* 16 *
壁は全て、自分が作っている。
養老 孟司
*
中三のカナリも夏休みに入り、学校の課題を片付けながらも、残りの時間は存分に将棋の研究に費やすことができた。
ある朝、師匠家族と一同に会した朝食が済むと、
「カナちゃん。
大山先生の棋譜は勉強したことあるの?」
と師匠に尋ねられた。
「いえ・・・。まだ・・・」
と即答すると、師匠も即座に
「なら、僕の部屋から全集を貸したげるから、夏休み中に勉強してみたら?」
という有難い申し出に、一も二もなく
「ぜひ、お願いします」
と頭を下げた。
『大山 康晴 全集』は、分厚い全三巻の千頁を裕に超す「棋譜集」である。
ソータ師匠は、小学生の頃、すでに全部を盤上に並べて勉強したという。
なればこそ、中学デヴューの頃、棋戦の解説者をして
「十四歳とは思えない、老獪な指し回しですね。
まるで、背中のチャックを下ろしたら大山先生が出てきそうです」
とまで言わしめた。
「昭和の将棋の神様」のすべての棋譜が、師匠のアタマの中には入っている。
そう思うと、自分も、何の因果か、同じ大山姓・・・。
しかも、「桂つかいの名手」と同じ「桂成(カナリ)」・・・と、どこまでも、大山将棋に因縁がある名前なのであった。
中三の受験勉強なぞそっちのけで、カナリは大山名人の棋譜を盤上に並べて、その指し手を検討しながら頭に叩き込んだ。
そして、千にも及ぶ棋譜の五合目辺りにさしかかると、何とはなしに、大名人の「読み」が解かるような気がしてきた。
これは、彼女に授けられた「ギフト」すなわち「天賦の才」でもあった。
【二つわるいこと さてないものよ】
という俚諺がある。そうなのである。
捨て子にして、孤児院育ち。
実父・実母を知らずして育ったが、どれほど多くの人たちに助けられ、支えられ、そして、愛されてきたことか・・・。
そんな、自分の身の上を「望外の幸せ」と感ぜずにいたら、バチアタリのニンピニン・・・という誹りを免れないだろう・・・と、彼女は自覚していた。
であるからして、努力して、勉強して、自分は恩人たちに何としてでも報いたい、「世と人のお役に立つ人間にならせてもらいたい」と、強く肚(はら)を括っていた。
カナリの「天賦の才」に、「常人ならざる出自」、そして「史上最強棋士の師匠」という稀有なる要素により、後々、「不世出の最強女性棋士」として棋界史に刻まれる事になろうとは、神ならぬ身ゆえに、まだ彼女は知る由もなかった。
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