イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
イエスのあかし
「上から来る方は、すべてのものの上におられ、地から出る者は地に属し、地のことばを話す。天から来る方は、すべてのものの上におられる。
この方は見たこと、また聞いたことをあかしされるが、だれもそのあかしを受け入れない。
そのあかしを受け入れた者は、神は真実であるということに確認の印を押したのである。」(ヨハネ3:31-33)
---
イエスはあかしする。いつもあかししている。
しかし、地の言葉を話し地の論理で生きる私たちには、そのあかしを理解できない。
そもそも、そのイエスのあかしは、私たちに本当に必要なのだろうか。
ユング心理学者の河合隼雄氏は、「痛みを感じると言うことは、自分を自分として意識することの始まりであるといえるかもしれない」(「影の現象学」,p.208)と書いており、これは、痛みがあってこそ初めて人は自分の内面に気付くということだろう。
そして、自分の内面がぼろぼろだったと分かったときにはじめて、人は救いを求め天のあかしを求める。心の貧しいと気付いた人は幸いなのだ。
この天のあかしをどこまでも追い求めようとしていると、恵みによって、天のことばによるあかしが突然ねじ込まれる。自分が何かをしたからあかしをゲット!できるという因果関係なのではなく、あるとき突然、あかしの方から自分の内に飛び込んでくるのである。
そして、「神は真実であるということに確認の印を押した」というのは、確認の判子を押さざるを得なくなったのであり、喜んで押印しましたというのではない。
あかしの意味は、ゲット!するのではなくやってくるものなのだ。
神が真実だと承伏したとき、その人は死んで、よみがえる。
イエスの十字架と復活の後に続くその先には、この神との和解がある。
心乾いていた者は潤い、心の貧しき者は満たされる。価値観は転倒する。
救世主イエスは多くの者をこのように救いたく、今日もあかしし続けている。
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健やかな一日をお祈りします!
この方は見たこと、また聞いたことをあかしされるが、だれもそのあかしを受け入れない。
そのあかしを受け入れた者は、神は真実であるということに確認の印を押したのである。」(ヨハネ3:31-33)
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イエスはあかしする。いつもあかししている。
しかし、地の言葉を話し地の論理で生きる私たちには、そのあかしを理解できない。
そもそも、そのイエスのあかしは、私たちに本当に必要なのだろうか。
ユング心理学者の河合隼雄氏は、「痛みを感じると言うことは、自分を自分として意識することの始まりであるといえるかもしれない」(「影の現象学」,p.208)と書いており、これは、痛みがあってこそ初めて人は自分の内面に気付くということだろう。
そして、自分の内面がぼろぼろだったと分かったときにはじめて、人は救いを求め天のあかしを求める。心の貧しいと気付いた人は幸いなのだ。
この天のあかしをどこまでも追い求めようとしていると、恵みによって、天のことばによるあかしが突然ねじ込まれる。自分が何かをしたからあかしをゲット!できるという因果関係なのではなく、あるとき突然、あかしの方から自分の内に飛び込んでくるのである。
そして、「神は真実であるということに確認の印を押した」というのは、確認の判子を押さざるを得なくなったのであり、喜んで押印しましたというのではない。
あかしの意味は、ゲット!するのではなくやってくるものなのだ。
神が真実だと承伏したとき、その人は死んで、よみがえる。
イエスの十字架と復活の後に続くその先には、この神との和解がある。
心乾いていた者は潤い、心の貧しき者は満たされる。価値観は転倒する。
救世主イエスは多くの者をこのように救いたく、今日もあかしし続けている。
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健やかな一日をお祈りします!
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