめて暮らします・・・」
というお寒い洒落で
笑いを買っている。
そしたら、
親友のYの奥さんからは
「そのわりには、修さん、
いつも、いいもの食べてるんじゃない!?」
と、食ブログを見られて
つっこまれてしまった(笑)。
今度から、
リサイタルの後は、
塩ムスビや塩昆布の
画像をアップせねばである(笑)。
自分へのご褒美と賞して
「お鮨」だの「懐石」の
画像をついつい
載せてしまいがちである。
疲労困憊で
四日間の研修から
帰郷して、夜の街を
駅から歩いて帰ってきた。
大仏(おさらぎ)橋の
歩道の真ん中で佇み、
しみじみと阿武隈川の
水面(みなも)に映ずる
街の灯に見入っていた。
地元ィーが、
通称「隈畔(わいはん)」と呼ぶ
右辺の光の一帯一路は、
柳町生まれの自分が、
幼い頃、遊んだエリアである。
その懐かしの地を
齢(よわい)六十路の自分が、
こんな夜に橋の上から
眺めていようとは、
過去の自分には
想いもよらぬことだったろう。
「橋を渡る」夢は
「渡河」のモチーフとして
顕著な象徴性がある。
此岸から彼岸へと
渡るのである。
それは、
「死と再生」のモチーフにも
関連していて、
「古きものが死して新しきものを得る」
あるいは、
「新しい世界や相(フェーズ)に入る」
というメタファーである。
漆黒の闇と
川面(かわも)に映る
光の色に注目すると、
「黒」「白」「緑」「金」・・・で、
深層心理学的にも
重層的、多義的な象徴性がある。
ユングの錬金術研究に拠れば、
黒はネグレド・・・全てを含有する始まり
白はアルベド・・・純化・浄化の結果
金は「自己実現」の完成形、
緑は、植物に象徴される「死と再生」である。
現実と夢は
服地の表裏であり、
織物の縦糸・横糸でもある。
「今、ここで」の自分について
体験過程を分析し、
意識にインテグレート(統合)する
というのが、心理分析家にとっては
生涯に渡り不断に為すべき
修行の一つの自己分析なのである。
無意識が見せる
一見、荒唐無稽な夢も、
複雑に輻輳する現前の事象も
みな必然であって
「無意味」なものはない、
という前提と信念で生きてきた。
なので、
この一瞬の体験過程も
言語化して自分との関連性を
見出すことに全力を尽くす。
空間の象徴性では
左側が過去で
右側が未来である。
理論的には
左から「緑」「白」「金」
であるべきだと
理性は語るが、
「現実は事実である」
という公理がある。
なので、
ここに於いても、
人間の悟性の習慣としての
時間軸、時系列という
捕らわれから離れて、
「死と再生」
「純化・浄化」
「自己実現」
は時空を超越して
素粒子の振舞いのように
存在、観察されていると
またしても思わされた。
それは、
一枚のDVDの中には
既に全ての情報が
書き込まれていて、
我われの悟性が了解するには
時系列を辿って
はじめて物語の「起承転結」が
了解されるのである。
でも、
一度見終わった後のDVDに
ランダム・アクセスしてみると、
ある場面が瞬時に
現前に展開する。
それは既にそこに在り、
今もそこに在り、
保存が続く限り、
永遠にそこに在る。
ならば、
この人生も
一枚のDVDなのだろうか。
自分という存在は、
体験という過程で
この物語を感知している。
ただし、
DVDと決定的に違うのは、
今001だと将来001の展開となり、
今002なら将来002の展開となることである。
これは
『バックトゥザフューチャー』の
理論である。
昨日は昼寝して、
早寝したせいか、
今朝は5時に目が覚めた。
昨日は、
なんだか
急にピアノが弾きたくなって、
去年のリサイタルでやった
『ナウシカ』を弾いてみた。
あちこち、
忘れてはいたが、
しばらく弾いてるうちに
指が思い出して
ほぼ完璧に再現できた。
そしたら、
今朝の5時の目覚めと共に、
去年の演奏が見たくなり
HDDから再生してみた。
(へったくそだなぁ・・・)
と、忸怩たる思いもしたが、
あの時点での
ベスト・パフォーマンスだったのだから、
仕方がない。
そこから、
延々とイマダケちゃんとの
デュオのアンコールまで
見てしまった。
リサイタル直前なので、
イメトレを始動しているのかも
しれないが。
モーツァルトの
ピアノ・コンチェルトの
ソロを聴いて
「イマダケちゃん。
上手いなぁ・・・」
と感心してしまった。
心に浸みて
疲れが癒された。
会場のあちこちから
「ブラヴォー!!」コールが
沸いたのも尤もである。
東京から帰郷して、
疲れを癒すべく、
真っ先にモーツァルトの
カルテット全集を聴いて
過ごしていた。
1991年の没後200年イヤーには、
在京(京都)していて、
モーツァルトの全集を集めるべく
毎月こつこつと一年間、
河原町の「十字屋」で
CDを買い集めてコンプリートした。
その時の財産が、
27年後の今頃、
自分の慰めとして
役立ってくれている。
貧困と病苦に喘ぎながらの
35歳での早死にである。
その壮絶な人生の
「光と影」が
一つひとつの曲に
刻み込まれていて、
病多きボンビーな
今の我が心に
しみじみと響いてくる。
朝方9℃、日中31.5℃、
という寒暖差が
22℃にもなる
ジェットコースターのような
一日だった。
東京研修の
疲れを癒すべく
「回復休暇」としたが、
案の定、昼食後に
ベッドでマンガを読んでいたら
寝オチして2時間も爆睡してしまった。
気がついたら
汗グッショリという
様だった。
熱中症になると大変なので
すぐさまエアコンを入れて
25℃まで室温を下げた。
CKD(慢性腎臓病)の
中等度なので
熱中症体質で
毎夏ごとに
何度か具合が悪くなるので
用心している。
在京中に
撮り溜めた写真を見て、
ハードながらも
充実した四日間の
研修期間を思い返している。
参加費、滞在費、旅費
などを合わせると、
大枚十万ほどになったが、
神様に財のお繰り合わせを願い
なんとか工面できた。
リサイタル直前で
何かと経費削減に勤しみ
コンサート費用の蓄財中だが、
『楽壇ひとり』とは別活動の
本業の修行費なので、
この春の二大イヴェントとして
自己投資した。
「復興支援コンサート」も
「心理師研修会」も
どちらも世と人のお役に立つための
散財なので、神様がきっと
その埋め合わせをして頂ける
と身を任せている。
リサイタルの
アンコールでの挨拶が、
毎年・・・
「明日から、塩なめて暮らします・・・」
というお寒い洒落で
笑いを買っている。
そしたら、
親友のYの奥さんからは
「そのわりには、修さん、
いつも、いいもの食べてるんじゃない!?」
と、食ブログを見られて
つっこまれてしまった(笑)。
今度から、
リサイタルの後は、
塩ムスビや塩昆布の
画像をアップせねばである(笑)。
自分へのご褒美と賞して
「お鮨」だの「懐石」の
画像をついつい
載せてしまいがちである。
疲労困憊で
四日間の研修から
帰郷して、夜の街を
駅から歩いて帰ってきた。
大仏(おさらぎ)橋の
歩道の真ん中で佇み、
しみじみと阿武隈川の
水面(みなも)に映ずる
街の灯に見入っていた。
地元ィーが、
通称「隈畔(わいはん)」と呼ぶ
右辺の光の一帯一路は、
柳町生まれの自分が、
幼い頃、遊んだエリアである。
その懐かしの地を
齢(よわい)六十路の自分が、
こんな夜に橋の上から
眺めていようとは、
過去の自分には
想いもよらぬことだったろう。
「橋を渡る」夢は
「渡河」のモチーフとして
顕著な象徴性がある。
此岸から彼岸へと
渡るのである。
それは、
「死と再生」のモチーフにも
関連していて、
「古きものが死して新しきものを得る」
あるいは、
「新しい世界や相(フェーズ)に入る」
というメタファーである。
漆黒の闇と
川面(かわも)に映る
光の色に注目すると、
「黒」「白」「緑」「金」・・・で、
深層心理学的にも
重層的、多義的な象徴性がある。
ユングの錬金術研究に拠れば、
黒はネグレド・・・全てを含有する始まり
白はアルベド・・・純化・浄化の結果
金は「自己実現」の完成形、
緑は、植物に象徴される「死と再生」である。
現実と夢は
服地の表裏であり、
織物の縦糸・横糸でもある。
「今、ここで」の自分について
体験過程を分析し、
意識にインテグレート(統合)する
というのが、心理分析家にとっては
生涯に渡り不断に為すべき
修行の一つの自己分析なのである。
無意識が見せる
一見、荒唐無稽な夢も、
複雑に輻輳する現前の事象も
みな必然であって
「無意味」なものはない、
という前提と信念で生きてきた。
なので、
この一瞬の体験過程も
言語化して自分との関連性を
見出すことに全力を尽くす。
空間の象徴性では
左側が過去で
右側が未来である。
理論的には
左から「緑」「白」「金」
であるべきだと
理性は語るが、
「現実は事実である」
という公理がある。
なので、
ここに於いても、
人間の悟性の習慣としての
時間軸、時系列という
捕らわれから離れて、
「死と再生」
「純化・浄化」
「自己実現」
は時空を超越して
素粒子の振舞いのように
存在、観察されていると
またしても思わされた。
それは、
一枚のDVDの中には
既に全ての情報が
書き込まれていて、
我われの悟性が了解するには
時系列を辿って
はじめて物語の「起承転結」が
了解されるのである。
でも、
一度見終わった後のDVDに
ランダム・アクセスしてみると、
ある場面が瞬時に
現前に展開する。
それは既にそこに在り、
今もそこに在り、
保存が続く限り、
永遠にそこに在る。
ならば、
この人生も
一枚のDVDなのだろうか。
自分という存在は、
体験という過程で
この物語を感知している。
ただし、
DVDと決定的に違うのは、
今001だと将来001の展開となり、
今002なら将来002の展開となることである。
これは
『バックトゥザフューチャー』の
理論である。
昨日は昼寝して、
早寝したせいか、
今朝は5時に目が覚めた。
昨日は、
なんだか
急にピアノが弾きたくなって、
去年のリサイタルでやった
『ナウシカ』を弾いてみた。
あちこち、
忘れてはいたが、
しばらく弾いてるうちに
指が思い出して
ほぼ完璧に再現できた。
そしたら、
今朝の5時の目覚めと共に、
去年の演奏が見たくなり
HDDから再生してみた。
(へったくそだなぁ・・・)
と、忸怩たる思いもしたが、
あの時点での
ベスト・パフォーマンスだったのだから、
仕方がない。
そこから、
延々とイマダケちゃんとの
デュオのアンコールまで
見てしまった。
リサイタル直前なので、
イメトレを始動しているのかも
しれないが。
モーツァルトの
ピアノ・コンチェルトの
ソロを聴いて
「イマダケちゃん。
上手いなぁ・・・」
と感心してしまった。
心に浸みて
疲れが癒された。
会場のあちこちから
「ブラヴォー!!」コールが
沸いたのも尤もである。
東京から帰郷して、
疲れを癒すべく、
真っ先にモーツァルトの
カルテット全集を聴いて
過ごしていた。
1991年の没後200年イヤーには、
在京(京都)していて、
モーツァルトの全集を集めるべく
毎月こつこつと一年間、
河原町の「十字屋」で
CDを買い集めてコンプリートした。
その時の財産が、
27年後の今頃、
自分の慰めとして
役立ってくれている。
貧困と病苦に喘ぎながらの
35歳での早死にである。
その壮絶な人生の
「光と影」が
一つひとつの曲に
刻み込まれていて、
病多きボンビーな
今の我が心に
しみじみと響いてくる。
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