『人生を遊ぶ』

毎日、「今・ここ」を味わいながら、「あぁ、面白かった~ッ!!」と言いながら、いつか死んでいきたい。

  

太陽の子・毛玉を取る

2018-08-30 05:26:00 | 風景
第五週目の週休を
夏休みのリズムで
過ごしている。

ここ数日は、
前線の影響で
曇りか雨で
涼しくもある。

また少しばかり
残暑が戻るという予報だが、
少しずつ、秋モードの体に
馴れていってほしいものである。

抗コレステロール薬と抗鬱剤を
十数年来服用しているので、
内科と精神科の主治医に
二~三ヶ月おきに受診している。

最近も、
どちらのドクターからも
様子を訊かれて
「もう、夏バテです・・・」
と応えると
「今年はねぇ・・・。
自律神経やられるよねぇ」
と苦笑いされていた。

熱中症の危惧はなくなったが、
秋モードの体に
シフトチェンジするまで、
また自律神経系やホルモン系の
バランスが整うまで
「更年期障害」のような
心身の不調感を伴うかもしれない。

今時のHSP
(ハイリー・センシティブ・パーソン)
にも当てはまるので、
あまり内部感覚の痛覚やら症状には
捕らわれないようにしよう
と意識はしている。

なので、
ブロガーとしての
ルーティンを守り、
本を読み、漫画を読み、
録画番組を視、散歩をし、
買い物をし、料理を作り、
人とお会いしている。




大学ギター部の先輩から
二本のギターメンテを
請け負ったので、
隙間時間を見つけては、
ちょっとずつ作業に当っている。

弦をすべて外して、
サウンドホール内の
クリーニングから行うが、
毎度のことながら、
数十年を経た楽器からは
決まって毛玉が出てくる。

去年の女子後輩の
アン・ムク・ライちゃんたちの
ギターでも35年も経たものからは
立派に育った毛玉が採れた(笑)。

女性オーナーだと
自身の髪の毛なども含まれるから
恥ずかしく思うかもしれないが、
みなオバさんになった今は
「よく育てたねぇ・・・」
と、笑いのネタにもなる。

かく言う自分のギターでも
十数年ぶりにメンテしたものからは
立派な毛玉が出てきて、
「おー。育ったなぁ・・・」
と、毬藻を観るみたいに
変な感激がある。

次の工程として、
指板と金属フレットの磨きになるが、
三十年ものでは
銀色のフレットが黄銅色にまで
変色しているので、
金属コンパウンド『ピカール』で
磨き出しをかける。

これが、
なかなかの重労働で、
フレット1本を甦られるのに
1分は磨かなければならない。

細いフレットを
親指と人差し指で
ギュッと挟みながらやるので、
やりすぎると爪の内側に
炎症を起こしたこともある。

それと、
この季節では
いくら強冷房下ではあっても、
7~8本磨いただけで
汗が滝のように流れる。

でも、
黄銅色から銀メダルみたいな
ピカピカな色が復元すると
やはり古楽器を補修しているような
修復家としての職人的充実感がある。

指板の木目も甦り、
薄くオイルをコーティングすると
新品のような輝きを取り戻す。






駅前の「こむこむ」前に
突如あらわれた
巨大なモニュメント
『サン・チャイルド』に
市民の非難が殺到したというので、
早々と撤去となり、
アーティストに依頼発注した市長は
責任をとって給与の一部を自主返納した。

はじめて見た時、
「なんじゃ、こりゃ?!」
と意味不明だった。

二階の天井まである大きさに
奇異な防護服に、
胸に電子カウンターで
「000」と表示されている。

ひと目で
作品の意図が理解できない。

今回の騒動で
ようやく作品の真意が解り、
それを批難した市民感覚も
了解できた。

作者は、
もうフクシマは防護服は要りませんよ、
放射能0ですよ、
と言いたかったのだろう。

市民感情としては、
フクシマがそれほどに汚染されていた、
という二次的風評被害を懸念するのと、
現在でも決して「0」ではないんだ、
という苛立ちを、その禍々しい
警告色から感じるのである。

それを「子ども未来館」の前に
堂々と設置するのは如何なものか、
というので
「やめてくれ」
となったのである。

おそらく、
制作費、設置費などで
一千万以上はかかったと思われるが、
解体してゴミになるのは
なんとも血税の無駄遣いであった。

新市長は、
自分の任期内の仕事として
目に見える偶像を設置し、
退任後も孫に自慢して
聞かせる気だったかもしれないが、
とんだオウンゴールとなった。

もっとも、
決定を下した市議会も
見識がなかったのだろう。

どーせやるならば、
市民に公募するなり、
コンセンサスを
得るべきであったろう。





一昨日、
「9470」だったカウンターが
昨日は「12.760」に達していた。

もう、
一々驚きもしないが、
「へぇ~・・・」
という感じはある。

ウィンドウズ95と同時に
我が家にもパソコンがやってきて
ネットが始まり、
HP、掲示板、複数サイトでのブログ、
と20年来、相当の書き込み、
投稿をしてきた。

懐かしいのは、
某ブログで短篇を連載した時、
毎日の訪問者が「1」だった。

でも、
向こう側にいる
その誰かに伝えるために、
毎日、怠らず
楽しんで書き続けたことがある。

なんだか、
カウンセリングにも似た
一対一の全人的な
濃密な関係性と言えないこともない。

なので、
「12.760」なぞという
今だかつてないアクセスに、
本来なら大喜びしてもいいのだが、
でも、なんだか、
誰が読んでいるか解らない状況よりも、
誰かがしっかり読んでくれている、
と確信して書いていた頃の気持ちを
忘れずにいたい。







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