刺激はまた渇く

 「あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」
 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:12-14)

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 「この水を飲む者はだれでも、また渇きます」。
 何が渇くのだろうか。もちろん魂が渇くのである。
 渇くとどうなるかというと、刺激で一時しのぎをしようとするのかもしれない。
 刺激といっても様々なものがあるので、ここでは物欲に絞ると、衝動買いという言葉もあるように、消費することそれ自体が刺激を与えてくれることがある。
 もちろんそんな刺激はすぐになくなるから、また刺激を求めてショッピングを続けることになる。
 しかしこれは満足感とは全く異なる。
 というより、この満足感の代わりに、いっときの刺激で埋め合わせているように思える。
 ここに出てくるサマリヤの女は、満足できずにとっかえひっかえした男に刺激を求め続け、そうしてつまはじきになっていったから、悪循環から抜け出せずにもがいていただろう。

 だがイエスが与えようとする水を飲むと、もう渇くことがない。
 つまり、心満たされ、満足感を得るのである。刺激は不可欠ではなくなる。
 マモニズム、物質主義が与え続けるこの種の刺激から、私たちは自由になる。
 神と富とに仕えることはできないのである(マタイ6:24新共同訳)。

 私たちは、本来何に心満たされるように造られているのか。
 見失ってしまったこのことを、イエスは回復させてくれるのである。

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 健やかな一日をお祈りします!

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