和解

 「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。
 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示3:19-20)

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 キリストは、愛する者を格別にお取り扱いになり、そしてその人の戸を叩く。
 キリストが叩いたのだと分かる者、キリストの声をそうと聞き分ける者は、その戸を開けてキリストを迎える。
 そこでキリストと共に囲む食卓は、神との和解の食卓だ。
 神の側から、和解の手を差し伸べてくださった。

 こちらから出掛けていってキリストを見つけるのではない。
 キリストが戸を叩くのを、私たちは待ち続けるのである。
 このように、神のわざは、どこまでも人間の側が受け身になる。
 懲らしめもまた、私たちのために神がお与えになる。
 この懲らしめのない人は神から見放されている、という旨をヒルティが書いているが、それは私もそう思う。

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[一版]2008年11月 3日
[二版]2011年11月23日
[三版]2014年 4月 6日
[四版]2018年 9月11日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

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刺激ばかり追い求める人々

 「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」(黙示3:17-18)

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 ラオデキヤ教会へのイエスのメッセージ。
 この教会は、金持ちが多かったのであろうか。

 この世でカネの力は、とても強い。
 富者に群がる人も大勢いるほどであることは、小説「杜子春」にも描かれている。
 杜子春は最後に目が覚めたからよかったが、そのような人は現代にはあまりなく、さらにたくさん儲けようとする。
 しかし彼らもストレスを感じるのだろうか、他人に当たる。迷惑を掛け、妨害をする。
 それが自分の強さだと勘違いして我が物顔なのだから、手のつけようがない。
 しかし、それにしても、手に余るほどのカネは、彼らの心をかけらでも満たすのだろうか。
 彼らの求めているものは、むしろ刺激なのではないか。ゲームのハイスコアを目指そうとする類の刺激のように見えて仕方がない。
 彼らには満足感の類がないのだ。というか、満足しないから代わりに刺激を求める。
 内側からわき上がる満足感は、外からの強い刺激とはまるで違う。
 そして、刺激はその場限りのものだが、このイエスと共にある満足感を奪う者はいない。
 だから代替物としての刺激ばかりもっぱら追い求める彼らは「みじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者」としか言いようがなく、しかもその自身の姿に気付いてもいない。

 しかし、このラオデキヤの人々は気づき始めている。
 御父の恵みは、どの人にも降り注がれるのである。

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 健やかな一日をお祈りします!

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パトモス

 「私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。」(黙示1:9)

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 イエスにある者と、そうでない者とは、何かが決定的に異なる。
 品行方正だ、とか、いい人だ、というのではない。
 イエスにある者には、御国の約束がはっきりと見えているのである。
 彼が選んだのではない。彼は選ばされたのだ。
 イエスとの出会いによって、選ばされた。
 だから、その約束は架空のものや思いこみによるものではなく、実際にあった出会いに基づいているから、御国とは現実的なものなのである。
 これを言い換えると「いのち」となる。

 世では苦難が絶えない。本当に絶えない。
 だが私たちは、その現実的な御国での、救い主イエスとの再会に思いをめぐらし忍耐する。
 その私たちは今は、パトモスにいる。

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[一版]2008年11月 1日
[二版]2011年11月19日
[三版]2014年 4月 5日
[四版]2018年 9月 9日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

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666シャツ

 「また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。
 また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。
 ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。」(黙示13:16-18)

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 数ヶ月前なので2018年6月頃であろうか。
 帰路の乗換駅で、えらく趣味の悪いTシャツを来ている男を見た。
 そのTシャツには、黒地に黄色で「666」という数字が全身びっちりプリントされている。
 人によっては、蜂の巣の柄か何かに見るかもしれない。
 当初我が目を疑った自分は、ただ苦笑いするしかなかった。
 解釈のしようはないが、苦笑いした後複雑な思いを引きずった。
 この悪趣味な「666シャツ」は、これから目にすることが多くなるのであろうか。

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 健やかな一日をお祈りします!

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イエスを御子と信じる

 「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。
 なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。
 世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」(1ヨハネ5:3-5)

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 私たちの信仰こそ、私たちが世に打ち勝ったことの、なによりの証拠である。
 では、その信仰とは何であろう。
 「イエスを神の御子と信じる」ことである。
 つまり、どのようなイエスを知っているか、ということに帰結する。

 福音書を読んでイエスをあわれみ深いと信じることは、かなり容易だ。
 同様に、イエスを「癒し主」と信じることそれ自体も、たやすくできる。
 しかし、あわれみ深い人は今の世にも少しはいるだろうし、「癒し主」を称する人々も多い。
 だから特にイエスである必要がなくなってしまう。
 そうではなく、イエスが神の御子だと分かったので、このイエスを信仰するのである。
 むしろ、信仰せざるを得なくなった、と言う方が近い。

 そもそも、このイエスは何のためにこの世に来られたのだろう。
 なんといっても、極刑の十字架につけて死に、しかし神のゆえに三日目によみがえって多くの人の罪を処理済みにするためにである。
 神が人の罪深さを背負って死に、よみがえって、罪の赦しを与えたのだ。
 この復活のイエスに出会ったとき、イエスについての一切を了解し、上に書いたようにイエスを信仰する。
 そして、復活のイエスによって罪赦されたことを知ったとき「いのち」にあずかり、それで私たちは世を乗り越えることができるのである。

 そういうわけで、イエスを神の御子と信じることが、神の命令なのである。

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[一版]2011年 7月10日
[二版]2018年 9月 4日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

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神の愛、人の愛

 「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」(1ヨハネ4:9-11)

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 「私たちもまた互いに愛し合うべきです」は、1ヨハネのあちこちに出てくる。
 では、互いに愛し合うとは、どのような営みを言うのであろうか。

 御父は御子イエスの御業によって、私たちにいのちを与えてくださった。
 いいかえると、御父が私たちに与えたものはいのちであり、このいのちを与えてくださったことが神の愛である。

 では、その神の愛を受けていのちを与えられた私たちが、果たして人を愛することができるだろうか。ましてや、愛し合うことなどできるだろうか。
 いのちそのものを誰かに与えるというのは神ではないからできないが、いのちからにじみでる何か、それは、だんだんに人の心を開いてゆく。これが互いに愛し合うということの始まりではないかと思う。そして、互いに支え合い、互いに思いやるようになる。その過程で最も必要なのは忍耐であり、この忍耐もまた愛することに入る。というより、最大の愛かもしれない。

 神の愛を人は持ち合わせていないが、神に救われた者は人を愛することができるのである。
 そして愛は伝播する性質を持つ。愛されないより愛される方が心地いいのが明らかだからだ。
 だから、ひとりが救われることで周りが救われるということがありうるのである。
 もしも「さあ、今から互いに愛し合おう!」とやったら、一体どうなることだろう。

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 健やかな一日をお祈りします!

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『ことばや口先』の時代

 「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。
 それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。」(1ヨハネ3:18-19)

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 アメリカのある文化史学者は、20世紀になってからのアメリカは、「人格の文化」から「性格の文化」へと変容したと言っている。
 興味深いこの話を引用するのは長くなるので省略するとして、結論としては、人々は、「行ないと真実」からむしろセールスに必要な「ことばや口先」へと変わったのだそうだ。

 そうすると、「ことばや口先」へと変化してから100年経つ。
 この「ことばや口先」というのは、うわっつらなきれい事のことで、つまり実質がない。
 「ことばや口先」の時代は飽和している感があるが、実質の伴う「行ないと真実」へと単に再び変化するというのも難しそうだ。
 だから、実質それ自体を私たちは必要としている。それは勿論御父と御子である。
 「神の御前に心を安らかにされる」というのは実質に基づくものであり、誰にも確かなことである。
 そして私たちが「行ないと真実」で接するとき、心が通じるこころよさという、やはり誰にも確かなものが得られる。この「行ないと真実」も実質に基づくものであるが、もし「ことばや口先」で接するのなら、「絆」というあのスローガンに堕して実質がなくなる。

 本当に大切なものが見えづらい時代だが、私たちにとって最も根源的なものが何かを確かめ続けていきたい。

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 健やかな一日をお祈りします!

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御父の愛

 「私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。
 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。
 キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。
 罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。
 キリストが現われたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。
 だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません。罪のうちを歩む者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。」(1ヨハネ3:1-6)

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 「御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださった」ことだろうか。
 それはどのような形の愛だろうか。
 人間と同じ罪深い肉をまとった御子イエスを、この世に遣わして下さったことだ。
 ただ、「キリストには何の罪もありません」、肉を持ちつつも聖なる律法に逆らうことは全くなさらなかった。
 このイエスは十字架に架かって、その肉を処罰する。
 肉を処罰して、そして復活する。
 イエスによる罪の処罰、それを御父が認めて下さったのだ。
 ここに御父の世への愛がある。

 「罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。」というのは、まったくその通りだ。
 ところが肉を持つ人間には、聖なる律法を守り通すことが、どうしてもできない。
 「キリストが現われたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。」
 「罪を取り除く」というと、こびりついた汚れをこそぎ落とすイメージがあるが、私はこれとは異なるイメージを持っている。

 「ダビデもまた、行ないとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。 「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。」(ローマ4:6-8)

 罪深い肉を持っているにもかかわらず「罪をおおわれた」、「罪を認めない」。
 罪の上に何かきらめくものがコーティングされている、そんなイメージだ。
 ともあれ、キリストが罪の赦しのために現れてくださったことには、変わりない。
 罪赦され和解が成り立ち、こころ騒がす罪は罪として認知されなくなる。
 御父はどんなにか、素晴らしい愛を与えて下さったことだろうか。

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[一版]2008年 1月12日
[二版]2018年 9月 1日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

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