イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
からし種ほどの信仰
「そのとき、弟子たちはそっとイエスのもとに来て、言った。「なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」
イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」(マタイ17:19-20)
---
イエスは言う。「からし種ほどの信仰」。
つまりそれは、信仰があるのである。
信仰とは、あるかないかのどちらかしかない。
たとえば、「信仰が30%ある」ということはない。
違う言い方をすると、信仰とは獲得するものではなく与えられるものである。
罪を自覚し、背負わされた十字架を背負って死に至り、そしてよみがえって与えられる。
このとき、私たちの内で、何かがごろっと大きく動く。まさに山が動いたのである。
もしも実際の山を動かすほどの力が欲しいとすれば、それは、自分こそ神になりたいというのと同義になってしまう。
そうではなく、信仰とは罪赦されて神と和解した結果、神と共にあるということなのである。
だから、信仰とは、あるかないかのどちらかしかない。
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[一版]2013年11月30日
[二版]2016年 5月22日
[三版]2018年 5月 5日(本日)
健やかな一日をお祈りします!
イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」(マタイ17:19-20)
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イエスは言う。「からし種ほどの信仰」。
つまりそれは、信仰があるのである。
信仰とは、あるかないかのどちらかしかない。
たとえば、「信仰が30%ある」ということはない。
違う言い方をすると、信仰とは獲得するものではなく与えられるものである。
罪を自覚し、背負わされた十字架を背負って死に至り、そしてよみがえって与えられる。
このとき、私たちの内で、何かがごろっと大きく動く。まさに山が動いたのである。
もしも実際の山を動かすほどの力が欲しいとすれば、それは、自分こそ神になりたいというのと同義になってしまう。
そうではなく、信仰とは罪赦されて神と和解した結果、神と共にあるということなのである。
だから、信仰とは、あるかないかのどちらかしかない。
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[三版]2018年 5月 5日(本日)
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